底流
総理官邸とその周辺を見下ろせる屋上に、男が立っていた。
耳元から、現場の中継が流れてくる。
「まもなく、無事着陸した専用機から──共和国の大統領が姿を現す模様です。
そして大統領を一目見ようと、多くの方がこの空港に集まっています。今か今かと……」
男は指先で音を落とした。
「……始めろ」
合図ひとつで、散っていた部下たちが動く。
「ご到着だ。──盛大に“お迎え”しろ」
独り言に重なるように、短い報告がいくつも届いた。
「設置完了」
「離脱する」
男は懐から小さなボタンを取り出し、押す。
「さぁ……開戦の始まりだ」
──何も起きない。
男は押した指を離さなかった。
遠くで、一度だけ乾いた音がした。
それきり、続かない。
景色は変わらず、風だけがフェンスを鳴らした。
「……お前達。ちゃんと設置したのか」
返事がない。
「……聞いてるのか」
沈黙。
「一人盛り上がってるところ悪いんですけど」
背後から、声。
「静かにしてもらえますか」
男は振り向くより先に、懐へ手を入れて拳銃を抜いた。
銃口を向ける。
塔屋から上半身だけを覗かせた男がいた。
「警戒するのは分かるけど……それは物騒すぎない?」
両手が上がる。
向きが、わずかに下へ振れる。
肩をすくめ、縁から躊躇なく身を落とす。
下で、靴底が鳴った。
そこに、立っている。
視線が胸元で止まる。
「……お前が何故、それを身に付けている」
狙いは外さない。
「その意味を知ってて付けてるのか」
塔屋の男は、胸元のそれを指摘されても、どこか楽しそうに笑った。
「これ? 特注品なんだよ。分かる人が見れば分かるんだな」
返ってきたのは、噛み合わない軽さだった。
「……俺も焼きが回ったか。こんな平和な国で、あの噂を知ってる奴がいるはずがない」
屋上の男は銃口を向けたまま、片手で目元を覆う。
肩が小さく揺れた。
「なあ。今の、何が面白い」
低い声が、背後から落ちた。
「……教えてくれよ」
離れていたはずだった。
ゆっくり手を外し、視線を戻す。
塔屋の男はいない。
代わりに、背中の温度があった。
互いに背を預ける形で、そこに立っている。
「……お前。何で言葉が通じる」
問う声に、塔屋の男は息を吐くように返す。
「それは――俺が、────だからだろ」
屋上の男の空気が変わる。
反転して銃口を向け直そうとした瞬間、手首を押さえられた。
塔屋の男の指が、拳銃の動きを封じる。
引き金が落ちる前に、滑りが止まった。
「まあまあ。落ち着いてよ。斃しに来たわけじゃないんだって」
屋上の男は抵抗をやめ、ゆっくりと手を離す。
ただ目だけが、殺す気のまま光っていた。
塔屋の男は、銃をいったん受け取る。
次の瞬間には、空になって戻ってきた。
屋上の男は受け取りながら、吐き捨てる。
「……お前は、 あちら側か」
「あっ、俺は……どちらでもないかな」
短い答えに、屋上の男は言葉を継ぐ。
「なら――俺たちの仲間になれ」
「一緒に目的を果たさないか」
そう言い捨てると、屋上の男は塔屋の男に背を向け、フェンスへ寄った。
「お前……何か勘違いしてないか」
「無事でいられるのは、俺の気まぐれなのに」
空気が重くなる。
塔屋の男は数秒だけ黙り、それから小さく息を吐いた。
「今日だけ、待ってほしい」
「……頼む。一日だけでいい」
「んじゃ、もう行っていいよ。おつかれ」
背を向けられた屋上の男は、胸元のナイフへ指をかける。
だが、すぐに離した。
何もせず、静かに踵を返す。
塔屋の男は、フェンスに寄りかかり、呟いた。
「な~んだ。これだけ隙を見せれば、来ると思ったのにな」
「……でも、終わりじゃないんだよな。面倒だ。誰か代わってくれ」
声は風にさらわれて、空へ溶けた。
────
機内。
「……準備は」
「整っております」
「彼は?」
「着陸後の確認で先に。戻りは夕方頃かと」
「なら、残るのは――」
「失礼ですが。通りません」
それ以上は言わず、大統領は身支度を整えた。
ハッチが開く。光が差し、地上の列がまっすぐ伸びている。
大統領は階段を降り、先頭へ声をかけた。
「今回もよろしく。君には期待している」
「ところで。君が先頭ということは――将軍は引退したのかね」
「健在です。あちらで、教え子の二人に所作を教えながら……こちらを見ておられます」
将軍が、こちらを捉えた。会釈ひとつ。
秘書が、短く息を落とす。
「……大統領」
大統領は笑いもしないまま、視線だけで返した。
「……読唇術に精通してたりしないよね」
「どうでしょう。少なくとも私は、伺ったことはありません」
「そうか。なら、願うだけだな」
「大統領。移動を」
歩き出しかけ、大統領は一度だけ振り返る。言葉は出さない。
隊員が、わずかに頷いた。
大統領は車へ向かい、SPと短く言葉を交わして乗り込む。




