始まりの音
そう言われた疾風は、
ただ二人の背中を見送ることしかできなかった。
雨上がりの街に、その姿はすぐ溶けていく。
その光景を横目で見ていた鴇冬が、
間を置いてから、静かに声をかけた。
「――あの二人が、何をするか気になるかい」
そう言われ、疾風が振り向いた瞬間、
小さな物を投げ渡される。
イヤホンだった。
受け取り、鴇冬の方を見る。
彼は言葉を使わず、耳に付けろと示す。
言われたとおり耳にすると、
聞き覚えのある声が、かすかに届いた。
最初は途切れ途切れだった音声が、
次第に輪郭を持ち始める。
――先ほど一緒にいた、テンたちの声だ。
思わず鴇冬を見ると、
彼は表情を変えず、ただ一言だけ告げた。
「私から、離れないように」
それだけ言って、先に歩き出す。
疾風は一瞬迷い、
それから、その背中を追った。
路上は朝の通勤ラッシュ。
人の流れは途切れることがない。
その中で、縁石に腰掛け、
周囲を警戒するように話し込む二人組がいた。
「兄貴。こんな所に居ても、
客なんて来ないんじゃないですか」
そう言いながら、男は落ち着きなく視線を泳がせる。
挙動不審という言葉が、よく似合っていた。
「お前……あまり不自然な真似はするな」
もう一人の男が、低く制す。
「このシマは、売りをしてた連中が
全員捕まったエリアだ」
「お前も、知らないわけじゃないだろ」
「兄貴。もしかして……ビビってるんですか?」
「少しくらい変な行動したって、
捕まりはしませんって」
軽い口調に、兄貴分の男は、
一瞬だけ視線を細めた。
「でも……あの噂、本当なんですかね」
「この町にいるっていう、守護者の噂」
距離を詰め、声を落として囁く。
「そんな噂、本気で信じてるのか」
「あるわけねぇだろ」
「こんなご時世に、お伽噺みたいな話を
信じてるのは……お前くらいだ」
そう言って、男は鼻で笑う。
「兄貴……笑いすぎですよ。
そんな大声出したら、周りが見てるじゃないですか」
「……自分、ちょっとトイレ行ってきます」
空気に耐えきれなくなったのか、
男はそそくさと立ち去った。
一人残された兄貴分の男が、
小さく舌打ちする。
「ったく……ちょっとからかうと、これだ」
「一緒に行動するのも長いってのに」
愚痴をこぼしながら、タバコの箱を取り出すが――。
「チッ……切れてやがる」
「こんなことなら、あいつに頼めばよかった」
そう呟いた、その瞬間。
差し込んでいた日差しが、
不意に遮られた。
「銘柄が違ってもいいなら、一本どうだい」
顔を上げると、
そこには穏やかな笑みを浮かべた男が立っていた。
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一方、公衆トイレ。
作業服姿の男が、
すでに先客として用を足していた。
床は掃除直後らしく、わずかに濡れている。
足を取られ、バランスを崩しかけるが、
男は何事もなかったように立て直した。
「兄ちゃん、何してる人?」
「この辺じゃ、見ない顔だね」
話しかけられるが、無視を決め込む。
「もしもーし。聞こえてますか?」
先に用を終えた作業服の男は、
手を洗うため、わざと距離を取った。
「ちゃんと聞こえるように話したんだけどな」
「……酔っ払いだったかな?」
その一言に、男は反射的に声を荒げる。
「誰が酔っ払いだ。
お前と一緒にするな」
「なんだ、聞こえてるなら最初から返事してくれてもいいじゃん」
「さっき転びそうになってたの見たら、
そう思っても仕方ないと思うけど」
「ところで、俺に声をかけてきた
お宅は何の用だ」
作業服の男は、首を傾げた。
「やっぱり酔っ払いでしょ? お兄さん」
会話は、意図的に噛み合わされていない。
「酔っ払いなら、何言っても許されるわけじゃない」
「安心して。
俺は冷たい目で見たりしないから」
男は胸を張る。
無視して立ち去ろうとした、その瞬間。
「もしかしてさ。
お兄さん、悪い人だったりして?」
足が止まる。
「……その反応。図星?」
作業服の男が、大きく息を吸う。
今にも叫び出しそうな、その仕草に――。
「待て」
「知りたいなら教える。
だから、その真似はやめろ」
根負けした男は、
無言のまま、連れ戻されることになった。
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「兄貴、戻りました。
……そちらの人は?」
「お前がいない間に助けてくれた恩人だ」
「同じように、人を待ってたらしくてな」
「兄貴がよくても、
相手は探しに行きたいかもしれませんよ」
「それは考えてなかった。
付き合わせて悪かったな」
「じゃあ、探すの手伝いますよ」
その言葉と同時に。
「――我が執事。
ここに居たのか」
探していた人物が、当然のように現れた。
「見つけたのか?
売人とおぼしき人物を」
「御主人様。
表で話す内容ではありません」
「そんなことを言ってる場合か」
会話に割って入るように、男が言う。
「……あんた達、薬が必要なのか」
「五万で……二十グラムだ」
作業服の男が、即座に反応した。
「それは、ヘロイン?
それとも、ZERO?」
「ZEROを知ってるとは珍しい」
「上の連中が、直接仕入れてるらしい」
「なら、今持ってる分、全部買う」
「金は、執事が持ってる」
「人目につかない場所へ移動しよう」
「案内を頼む」
「承知した。では、参ろうか」
執事を先頭に、
一行は、人混みの奥へと消えていった。
それが、
この街で“何か”が動き出した瞬間だと、
まだ誰も口にはしなかった。




