狭間
エレベーターに乗る二人。
ボタンを押し、上へ昇っていく。
やがて、エレベーターは最上階で止まった。
テンは先に降り、彼女がついて来ていることを確認しながら廊下を歩く。
扉の前で足を止め、カードキーをかざして解錠した。
「先、どうぞ」
促され、彼女が先に中へ入る。
見たことのない部屋の景色に、しばらく見惚れて立ち尽くしていた。
テンはそれを放って、近くのテーブルにカードキーを置く。
キャリーケースを引き、奥へ進んでいく。
各部屋を一通り見回ったあと、まだ動かない彼女へ近づいた。
「いつまで、そうしてる」
「いい加減……少しは動き回ったらどうだ」
返事はない。
テンは一度だけ彼女を見て、何か言いかけ――やめた。
代わりに、視線だけでフードを示す。
凛は一拍遅れて意味を理解し、けれど下ろす気配がない。
テンはため息をつき、手を伸ばした。
「あと……部屋にいる時くらいはフードを下ろせ」
言いながら、そのままフードを下ろす。
「えっ――」
不意打ちを喰らったような慌てた声。
けれど声は虚しく、フードは外された。
同時に、隠されていた長い髪がほどけるように落ちる。
そして現れた顔立ちは――見惚れるほど、整っていた。
テンは一瞬だけ言葉を失い、すぐに視線を逸らす。
「……なあ。なんで、フードで隠してる」
「そんなに魅力的なら、隠す必要ないだろ」
予想外だったのか、凛は目を瞬いた。
けれど、すぐにあっけらかんと答える。
「うーん。別に、フードしてても不便なかったし。顔が知られてない方が……」
それ以上、テンは何も言い返さなかった。
「……ついて来てくれ」
そう告げ、テンは歩き出す。
彼女が遅れずに来ているのを横目で確認しながら、間取りを一通り説明して回った。
部屋の間取りを一通り伝え、最後に寝室の前で足を止めた。
「ここが、君の寝る部屋」
「夜になると夜景が綺麗に見える。楽しみにしてな」
凛は一度、部屋の中を見てから、ぽつりと問う。
「……部屋は別なの」
テンは淡々と答える。
「俺は別の部屋で寝る」
「ここは好きに使ってくれ」
凛は納得したのか、黙り込んだ。
その沈黙を見て、テンは今更ながら“重要なこと”に気づく。
「……ねえ。名前、聞いてもいいか」
凛は短く答えた。
「凛」
テンも簡単に名乗る。
「テン」
その瞬間。
部屋のチャイムが鳴った。
テンが扉を開けると、一人の女性が立っていた。
きちんとした身なりの、ホテルスタッフらしい女性だ。
「あの〜、メモの件で来ました」
「内容なんですが、相手のことが分からず……選ぶのが難しいので、お伺いに参りました」
話を聞いている最中、テンの背後から遅れて凛が現れる。
凛の姿が視界に入った途端、女性の様子が微妙に変わった。
「……メモの件は、彼女のためで良かったですか」
言葉は丁寧なのに、視線は凛に釘付けだった。
「そうだけど。お願いできるか」
女性はテンを見ないまま頷く。
「構いませんが……一緒に連れて行っていいですか」
テンは一瞬だけ違和感を覚えた。
だが、そこに悪意は感じない。
「……いいよ」
二つ返事をした瞬間、女性は一目散に凛へ近寄った。
「――っ」
凛は戸惑い、どうすればいいのか分からない顔でテンを見る。
テンは扉を閉め、後を追うと、女性の首根っこを掴んで引き剥がした。
「そんなにいきなり近づくから困ってるだろ」
「もう少し離れてやれ」
首根っこを掴まれたまま、女性は平然としている。
「凛さんって言うんですね」
「私は藍です。よろしくお願いします」
テンは呆れて手を離す。
藍は何事もなかったように姿勢を正した。
「では、お互いの名前も知った事ですし――」
「楽しく行きましょうか」
凛はまだ警戒が抜けない。
テンは軽く肩をすくめて、話題を変える。
「藍。今日のディナーは……ビュッフェだよな」
「そうですね。このホテルの名物ですから。味は保証しますよ」
凛は会話についていけず、眉を寄せる。
「……ビュッフェって、何」
藍は嬉しそうに説明する。
「凛さんは、ご存じないのですね」
「ビュッフェとは、いろんな料理の中から食べたいものを選べるんです」
凛の目が、少しだけ大きくなる。
「……好きなだけ食べていいの」
「そうですよ。私も凛さんとご一緒に――」
そこまで言いかけ、藍はふと時計を確認する。
「……でも時間が決まってますから。早くしないと……」
その言葉に、凛が反応した。
「……時間が、決まってる……」
次の瞬間、凛は藍へ顔を向ける。
「藍。早く行って、お腹空かせて帰って来よう」
「凛さんが……私の名前を……」
藍が感動している間にも、凛は部屋を出ようとする。
「だから、藍。早く道案内して」
さっきまでの人見知りが嘘みたいな行動力だった。
藍は慌てて凛を追いかける。
その背中に、テンが声を投げる。
「これ、持って行ってくれ! 凛を任せた」
テンが投げたカードキーは綺麗な弧を描き、藍の胸元へ飛ぶ。
藍はそれを器用に受け取って頷いた。
「任せてください。行ってきます」
二人が部屋を出ていき、テンは取り残される。
テンはベランダへ出て、手すりにもたれた。
その時、携帯が鳴る。
「もしもし。何で怒ってるか分からないけど」
「頼んだ写真の女、何者か分かったか」
『……』
「え? 寝顔の写真をどうしたかって?」
「寝てる隙に撮ったに決まってるだろ」
『……』
「てか、なんでそんなに怒ってるんだよ」
「理由は言わないけど写真は全部消せ、だと?」
「せめて何者かだけでも教えろよ」
『……』
「はあ? 教えない。文句言うだけかよ」
『……』
「今、その女がどうしてるか教えろ?」
「一緒にいるけど、今は買い物に出掛けた」
『……』
「なに? 手を出すな?」
「出す訳ねえだろ」
『……』
「分かった。手は出さないし、盗撮もしない」
『……』
「お前……要求ばっかしやがって」
「結局、何も教えてくれてねえじゃねえか」
『……』
「仕舞いには自分で調べろ、だと?」
「散々好き勝手言いやがって……覚えてろよ」
テンは一方的に言い切って、通話を切った。
その夜。
買い物から帰って来るなり、すっかり仲良くなった二人はビュッフェへ向かった。
そして散々騒いで散らかし、部屋へ戻ると仲良く眠りにつく。
後始末をある程度片付け終え、テンは部屋の電気を消して外へ出た。
ホテルの外へ出ると、自販機で飲み物を買う。
近くの広場へ向かい、ベンチに座る人物の隣へ腰を下ろした。
「こんな所で、何してる訳」
「お前こそ……部屋を出て来て良かったのか」
「その言葉、そのまま返すよ」
「俺は……ほら、彼処に居るから問題ない」
テンが視線を向けると、近くに停めてある車がある。
「……なあ。寝てる人を、わざわざ連れてきたのか」
「元々寝てたんだが、抜け出すのに失敗してな」
「気付かれて、着いて行くと聞かないから――連れて来た結果が、あれだ」
「なんと言うか……楓が不憫でならないなあ」
「俺に同情はしないのか」
「同情の余地はないだろう。この人でなしが」
「そんな事言って……お前こそ、戻ったら起きてるかも知れないぞ」
「一緒にいるだろう」
「その件だけどなあ……調査依頼するのに写真を送ったら、めちゃくちゃ怒ってたぞ」
「結局、何も教えてくれないし」
「要求ばかりで、何も進展がないんだが」
「……あいつが教えてくれない時点で、粗方予想がついただけ」
「いいじゃないか」
「なら、本当に……そう言う事なのか」
「食べ物に目が無い所は似ているが……」
「ちなみに、お前……あいつから金は貰ったか」
「いいや。大事そうにしてるから貰ってないよ」
大方、“大事に使え”と釘を刺したんだろう。
「生憎、それを奪う程……困ってはいないから」
その言葉に相手は、少しだけ笑った。
だが、すぐに声が落ちる。
「もし、見捨てるなら……その前に言ってくれ」
「なんで、悪い方向の会話しか出来ない」
「……あいつ次第だが、屋敷で雇ってもらい」
「いずれは……離れで引き取る予定だよ」
道を作ってやれても――決めるのは本人だ。
それを聞くと、相手は立ち上がる。
「起きる前に戻るかな」
去り際、相手はテンへ振り返った。
「……楓の前で、次に会う時は」
「会ってない振りをしてくれ」
テンは渋々頷く。
「……わかったよ」
車が夜の闇に消えるのを見届け、テンはホテルへ戻った。
部屋へ戻ると、さっきまでと状況は変わっていない。
――ただ、テンの部屋だけが違っていた。
「寝惚けて部屋を間違えたのか」
「それとも自分の意思で来て、俺が戻って来たから慌てて隠れたのか」
ベッドの布団が、不自然に盛り上がっている。
その上、キャリーケースまで開けられていた。
「……俺が布団を取る前に出て来て説明しなさい」
しばらくの沈黙。
やがて渋々、布団にくるまったまま顔が覗く。
「テンは……警官なの」
立場が逆になっても、テンは冷静だった。
「違う……どちらかと言えば悪者かな」
凛は布団にくるまったまま、小さく言う。
「だから、これを持ってるんだね」
そう言って、凛は“隠してた物”をテンに向けた。
「凛……どうしたいの?」
「それを、大人しく渡してくれないか」
凛は答えなかった。
布団の中で一度だけ身じろぎし、ゆっくりと布団を押しのける。
向けていた“それ”を下ろし、
何も言わずに、ベッドの上へ置いた。
そのまま、凛はテンに近づく。
足取りは覚束なく、距離が詰まった次の瞬間――
力を抜くみたいに、もたれ掛かった。
(……ごめ)
テンは、何も言わなかった。
ただ、倒れかかってきた体を支え、
しばらくそのまま立っていた。
やがて、凛は小さく頷き、
何も言わないまま、藍が眠っている自分の部屋へ戻っていった。
「凛。パジャマ、似合ってるよ」
返事はなかった。
けれど、扉の向こうで口が動くのが見えた。
――「ありがとう」。




