届かない位置
この日、
殴りつけるような雨の中、
街のシンボルの前に、ひとりの男が膝をついていた。
肩で息をし、うなだれるその姿は、
通りすがりの誰かが足を止めるには、十分すぎるほどだった。
……俺は……君を…………。
声にならない言葉は、雨音に溶けて消える。
この街――獅子の町。
交番の脇にある蛇口から、
ホースを繋いで水を引く男がいた。
「おい、テン。
毎回ここから水を引っ張るなよ」
警官の忠告に、男――テンは振り向きもしない。
「町のシンボルは、綺麗でないと」
その言葉に、警官は小さく舌打ちした。
「まぁまぁ。私から言い聞かすから」
割って入った声に、警官が目を向ける。
「鴇冬署長……。
なぜ、こんな所に」
驚きに、鴇冬は苦笑を返した。
「たまには、自分の足で署に向かうことがあっても
おかしくないだろう?」
「そ、そうですね……失礼しました」
警官は慌てて敬礼する。
「そんなに固くならなくていい」
鴇冬はそう言って、警官に近づいた。
周囲には聞こえない距離で、耳元に声を落とす。
最近、夜間に職務質問を名目に、
女性へ不適切な声掛けをしている警官がいる――
そんな噂が、署に届いている。
「何か、心当たりはないかな」
一拍の沈黙。
「……存じ上げません」
警官の返答に、鴇冬は一歩距離を取った。
「そうか。
もし何か気づいたことがあれば――
この町の警官全体の“沽券”のためにも、教えてほしい」
それだけ言って、背を向ける。
「テン、行くぞ」
呼ばれたテンは、ホースを引きながら後を追った。
並んで歩きながら、テンがぼやく。
「タイミング、計ってやがったな」
「お前が言うより、効果的だろう」
「それでもな。
情報を掴んだのは俺だぞ」
「だからこそ、有効に使う」
鴇冬の言葉に、テンは不満を隠さない。
「それで?
何を企んでる。
あんたが車に乗らない時は、決まって何かある」
不敵な笑みが返ってくる。
やがて、街のシンボルが見える距離まで来た。
その傍に、一人の男が立っている。
「疾風。
こんな所で、何してんだ」
声をかけられた男――疾風は、軽く一礼した。
「呼ばれて来ただけだが」
テンはすぐに察し、振り向く。
視線の先にいるのは、鴇冬だった。
「あんたの狙いは、疾風か」
「そうなるな。
署に呼んでもよかったが、こっちの方が都合がいい」
テンは鼻を鳴らす。
「お前、何かやらかしたのか?」
「やってない。
……俺が生きてる時点で、分かるだろ」
疾風の言葉に、テンは目を細める。
鴇冬が静かに告げた。
「していないと思うから、ここに呼んだ」
「人混みで?
矛盾してないか」
「だから、お前がいる」
その一言で、テンは全てを理解した。
「……だから、あんたが嫌いなんだ」
像の上に座り、テンは目を閉じる。
深く息を吸い、
再び目を開いた時――
視界の中で、いくつかの“違和感”が形を持ち始めていた。
テンは、これが偶然ではないと理解していた。
「なぁ、疾風。
あそこにいる二人組……お前の所じゃないよな」
「どこだ?」
「二時方向。十五メートル先」
同時に、別の声が重なる。
「違うな」
振り向けば、テンの隣に男が立っていた。
「……ジン。
お前も呼ばれてたのかよ」
ジンは答えず、疾風に確認する。
「本当に、組の人間じゃないんだな」
「違う。
下は全員把握している」
「なら、ホシだ」
鴇冬は淡々と結論を出した。
「協力、感謝する。
あとは、こちらで対処する」
「テン。
お前も分かってるだろ」
「分かってるよ……」
ため息とともに、テンは像から降りた。
「疾風。貸し一だからな」
「声かけるなよ。
かけたら殴る」
そう言って、テンとジンは人混みへ溶けていく。
残された疾風が、鴇冬に尋ねる。
「……大丈夫なんですか」
「問題ない。
やり過ぎたら、止める役も用意している」
鴇冬は視線を人波へ向けた。
その先にいる“誰か”を、見据えるように。
「君は、彼らの強さを知っているか」
「ええ。
特に、テンは――」
「そうだな。
なら、これ以上は無粋だ」
鴇冬は言葉を切り、口をつぐんだ。
そして、この場にいる誰もが、
これが“始まり”であることを口にしなかった。




