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夢と知りせば 第二章  作者: 七瀬あきら
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第9話 待ちし夜の 「みつばち」

京の七夕を境に、それまでまったくおしゃれに興味がなかったわたしも、ちょっとくらいはメイクを頑張ってみよう、という気持ちが芽生えた。みっちゃんは簡単そうにやっていたけれど、いざ自分でやろうとすると、これがなかなか難しい。眉毛は左右対象に描くことができないし、どれだけビューラーを使っても睫毛は全然上を向かない。ブラックのロングマスカラ、ブラウンのアイシャドウ、ピンクのリップ。どれもこれも馴染みのないものばかりで戸惑うけれど、カラフルな絵の具のようでわくわくする。みっちゃんからもらったお古のヘアアイロンで髪の毛をくるくると巻いたら、代わり映えのない黒髪が、少しだけ華やかになった気がした。これも河合神社に美人祈願をしたおかげか。さすが、みっちゃんサマサマである。


「御坂さん、最近シフトたくさん入ってるね」


祇園のおばんざい屋「花の」にて。アルバイトが始まる前にまかないを食べていると、突然、先輩にそんなことを言われた。お店で提供しているおばんざいはおいしいだけでなく栄養バランスも抜群だから、ひとり暮らしのわたしにとっては、野菜をたくさん食べられる貴重な機会となっている。このまかないを食べられるだけで、「花の」でアルバイトを始めた甲斐があるというものだ。


「そういう先輩だって、3日連続じゃないですか」


「俺は実家も近いしサークルも入ってないから。でも、御坂さんって地元は名古屋でしょ? 帰省しないのかなって。他のバイトの子たちはみんな帰ってるのに」


「早く新しいカメラを買いたいので、夏休みのうちにがっつり稼ごうと思ってるんです。明日の五山の送り火を見てから、1週間だけ帰省する予定です」


「ああ、そうなんだ。いいよね、送り火」


去年、初めて間崎教授と見た五山の送り火を思い出した。あの時は帰省中に呼び出されて怒りを覚えたけれど、オレンジ色の炎を見たら、そんな感情はどこかに吹き飛んでしまった。魂が浄化されるような、あの尊い炎をもう一度見たい。そのためにわざわざ帰省の期間をずらして京都に留まっているのだ。今はアルバイトの人手も足りないし、稼ぐにはちょうどいい。


フルタイムで入ると日付を越える時もあるけれど、今日は9時で他のアルバイトさんと交代をする。稼ぎは少ないけれど、早く帰れるのはありがたい。明日に備えて、今日は体力を養っておこう。


アルバイトを終えて外に出た瞬間、ポケットに入れていた携帯電話がぶるぶると震えた。見ると、画面には「間崎教授」の文字が表示されている。


わたしは乱れた髪を左手でちょっと撫でつけて、軽く咳払いをした。こんな時間に電話だなんて、明日の念押しだろうか。忘れているわけないんだから、電話なんてしてこなくてもいいのに。


「はい、もしもし……」


『遅くにすまない』


どうしたんですか、こんな夜に。心配しなくても、明日のことは忘れていませんよ――用意していた言葉は、喉の奥に引っ込んでしまった。電話越しに聞こえる声がいつもと違うことに気づいてしまったからだ。


『明日の送り火だけれど――急遽――地元に帰らなければいけなくなって……』


教授の言葉がモールス信号のように途切れた。背後から駅のアナウンスらしき声が聞こえてきて、今、駅のホームにいるのだということが分かった。


『約束していたのに、本当に、申し訳ない』


風が吹いて、たった今撫でつけた髪の毛が散り散りに乱れた。「花の」の店内から、お客さんたちが談笑する声が漏れてくる。まだ蒸し暑いのに、体の芯が、急速に冷えていくような感じがした。


「……大丈夫です!」


わたしは自分に言い聞かせるように答えた。


「わたしのことは全然気にしなくていいですから、行ってきてください。きっと大切な用事なんですよね。わたし、ひとりでも大丈夫です。教授に見せられるような、去年以上の写真を撮ってみせますから」


『……ありがとう』


その一言を最後に、慌ただしく電話が途切れた。


携帯電話をポケットに戻し、わたしは停めていた自転車の鍵を外した。しん、と静まり返った祇園の路地裏を、自転車を押して歩いていく。


そうか。一緒に、見られないのか。「来年もよろしく」と、去年送り火をふたりで見たあと言ってくれたのに。でも、仕方ない。あの教授が五山の送り火を見ないなんて、よほど事情があるに違いない。身内に不幸があった、とか。いつも意地悪な教授にあんな風に謝られたら、許すしかないじゃない。


わたしは短く息を吐いて夜空を見上げた。この間はあんなにきれいに見えた星たちが、今日は一つも見えなかった。






楽しみにしていたはずの8月16日は、なんだか目覚めが悪かった。重たい体をのろのろと動かして顔を洗う。テレビをつけると、「今日は五山の送り火!」と、女子アナウンサーの陽気な声が聞こえてきた。


「今年もこの日がやってきましたね。東山に大の文字、続いて松ケ崎に妙・法、西賀茂に船形、大北山に左大文字、そして、嵯峨に鳥居形が……」


わたしは虚しくなってテレビを消した。卓上カレンダーを見ると、「送り火」の文字と目が合った。8月に入ってから、1日が終わるたびにバツ印をつけて今日を待っていたのに、そんな子供みたいなことをしていた自分が恥ずかしくなった。遠足の日を待つ小学生でもあるまいし、何でこんなことをしていたんだろう。


亀のようなのろさで髪を梳かし、かろうじてメイクと髪の毛をセットして、朝ご飯も食べずに部屋を出た。自転車に乗って出町柳に向かう。甘味処「みつばち」にて、みっちゃんと会う約束をしているのだ。


まだ開店前なのに、店の前には数人お客さんが並んでいた。先に並んでいてくれたみっちゃんと合流して、開店と同時に店内に入る。15分ほど待って出てきたのは、この店の名物である「あんず氷」だった。


「おいしい!」


スプーンですくって口に入れた瞬間、わたしとみっちゃんは同時に声を上げた。


「やっぱり京都の夏といえばかき氷! 蜜がとろとろ。ね、琴子」 


「本当、ものすごい濃厚……」


わたしは目の前でてらてらと光るあんずの蜜をまじまじと見つめた。祭りの屋台にあるようなものと全然違う。まるで宝石みたいだ。舌の上で甘さが弾けて頬がゆるんだ。かき氷って、こんなにおいしかったっけ。甘酸っぱくて、すごくおいしい。


「あんみつもおいしいんだけど、このあんず氷は夏だけしか食べられないんだよね。夕方に来ると売り切れちゃう時もあるらしいから、お昼に来れてよかった」


みっちゃんは幸せそうな表情でスプーンを進めている。普通、かき氷を食べたら頭がキーンとなるものだけど、どうやらそうはならないらしい。最近のかき氷はどんどん進化しているなぁ、と、考えながら、あんずの蜜を味わった。


そういえば、間崎教授は見た目に似合わず甘党だった。伊藤久右衛門で抹茶パフェを食べたり、知恩寺の手づくり市でマカロンを買ったりしていたっけ。ここのあんず氷も気に入るんじゃないかな。この味を知ったら、きっと、喜ぶだろうなぁ。


「琴子、そのメイクいいね。髪もうまく巻けてる」


「そう? みっちゃんに教えてもらった動画を見ながらやったんだけど、まだ全然慣れなくて」


「若いうちにいっぱいおしゃれ楽しまないとね。あ、このあとまだ時間ある? 河原町に服買いにいこうよ」


「うん、そうだね……」


わたしは笑みを作ろうとしたけど、なぜだかうまく笑えなかった。あんず氷はこんなにおいしいっていうのに、スプーンをうまく動かすことができない。みっちゃんが、わたしの顔を心配そうにのぞき込んできた。


「どうしたの? おなか冷えた?」


「ううん、何でも……あっ、そうだ。よかったら」


――五山の送り火、一緒に見ない?


「何?」


「……ううん、何でもない」


わたしは喉まで出かかった言葉を体に戻すように、あんず氷を口に押し込んだ。


「とっておきの場所があるんだよ」


去年、教授はそう言って大文字がよく見える場所まで案内してくれた。とっておき、だから。秘密にしておきたかった。教えるのは、もったいないと思った。


ばかだな、わたし。ひとりで見たって、さみしいだけなのに。


しぼんでいくわたしの気持ちを表すように、あんず氷はどんどん液体に変わっていった。






夜。去年と同じように大学のキャンパスに自転車を停め、吉田神社の鳥居前に行ったけれど、やはり教授の姿はなかった。「行けない」と言われたくせに、もしかしたら、なんて、限りなく0に近い可能性を期待してしまった自分がまた、いやになった。わたしは重たい三脚を担ぎながら、のろのろと吉田山を登っていった。


去年、教授に教えてもらった「とっておきの場所」。ここからだと、燃え上がる大文字を静かに眺めることができるのだ。同じ吉田山の山頂にある喫茶店「茂庵」は、教授の講義を受けていた学生全員に教えていた。だけど、この場所を知っているのはわたしだけだ。わたしだけに、教えてくれたのだ。


三脚にレンズをセットして待ち構えていると、去年と同様、8時ちょうどに大文字山にぽっと光が灯った。美しく燃え広がる炎を逃すまいと、わたしは真剣にシャッターを切った。祈りを捧げるように燃えるオレンジ色の炎は、遠くで見ているとは思えないくらい迫力がある。この景色を独り占めだなんて、ある意味贅沢なのかもしれない。街中の人たちは人混みに揉まれながら見ているんだろう。それなのに、こんなに静かに送り火を眺めることができるなんて、幸福なことだ。


それでも、なぜだろう。去年と同じ光景のはずなのに、送り火は同じように燃えているはずなのに。去年の方がずぅっときれいに見えた。おかしいな、ピントが合っていないのだろうか。わたし、去年より撮影が下手になったのだろうか。考えている間にも、どんどん炎は弱くなっていく。


――本当、は。


この景色を、教授と一緒に見たかった。去年と同じように見られると思っていた。ひとりで見たって意味がない。美しさは、共有しないと輝かない。仕方のないことなのに。誰も悪くなんてないから、責めることすらできなくて苦しいのだ。わたしはその場に座り込んで膝を抱えた。


ああ、そうか。これが「さみしい」という感情か。どうしたって思い知ってしまう。去年は教授がいて、今はいない。たったそれだけで、こんなにも景色が変わるなんて思わなかった。撮影をしなきゃいけないのに、もう立ち上がることすらできない。心がどんどん真っ暗になる。 


その時、どこからか足音がした。顔を上げると、黒い人影が近づいてくる。


「教授……?」


期待と不安を込めて、おそるおそる名前を呼んだ。近くで見ると、それは確かに間崎教授だった。走ってきたのか、肩で息をしている。うずくまっているわたしを見て、安心したように息を吐いた。わたしは慌てて立ち上がった。


「どうして……帰省したんじゃ」


「さっき戻ってきた。約束、していたから」


萎れていた感情が一気に膨らんできたのが分かって、思わず顔を背けた。周囲が暗くてよかった。泣いていることに、気づかれなくて済む。


「でも、もうすぐ終わっちゃいますよ」


もうすでに炎は盛りを過ぎていて、蝋燭のような灯火しか見えない。だけど教授は気にする様子もなく微笑んだ。 


「君が撮ってくれていたんだろう」


「あ、あたりまえです。ばっちりです。完璧です」


「優秀だな」


周囲では風の音に混じって虫が静かに鳴いている。さっきまで感じなかった夏の夜風が、そよそよと木々を揺らしていた。教授は疲れを吹き飛ばすように、めずらしく大きく伸びをした。


「夕食がまだだから、付き合ってくれないか。君はもう食べたんだろうけど」


「大丈夫です。今日、あんまり食欲がなくて、おにぎり1個しか食べてないんです」


「じゃあ、ちょうどいいな」


カメラと三脚を片づけて、わたしたちは吉田山を下り始めた。足取りが軽いのは、教授に三脚を担いでもらっているせいだろうか。ううん、きっと違う。そうじゃないことを、わたしは知っている。


「また君にお詫びをしないといけなくなったな」 


山道を歩きながら、教授が言った。去年も確か、いきなり実家から呼び出したお詫びと言って、わたしのすきな場所に連れていってくれたっけ。よく考えたら知り合ってまだ半年も経っていなかったのに、遠方である正寿院に連れていってほしい、だなんて、図々しいお願いをしたものだ。約束を守ってくれただけで十分嬉しいのだけれど、今回は、その言葉に素直に甘えようと思う。


「ぜひお詫びしてください。また正寿院の時みたいに、わたしのすきな場所に連れていってくださいね」


「どこか行きたい場所の目星でも?」


「はい」


わたしは大きくうなずいて、教授に向かって微笑んだ。


「とっておきの場所があるんです」


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