二.深き心ざしを知らでは
遅刻確定だ。まさか竹本に再三起きるよう促されて起きなかったとは、我ながら人格を疑うね。というか、いぎたない姿を竹本に見られていたとなると赤面ものだ。
昨晩、竹本を自宅に泊め、一緒に登校する誘いを受けるという幸運をゲットした俺だが、朝寝坊をしたために、竹本は既に学校へ出発してしまった。
寝坊の原因ははっきりしている。竹本が隣の部屋で寝ていると知った俺は日付が変わってしばらく経っても眠りに就けなかったのである。そんで睡眠不足の俺は、起こそうと枕元で奮闘した竹本をタイムアップさせ、母親に怒鳴られて起きたと。まあ、まず遅刻確定だ。
高校初の遅刻の危機に瀕しているが、こういうとき考えてしまう。いっそ休むか、と。しかし数秒後には、そんな度胸は無いと気付く。行くなら一秒だって早い方がいいよな。善は急げって言うし(誤用するときは堂々とするといい)。
一通りの準備を音速で済ませて、家を飛び出した俺はマッハで駅まで行って電車に乗った。高校の最寄り駅に着いたら光速で走る。一つアドバイスをしてやると、走ることに大して意味は無いのだ。試しに走って登校してみるといい。走ろうが歩こうがどうせ同じ信号で足止めを食らう未来が待っているだけだと気付くだろう。徒歩十分は、走ったら七分だ。四、五分にはならん。その数分が運命を変えることがあるのか、メロスにでも尋ねたらどうだろう。存外間に合いそうだぞと走っていると——焦っている人間にアクシデントが降りかかるというのは常識だが——俺を災難が襲った。
学校まであと百メートルといった距離だろうか。そろそろ脚がもたねえぞというところ、一心不乱に前進する俺の前方に小さな影が横切った。何だあれ、とその物体を目で追っていたら、誰かと正面衝突。俺は鎖骨辺りを強打してその場に尻もちをついた。
「痛ったい! 誰なのよ、もう」
同じく尻もちをついた女子生徒がそこにいた。星陽の制服と黒くて真っすぐな髪が見えた。顔は手で覆われ、微妙に俺の方から逸れている。
「あ、すみません」
一応先手で謝っておく。だが俺からするとなぜこの人とぶつかったのか謎であった。だって前方に人はいなかったし、左は車道で右は校庭に面した柵だ。この人はどうやって飛び出してきたのだろう。俺の声に気付いてその人はこっちを向いた。
「あなた、何てことするの! 走ったりなんかしてて。絶対ケガした」
顔を押さえている。どうやら俺の鎖骨があの子の顔面にヒットしたらしい。申し訳ないとは思うが、
「失礼ですけど、どっから飛び出して来たんです?」
その子は顔から手をどかすと柵を指さした。好みの顔だと思った。が、無視してくれ。ただの妄言。
「そんなの学校からに決まってるじゃない。生徒なんだから」
朝から学校の柵を乗り越えて公道に飛び出す人間とは初対面だから戸惑った。きっとハードル走を朝練でやっていたところ、勢いがつき過ぎてしまったのだろう。
「違うわよ。誰が朝から校庭の柵でハードルなんかするもんですか。あれ追っ掛けてたの」
今度は道路を指差す。対岸の歩道には一枚の紙飛行機があった。船体は猫じゃらしの茂みに引っ掛かっている。ほう、あれを追い掛けて。そうか、なるほど。最近の若い女性は無性に紙飛行機で遊びたがるものだからね。
「ねえ、ちょっと引いてる?」
ドン引きしている。急に目の前の美人が夜叉に見えてきた。アブナイ人間に出逢ってしまったのかもしれない。事が荒立たないうちに失礼しよう。春は不審者が多いからな。
「ち、違うのよ。あれは部活のあれで。今日って新入生の歓迎会があるでしょ?」
その子は頬を赤らめて両手をブンブン振った。一応人並みの羞恥心は持ち合わせているらしい。少し警戒レベルを引き下げる。
「あれが学校の外に出て行って、じゃあ自分も出て行こうと思ったわけだ」
俺が言うと、不満そうな顔でコクリと頷く。
「まだ俺にぶつかったから良かったものの、車もあるから——」
「わかってるわよ!」
車が通らないのを確認して、その子は紙飛行機を取って帰って来た。きびきび歩く子だ。
「まあ、私も謝るわ。最近おかしなこと続きで注意力が散漫になっているのよ。ごめんなさい——って聞いてる? 何よその表情。じろじろ見て。私の顔に虫でも付いてる?」
「おい、鼻血出てるぞ」
「へ?」
その子の鼻から一筋の赤い線が垂れていた。もしかして俺がぶつかったからか。俺はポケットからティッシュを取り出す。その子は鏡を見て——怒っていた。
「どうしてこんなときに鼻血なんか出るの! 人生で初めて出た。最悪。しかも他人様の前で。どうしよう!」
「ほら、これ使って」
俺がポケットティッシュを袋ごと手渡すと、その子は遠慮なく何枚も使って止血した。結局左の鼻にティッシュを詰めていた。なんかすまんな。
「ありがと。助かった」
鼻声で言う。あんまり助かった人の鼻に見えない。俺は投げ出されていた紙飛行機を拾い上げて手渡す。この機体は無事らしい。
「ん、ありがと。昨日一生懸命折ったの」
「いいフォルムだ。無駄が無い、シンプルな形」
俺が適当に感想を述べるとその子は笑顔を浮かべた。これを飛ばさず、鼻血の栓を詰めていなかったら竹本に負けない、可愛さポテンシャルがあると思った。
「ねえ、アンタ。名前訊いてもいい?」
「アンタ」と呼ばれるくらいなら。
「相田周太郎、二年六組」
「シュータロー? 呼びにくいわね。改名したら教えて」
あら、そう。ガッカリだ。君は?
「蘭実代。二年一組」
聞いたことがある。昨日、冨田が踊り場で教えてくれた美人かつ変人。こいつが「アララギみよりん」というやつと同一人物? 俺が記憶を探っている間、なぜかその子はじっと目を瞑っていた。何か手違いがあってキスする場面に切り替わっていたのか。と思っていたら急に目を開いて俺の頬を両手で挟んだ。
「え、う、嘘よね。そんなワケ無い、そんな……でも見えた。いやいや、この人が私の将来——? んん、違う、わよね。あれ、だけど」
一人で勝手に混乱している。大丈夫か? こいつ。今は顔を桜のような色に染めて俺を丹念に眺めていた。と思ったら目を背ける。
「わ、ごめん。とにかく不束者ですけど、これからもよろしくお願い致します」
いきなり敬語。顔を打って駄目になったのかもしれない。
「まあ、学校に戻ろう。完璧に遅刻だ」
時計によると五分遅刻。結局こんなけったいな騒動に巻き込まれたおかげで遅刻だ。しかしアララギは俺の手を力強く握った。
「大丈夫。オール・ライトよ。私に策がある」
アララギは自信満々に言い切った。正門に立つ教師に対し、アララギは「相田さんが怪我をした私を介抱してくれたために遅刻しました」と言い切って乗り切ったのだった。俺が怪我したアララギを助けたのは事実ではある。何で鼻血を出す事件が起きたのかは上手く誤魔化していた。それで無事遅刻を免れることができたようだった。意外と弁が立つ人間なのだなと思った。教室が別なので別れるとき、
「また会いましょう」
とアララギは言って、腰まで伸ばした艶やかな黒髪を翻し、ニコリと笑う。俺は「はいはい」と返事しておいたが、ああいう面倒くさいトラブルメーカーには金輪際関わらないようにしようと心に固く決めた。出逢い方として「激突」はベター過ぎて——昔の人が垣間見婚するくらいベターだった——俺はアララギがさして重要人物とは思わなかった。




