三十.貝なしと(30)
俺はいつの間にか仰向けに寝かされ、美月の膝の上にいた。
「ルナ、わかっただろう。君のエゴは周囲を不幸にするだけだ」
父親の声が聞こえる。
「助けて! 今すぐ助けて! い、嫌です、シュータさん死んじゃう。お父さん助けてください!」
「その程度の肉体の損傷なら、命まではなくならない。ルリくんの応急処置で一命は取り留めるだろう」
「そ、そんな問題じゃないのです。お父さんは人の気持ちがわからない! 私が指摘しているのは最初からそのことなんです!」
「人の気持ち? それだってルナが手に入れたと勘違いしているものじゃないのか。そんなものは初めから無いんだ。記憶を取り出せばわかる」
ルリの影が振り向いたのがわかった。記憶を消されてしまう。
「だ、ダメですよ! 絶対ダメ」
ルリの叫びは届かなかったようだった。美月はぐらりと俺の上に覆いかぶさった。俺が霞んだ目を開けて美月を見る。俺の血液で赤いペンキを被ったような美月は、ぼんやりと「なに、こわい」と呟いて顔を上げた。
「おい、みつき……?」
美月は飛びのくように、咄嗟に俺の元から離れた。俺は目眩のする重たい頭を持ち上げて、美月の影を追った。美月は部屋の隅でびくびく震えていた。何だよ、その反応。おい、まさか本当に記憶を消したのか。父親は――もう父親なんて呼びたくもない。元凶の科学者はただ冷たい視線で美月を眺めていた。
「ルナ、この人たちが誰だかわかるか?」
「わかりません。お父さん、怖いです。何が起きているんですか」
抑揚のない声。本当に、俺たちを知る前に戻ってしまった。俺は怒りを迎える前に、寂しさと絶望に打ちひしがれた。どうして、美月がこんな目に合わないといけない。
「ルナ、この人たちは〈過去〉から君を連れ戻すために来ている。彼らの元へ行くか、此処に残るか。選ぶといい。その代わり、別れを選ぶなら二度と会えない」
「わかりません。頭が痛い。この人たち怖いです」
「ルー、ニー……」
俺が声を掛けても、
「来ないで、ください」
美月が涙目で俺を見つめた。――終わりだ。全部終わりだ。もう、打ち切りだ。
「い、一旦引きましょう。不利ですよ」
唇が震えるルリがそう言った。記憶を消した張本人は、ポーカーフェイスを崩さぬまま、怯える美月にジャケットを掛ける。美月が子供のように彼の足に縋って俺たちを注視していた。警戒心がむき出しの冷たい視線だった。
「先輩、これは、無理だ!」
無数の切り傷でダメージを負ったノエルが磯上から距離を取った。磯上も打撲痕があって決して無事ではないが、互角では当分決着がつかない。俺も瀕死の重傷だ。
――もう、美月を置いて逃げる以外の選択肢が残っていなかった。
「美月は最初から、お前のものじゃない。これ以上傷付けるな」
磯上が戦意を失った俺たちを蔑む。この目つき、忘れもしない。
「美月は未来で大人しく、静かに過ごしていればそれで幸せだったんだ。お前らと過ごした日々には何の意味も無い。結果的には美月を苦しめただけだ」
そう言って冷笑した。意味が無い? なら今まで美月は何の意味もなく笑っていたのか。怒っていたのも、泣いていたのも意味の無いことだったのか。そんなはずない。そんなはずはねえんだよ!
「うあ、ああああ、あ!」
意味が無いのは、お前の方だ。美月を縛り付けて、人形のように扱って何の意味があるんだ。それで美月を取り戻して、何の意味が生まれるんだ。お前らにとっての美月の存在価値は何だ! 俺は血痰で絡んだかすれた喉で何とか叫んだ。
「っつ!」
「お前を、ここで、倒して、美月を!」
無我夢中で磯上の首に掴みかかり、両手で力いっぱいに締め上げた。磯上が必死に手を振りほどこうとする。二人で床を転がり、抵抗されると両腕を振り回して、やたらめったらに全身を殴り飛ばした。くたばれっ、クソガミ! 磯上はこめかみから流血する。片目で睨み、俺の腹に足を当て、蹴り飛ばしてきた。
「うあああ!」
傷口が開いて激痛が走った。
「ゴキブリのような生命力だな!」
磯上は刃物を取り出して、俺に一歩ずつ近づく。
「もういい。もういい! 俺たちの負けだ。それでも手を下そうとするなら、お前も道連れにする」
ノエルが俺と磯上の間に立ち塞がった。
「シュータくん、無茶しないでよ、死んじゃうよ。やばいって」
ルリが介抱しようとする。自分でも驚くくらい力が残っていた。でも、ここまでだ。痛すぎる。拍動に合わせて、血液が信じられないくらいドクドクと流れ出た。四つん這いになったまま、何とか腹部を圧迫して流血を抑える。一歩も動けない。
「みつき。――たけもと、みつき!」
力いっぱい、声の限りその名前を呼んだ。ルリは泣きながら俺の声を聞いている。ノエルは「もう喋るな、先輩!」と叫ぶ。わかっているよ、もう届かないかもしれない。それでも諦めたくないんだ。
「美月! みつき……。大好きだよ」
「みつ、き? ……わたし?」
美月がわずかに声に反応した。父の陰で無様な俺を見ている。
「ルナ、聞くな」父親が制する。
「美月、思い出してくれ。忘れないでくれ。俺が、相田周太郎が、君を好きだったこと」
美月は俺を不安げに見ていた。
「みつき。しゅうたろー?」
「俺だよ、相田周太郎だよ。ごっほごほ、うっ。みつき、思い出せ」
「シュータ、さん?」
あ、ああ。
「美月、手紙を読め! 忘れそうになったら、何度でも渡した手紙を読んでくれ。また、絶対にまた会いに来る。だから――」
「あ、シュータさん……」
美月がわからないなりに、何かを悟る。俺が誰かはわからなくても、大事な人だということは覚えているみたいだった。手を伸ばす。俺もまた、必死に手を伸ばした。
「無駄です、シュータローくん」
「きゃああああ!」
父親が再び記憶の消去を働かせたのだろう。美月は頭を抱えて悲鳴を上げた。たとえ忘れてしまっても、美月のポケットには手紙があるから。大丈夫だ、もう。
「シュータローくん。君も辛いだろう。だったら君のルナに関する記憶も、ここで消してあげようか」
「やってみろよ」
「やってみろ?」
てっきり拒絶されると思っていたであろう彼は、一瞬動揺した。
「なら、本当にやってみようか。楽になると思いますよ」
ルリが叫ぶ。
「ちょっと、暴走です! ノエルくん止めて」
目を腫らしたルリがノエルを揺する。ノエルはルリを携えて瞬間移動し、俺の真横に来た。その瞬間、俺の頭に電撃が走った。感じたことのない衝撃が頭を襲う。
「逃げます。いいっすね」
「シュータくん、しっかり!」
最後に美月の姿を視界に収める。赤く濡れた美月は下を向いたまま父のズボンの裾を握っていた。俺の方を見向きもしなかった。完全に俺に関する記憶は消えてしまったのだ。
ノエルは瞬間移動で、研究所の連絡通路まで移動した。
さようなら、美月。




