三十.貝なしと(29)
「ここにルナの体内コンピューターが接続した脳内データがあります。記憶細胞と直結している」
モニターに無数の数列が現れた。美月の、脳内データ? スカートを翻してルリが立ち上がる。
「何をするつもりですか? たとえ身内でも、自分以外の内部情報を得るのは、重大なプライバシーの侵害です!」
父親は表情を崩さず腕を組んだ。
「記憶の研究というものがこの時代では進んでいます。人間の脳をハードディスクのように拡充することは、人類の目標の一つです。それに伴って記憶のメカニズムも徐々に明らかになってきました。妻の超能力研究の成果もあってね、つい最近わかったことがあるんです」
何を、するつもりだ。
「体内コンピューターと接続していれば、記憶は範囲を指定して取り出せる。もう一度移植することもできる。多少の周辺記憶も持ち去ってしまったり、取り残しもあるが大方記憶を操作できることがわかった」
「だから、あんたは何をするんだ」
「ルナから、タイムマシンの実験開始から二年半の記憶をすべて取り出す。忘れてもらうんだ。君たちとの記憶を」
それで何がしたいんだ。おい、ノエル準備しろ。
「君たちとの記憶が無い状態のルナに、答えを出してもらう。情が移る前の公正な判断を、唯一の反対者であるルナにし直してもらうということだ。悪くない考えじゃないか。別に忘却したままというわけでもない。いつでも記憶は復元できる」
だからって、そんな玩具みたいに記憶をいじってはいけない。
「お父さん、やめてください! 記憶だけは、思い出だけはどうしても」
美月が頭を押さえて必死に訴える。ノエル、行けるか。
「磯上くん、彼らを排除して欲しい。多少強引でも、元の時間軸へ帰ってもらいます。今の彼らに冷静な判断はできない」
黙々と状況を窺っていた磯上が、やっと出番だと腰を持ち上げる。ルリは逃げろ。ノエルも優先順位を間違えるんじゃないぞ。何が何でも美月の記憶を守ったまま逃げるんだ。
「やっと相田周太郎をこの手で裁くことができる。これ以上、美月を苦しめるお前の存在を、俺は許さない」
誰がお前の許しなんか欲しがった。俺は身構えた。磯上は右手からナイフを取り出す。
「シュータさん、逃げてください」美月が声を漏らす。
逃げないよ。ここまで来て逃げられるか。ルリは何してる?
「私だって怖いけど、イソガミくんを止めたいです。それに記憶の操作なんて間違ってるから」
どうする? 父親だって絶対に止めなきゃならない。悩んでいる間もなく、磯上が突進して来た。俺しか眼中にないらしい。凶器を持ってたんじゃ、太刀打ちは難しい。
「くっ!」
ノエルが果敢に蹴り込んでいく。磯上は避けて、背後に一歩ずつ後退していく。ルリ、お父さんを止めるぞ。俺とルリは父親の方へ向かおうとする。しかし、
「フハハッ」
磯上が気味の悪い笑い声を上げてノエルを突き飛ばした。〈身体強化〉だ。パワーでは絶対に勝つことはできない。
「相田周太郎!」
ハイになったクソガミが飛び掛かって来た。俺は目を逸らさない。ヤツは首か心臓を狙ってくるはずだ。初撃は綺麗に躱した。俺はすかさず胸元に掴みかかる。ノエルの戦い方の助言を思い出したからだ。刃先が当たらないよう自分から間合いに突っ込み、引き倒すんだ。
胸倉を何とか指先で引っ掛け、自分側に引き込む。クソガミの足がよろけたところを押し戻して、足をかける。そのまま磯上の体は後ろに、俺もろともに床へと倒れ込んだ。刃物を蹴り飛ばす。あと一押し。
――しかし蹴りが一閃。気付いたときには反撃されていた。打撃を受けて俺は倒れる。磯上は身を翻し、俺を拳で滅多打ちにした。
俺は捨て身で彼の胴体を持ち上げるようにタックルを仕掛ける。首の襟を掴まれたので、強引に自分の襟を引き裂いた。
顔を上げるとクソガミがいて、向こうではノエルがルリと美月の手を繋いで、瞬間移動の準備をしている。あとは俺だけ。俺なんかいいから行け、とは言えない。美月が俺を放っておけるはずが無いからだ。
俺は意地で磯上から距離を取った。ノエルが瞬間移動をする。背後に回って俺の手を掴もうとしたのだ。が、
「うっ」
――ボタボタと赤い血が流れる。クソガミは跳躍して回り込み、正面からナイフを俺の腹の深くまで刺し込んだ。
ノエルの手は届かなかった。そのままナイフはねじるように引き抜かれ、俺の腹を裂いた。自分の声がよく聞こえないけれど、醜い悲鳴を上げてその場でもんどりうったのだと思う。
「いや、いやぁ! シュータさん!」
美月が絶叫して駆け寄ろうとするのがわかる。来ちゃ駄目だ、磯上が……。でも、そんな場合じゃないのかもしれない。俺はふっふっと浅い息を繰り返す。ノエルが磯上に応戦し、ルリと美月が看護を始めている。
完全にカオスだ。――失敗だ。




