三十.貝なしと(27)
「私たちの時代には、AIや仮想空間に関する倫理観の基底をなす論文があることは、シュータローくんはまだ知らないだろうね」
伊部がそんなこと言ってましたけど、詳しくは知りませんね。
「あれは本当に出来た書物でね、まるで予言書だよ。未来を見知っている人間が書いたように」
そう言って、かすかに笑った。どういうジョークですか。
「ドッペルゲンガーの問題を話そう。もし自分のAIが人間として、一個の人格を持って活動していたら? あるいはもっと深刻な問題として、自分自身が複製されたAI側だったら?」
カズオイシグロが書いていたぞ。
「いや、まあ仮定だよ。人間のアイデンティティの原型はこうだ。『わたしはわたしであって、わたしはあなたではない』。そんなの当然だと思うでしょう。でも、人間が誕生したときからずっと、人類はこのアイデンティティだけは持ち続けていた、至極当然の真理なんです。わたしがわたしである以上、自由に操作できる。だが、ドッペルゲンガーが現れたらどうなるか」
覆る。「わたしはわたしであって、わたしはあなたである」。
「つまり『あなたはわたしである』ということ。しかし、「あなた」は別の意思を持っているため、思い通りにならない。アイデンティティの矛盾であり、崩壊だ。人間がコピーされ続け、ロボットにもなり得るということだ。ロボットのアイデンティティは『わたしというものはなく、あなたもまたわたしである』ということ。こちらへ近づいていくわけだ。相対的に個人の持つ個性の価値は減価する」
段々話がややこしいけれど、つまり「個」が消えちまうということだな。
「もし『相田周太郎』がロボットのように大量に複製されたとしよう。そこで、君自身が個性を出そうとして、『相田周太郎』らしくない行動を取ったらどうなるかな」
頭のおかしいやつ扱いされるだろう。
「そうだね。ロボットなら修理工場、人間なら精神病院行きだ。欠陥品、エラー、バグとなってしまう。つまり君は自由な行動を取ったはずなのに、『相田周太郎』ではないと判断されてしまう。「わたしはわたしではない、あなたがわたしである」ということだね。君の行動が『相田周太郎』を作るんじゃなく、『相田周太郎』が君の行動を決めることになる」
アイデンティティは俺の手から消えてしまう。倫理的な問題はわかりましたよ。
「二度と、複製した人格を作るなんて過ちは犯してはいけない。わかってくれましたか?」
すると美月案は完全却下ということか。ルリやノエルは沈んでいるが、そうなると気になるのがユリの〈良心〉の言葉だ。〈良心〉は母親が生きていると言っていた。それが本当なら、その希望に懸けてみたくなる。
「さて、もう一問だけど、これは君たちにも関わる重要な問題だ」
俺たちの時間軸の処遇か。俺たちの時間軸は失敗作だった。だけど、失敗作の中では成功作だったんだろう。他の時間軸は数秒と経たず、秩序が崩壊してしまうのに俺たちの方は持続している。
「そうですね。向こう十年は安泰ではないかな」
そんなに。やはり超能力の影響があるのだろうか。
「結論から聞こうじゃありませんか。お父様はどう思うのです?」ルリが訊いた。
父親は順番に俺たちを見つめた。
「私は処分すべきだと思っている。あなたたちにこんな結論を突き付けるのは心苦しいが」
「心苦しいとか関係ありませんよ。どうしてそんな結論に至ったのかです」
俺が正面切って返す。一拍置いて、父親は返答した。
「一つ、超能力を付与してしまったという倫理的問題。二つ、現在もこうして君たちが干渉してきているように、同じかそれ以上の実力を持つ、並行世界を制御できていないという危険性。三つ、今後タイムマシンの実験は当分再開されないため不要であること」
だからって、消えろっていうのか。それってつまり死ねってことだろ。
「シュータくんの言う通りですよ」
ルリが挙手する。
「――超能力を付与してしまったこと、制御・管理できていないこと、実験が再開しないこと。これらは全部、我々の都合です。命を扱う研究者の発言とは思えない」
「試験管の廃棄に許可がいるかな」
「我々が扱うのは、試験管じゃなくて人間です。人間を対象とした投薬実験で、失敗したから殺したなんて成り立ちません」
「彼らはコンピューター上のデータでしかないよ」
「矛盾しています。先ほど話していた倫理規定には、リアルの人間とデジタルの人間を区別しないという条文があります。人格の有無が人権保障をするか否かの判断基準だと。シュータくんたちには人格があります。消去はできません」
ルリが堂々と主張した。カッコいいじゃん。
「エロカッコいいでそ?」
お前にエロを感じたことは無いが。ノエルが身を乗り出す。
「本当は、何があなたにそう思わせるんですか? 本当の理由は」
父親は苦笑いを見せた。
「妻が消えて、娘が私の方針に反対して逃げ込んだ場所が〈過去〉なんだ。妻は戻らないかもしれない。ならば、ただ一人の大切な娘を同じように失いたくないんだ」
「なら、俺たちの時間軸は消去しなくてもいいってことっすか?」
「互いに干渉し合わないのであれば、自然消滅するまで保存していても構わない。けれど、ルナはもし君たちの時間軸があることを知っていたら、君たちに会いに行かずにいられないだろう。失敗した実験データに、私的な理由で潜り込むことは規約違反だ」
それはそうかもしれない。けど、美月の居場所は俺たちの時間軸にもきちんとある。安全を期すれば、美月一人が会いに来ることくらいは――。でも駄目なのだろう。俺たちの時間軸が安全でないことは、俺たちが一番知っている。




