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みらいひめ  作者: 日野
五章/石上篇  なごりをひとの月にとどめて
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二十八.尾を捧げて七度(17) 5

「待った。もう一つ訊きたい」

「私に?」


「うん……。お前に訊くのも変な気がするんだが、ミヨなら信頼できると思って訊く。ここ数日、俺の記憶がおかしいんだ。でも俺以外は何ともないらしい。それについて知らないか?」


 記憶の混濁が生じている俺の脳みそ。原因が未だにわかっていないのだ。


「……実は私も同じような症状なのよ。合宿中のことは、頭に靄がかかったように鮮明に思い出せないのね。体験としてじゃなく知識として覚えているような感じよ」


 やはり。それってミヨだけなのか?


「坂元ちゃんや、サナちゃんもそうだったらしいわ。だけど二人はだいぶ前から改善して、今じゃ普通に過ごしているらしい。私は昨日まではめっきりよ。温泉の臭気のせいかしら? 硫黄の作用とか……?」


 そんなに匂いは感じなかったけどな。温泉のせいで記憶障害が生じるなんてことも聞いたことが無い。場所的なことが作用したのかもしれないというのは一理あるかもしれないが、今までこんなことは無かった。旅行でテンションが上がっただけなのか。


「俺ひとりじゃないなら、にわかに怪しくなってきたな」

 俺は顎に手をやった。ずっと違和感があるんだ。


「怪しいって具体的に何が起きたと思うのよ。集団錯覚ってこと? あり得ないわ」


「俺はこの世界がまともで常識的で、本当につまらないものだと知っている。十七年生きてきたんだ。それくらい理解している。だけど、気味が悪いんだ。何かがずっと引っ掛かっている。ミヨは、ずっとどこかこの世界が間違っている気がしないか?」


 ついに口に出してしまった。ミヨ相手だと、どうしても正直に話してしまう。


 アリスがいて、普通の恋をして、普通に大学に行く人生。普通なのは承知で、だけどどこか間違っている。俺はそう思う。ミヨは顔を曇らせ、首をひねった。


「わからないわ。私は自分がおかしくなったのかと思うだけで、周りが変だとは考えられないもの」


 だよな。こんなこと言い出すのは、ただのバカだけだ。


「でもね、シュータの違和感は人間として正しいことなのかもしれないわよ。だって、違和感を抱くからこそ、発見が生まれるんでしょ。重力や磁場を発見したときだって、初めはそんな馬鹿な話があるわけないって思ったかもしれないわ。だけど実際に証明できたら、それは次の日から自然なことになるのよ。その違和感はキーになるかもしれない」


 俺が違和感の正体を追究すれば、か。アリスとの普通の学校生活を取るか、それを壊してまでも真実を得ようとするか。


「シュータの説は珍しくないのよ。グノーシス主義ってのは、偽物の神様が作った悪しき世界がこの世であって、本物の神が作った清き世界が別にあると思い込むの。プラトンのイデアだって、物質には本来の美しい姿があって、我々が見ているのは仮の姿でしかないのだって考えるじゃない? だから、本当にシュータの言う通り、私たちはあるべき世界にいないのかもしれないわね。この世界じゃなくて、別の世界こそが本物かもしれないわ」


 ミヨにそう言われると、俺も表情が緩んで笑ってしまった。そうかもな。俺は幸せすぎて現実を疑っていたのかもしれないな。


「ねえ、二人とも遅くない⁉」


 うわっ。いつの間にかアリスが俺の真横にいた。大声を出されて戸惑う。ミヨは「もっちー」と抱き付いた。「実代ってば~」とアリスは砂利の上に倒れてしまう。あらら。


「なあアリス」

「なあにシュータくん?」


「こんな世界間違ってるよ」


「モウイッカイイッテ?」


 ギロリ、アリスは首をもたげた。俺は溜息を吐く。


「いや、いきなり俺がそんなこと言ったらどう思うかなーって。ちょっと頭が狂っただけだ。すぐ回復すると思うけど、少し疲れているみたいなんだ」


 アリスに言っても仕方ないわけだし、あとで時間があるときにでも原因を考えればいいや。今はアリスたちと遊ぶ時間が楽しいのだ。一生こんな旅行が続けばいい。


「アリス、一緒にお守り買おうぜ」

「おう、いいぜ♪」


 一通りの散策を終え、昼食を終えた後はバスに戻って帰るだけだ。高速道路に乗ってバスを飛ばす頃には、再びクラスメイトたちが夢の中にいざなわれてしまった。車両が走るのは、夕方の黄昏時。オレンジのやたら目に入る夕陽とドス黒い雲の影。眠れない俺とアリスは二人でトランプをして遊んだり、喋ったり、無言でぼんやりしたりして時間を過ごした。

 今アリスは後ろの席を覗いている。深雪と片瀬ならおやつを食い疲れて寝ているだろ。


「バッチリ眠っちゃってますね。写真撮っちゃった」


 アリスが体を反転させ、戻って来た。ぐっすり眠っていればいい。二人ともうるさいんだから。隣の福岡と冨田も熟睡している。仲良さげに。静かでいいよ。


「ねえ、シュータくん。真面目に勉強しているアリスちゃんにお助けを」

 アリスが一問一答集を持っている。日本史なら得意だぜ。


「ここなんだけど」

 アリスがページを広げる。なかなか開いて見せてくれないので俺は身を乗り出した。


「どれだ? 張鼓彭事件のことか?」

「違うよ。これだよ、これ。近くで見て?」


 アリスに言われるがままページを見る。どう見てもノモンハンとか国家総動員法とかそういう赤字しか見えないのだが、何を解説して欲しいんだ?


「もういいから顔上げて」

「はあ? お前何言って――」


 ――――⁇


「いひひっ。油断しただろ。引っ掛かったな」


 いたずらっぽい笑み。アリス? アリスは問題集の陰に隠れて、俺の唇にキスをしたのだった。マジでキスされた? キスされた! 俺は唇を裾で拭う。まだ感触が残っている。


「嫌だった?」

「嫌じゃねえけど、見られてねえよな?」


「大丈夫。後ろは寝てるし、前からは背もたれあるし、隣からも本で隠したからOK」


「だ、大胆すぎるだろ」

「大胆に抱いたんだ。恋ならいつでもかかって来い」


 アリスがダジャレ連発で、でーんとドヤ顔をする。なんかもう、力抜けたぜ。


「お前、かわいいやつだな。底抜けに馬鹿でさ」


「ひどいなぁ。アリスだって真面目で必死だったのに!」



 コレデシュータクンマデワタシノテニオチタ。モウゼンブヲワリダネ。トウメイニンゲンヲオトセナカッタノワシッパイダッタケド、ジキニセカイワワタシノシュチュウニオサマルカラアンシンシテ。サヨウナラ、アナタノマケダヨ、ミツキ。シュータクンワワタシノモノダ。



「え?」

「おーうて! ちぇくめいと! うの!」

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