二十七.燕の持ちたる子安貝(25) 4
夜中にこっそり抜け出すなんてのは冗談で、冨田はぐーすか寝ていた。俺は明け方まで眠れなかったので浴衣のまま洗面所の電気を点けてスマホをいじっていた。眠れない。いや眠れないのではなく、眠ると向こうの世界に行くのだ。美月とミヨがいる世界。超能力と未来人がいる想像の世界。
俺は薄々予感していた。俺が見ていたのは夢だったのではないか。現実には美月なんていないし、ミヨは手の届かない人。深雪やアリスという普通の女の子を選ぶ、そんな俺が本当の俺なんじゃねーか。旅行先でスマホをいじって夜を越す俺。こっちの方がお似合いだ。鏡を見ると、寝癖が付いた気だるそうな目付きの俺がいる。相田周太郎らしい。
明け方、俺はロビーに下りた。旅館の自動販売機でお茶を買う。部屋に戻る頃には皆が起きているだろう。もしかして、俺がいるべきはこっちなのか、ミヨ。
向こうのミヨが何を考えているのかわからねえ。戻るのがちょっと億劫だ。いつ向こうに行くかもわからないんだよな。それって怖いものだ。俺はいつまでも夢のような高校生活を過ごすわけにはいかない。現実的にこれから俺はどう過ごすのか。俺はどう生きるのか。決めないと。
「シュータくん⁉ グ、グッモーニン」
アリスとばったり遭遇した。髪は乱れがち、浴衣は皺が出来ている。頬は赤い。
「おはよう。寝起きのアリス」
「うわー。会うと知っていればシャワー浴びてから来たのにな」
アリスは急いで着衣を整える。髪も手ですく。あれ? 俺は気付いた。
「こんなときでもヘアピン着けてるんだな」
アリスは黒目で俺を見た。
「外した方が可愛い?」
「別にそんなことない。いつも可愛い。けどアリスって青の髪留めも持っていたよな」
「交互に着けているの。勉強合宿の間は緑でいきます。シュータくんも着ける?」
「着けるわけねーだろ」
「でも勉強のとき前髪邪魔じゃない? シュータくんってどちらかと言うと前髪重めだし」
アリスは細い黒ピンを持って俺の前髪を横に流した。流した髪をそこで留める。アリスが差し出した鏡を見ると、俺の前髪は七三に分けられている。
「か、かわいいか?」
「めっちゃ可愛いよ! 写真撮って見せてあげたい」
見せるな。これは返すから。アリスからは返さなくていいと言われたので持っておく。荷物が増えることは単純に嬉しくない。ところでアリスの目的は何だ?
「も、目的とは?」
「一階に下りて来たってことは用事があったんだろ?」
「メロンソーダ無いかなって。飲み物探し隊です」
なぜ朝六時からメロンソーダ飲みたくなるんだ。今朝の朝食のメニューは塩鮭らしいぞ。どう考えても口の中シュワシュワさせたくないだろ。
「じゃ、取り急ぎビールかな」
「炭酸が好きなんだな」
アリスが抹茶ソーダと悩んだ挙句、やはりメロンソーダを買った。アリスは美味しそうにグビグビ飲む。プハーとCMみたいな飲みっぷり。爽快!
「朝から元気なアリスだ」
「そうです、あたすが元気なアリスです」
うふふふとアリスが笑った。こぼれるから蓋を閉めてくれ。アリスはエレベーターの方に歩いて帰る。ちょっと待てよ。訊きたいことがある。エレベーター前の絨毯の上でアリスがターンする。
「ミヨの親友だろ、アリスって。ミヨが何に喜ぶか、悲しむか教えてくれない?」
アリスは面食らって静止した。誤解されてる気がする。
「実代のこと、知りたいんだね。見た目に騙されているだけだと思うな」
あいつが救いようのないアホだということは知っている。それを承知で教えて欲しいんだ。深雪とは友達に戻った。美月には愛を伝えた。でも俺はまだ、ミヨに対して答えを出せていない。ミヨは答えを出してくれたのに。
「私に対しては答えを出してくれないの? シュータくん」
お前は死んだ。
「エレベーター来ないかな」
階数表示は上から下りて来る。6から数字が小さくなっていく。
「私の知っている実代は、ほんの一部だと思うよ。恐らくだけど、本物の実代は見えないところにいると思うんだ。迷路の奥じゃなくて、盤面をひっくり返した裏にいるのが本物の実代じゃないかな」
ペットボトルを弄ぶ。表面が結露して、水滴がしたたり落ちる。冷たい。こっちのミヨは石島が好きなんだってな。笑えるぜ。
「笑えないよ。私だって憧れちゃうような石島くんだよ」
「でもアイツは彼女を作る気ゼロ」
「え、それ本当⁉」
あ、こっちの石島のことは知らない。向こうでは、いっそ平等に接するんだみたいなこと言ってた。生徒会長として。受験終わるまではそっとしておいてやれよ。
「あ、エレベーター来たよ」
俺はエレベーターに乗り込んだ。その背中を見て、たぶんこいつは超能力を使えないのだろうと思った。アリスの能力は手の平から物を作り出す能力だ。メロンソーダが飲みたいなら、買いに来る必要は無い。エレベーターは空っぽだった。二人で広々と乗り込む。俺は五階、アリスは七階のボタンを押した。
「シュータくんの部屋番号教えてよ」
「513」
「ほーお。いいね。かしこまりました」
何が良かったのだろう。俺がアリスの横顔を見つめていると、アリスは口を開いた。
「実代の好きなことは、家族と一緒にいること。嫌いなことは――」
当ててみてもいいかな。アリスは目配せする。どうぞと。ドアが開いたので俺は降りる。513に帰らないといけないのでな。
「一人でいることか?」
「正解」
ドアが閉まる。アリスはバイバイをして俺を見送った。




