三.白山にあへば光の失する(8)
そのたったゼロコンマ何秒後。俺は反射神経をフル活用して石島の右手首を押さえた。
「お前、どういう了見だ」
石島は美月の手を掴もうとする直前であった。なぜ俺が悟ったのかわからない。でも瞬時にこいつが美月に暴力めいたことをすると予感したのだ。それは、生まれてこの方——もとい、片瀬以外から感じたことの無い——殺気というものを感じ取ったからだった。俺が睨みつけると、石島は先ほどとは打って変わって濁った眼をしている。言葉を発すること無く、拘束する俺の手をじっと見ていた。気味が悪い。生きている人間の反応じゃない。まるで霊に憑り付かれたか、ゾンビになったようであった。
「え、一体何ですか? シュータさん」
美月は声を震わせて状況を問う。美月も石島の異変に気付いたらしかった。
「逃げろ。遠くに」
美月が二歩後ずさってから一気に駆け出す。走り出したとき、俺は腹に蹴りを入れられていることは理解した。でも数秒間記憶が飛んでいて、気が付いたら四、五メートル後ろに倒れていた。このショッピングモールの通路の真ん中は一階から三階まで吹き抜けになっているんだが、そこの透明な柵を背に倒れ込んでいたのだ。
漫画みたいな話だけど石島に蹴られてぶっ飛んだのだろう。そして立ち上がれないくらいの激痛が腹に走った。周囲はかなりのパニックになっていた。気が付けば美月も遠くでぐったり倒れ、石島が取り押さえに来た男どもを全員吹き飛ばしていた。ありゃ常人じゃねえな。身のこなしが人間のそれではない。映画やアニメのような俊敏さだ。さらにあそこまで躊躇なく人を殴ったり蹴ったりできるのは、普通の感覚じゃない。俺は消えゆく意識の中、ミヨが駆け付けて来て俺を揺すっているのを感じた。
次の一瞬、俺はフードコートにいた。四人掛けの席に皆が元通りに座っている。
「私が時間を『遡り』ました」
美月が簡潔に述べる。俺たちは状況が飲み込めず、相変わらず沈黙を保っていた。
「ええと、イベくんの話を聞いてください」
美月は自分のスマホをテーブルの上に置く。そこに椅子に座りながらコーヒーを飲む伊部の姿が映った。未来からの通信ってスマホにキャストできんのかよ。
『おす、お久だな。皆テンション低いぜ』
伊部は笑ってるが、正直そういう気分じゃない。現代人三人は訳がわかってない様子だからな。さっきは何が起こったんだ?
「シュータと美月が石島くんにぶっ飛ばされた。とにかく石島くんが暴れていたわ」
ミヨはそう答えた。俺の見た情報と大して変わらないが。
「俺が蹴り飛ばされた限りじゃ石島はとんでもなく強かったぜ。石島ってイケメンは確かボクサーだか空手家だよな? だから強いのか?」
「空手家は俺っす。あの強さは常人の域ではないと思います。生身の人間を五メートル飛ばしていましたから。違うんでしょう?」
ノエルはスマホに問い掛ける。伊部は笑って頷いた。
『そうみたいだ。あれは、一種の超能力と言える』
おいおい。しっかりしてくれ、未来人。何人目だよ。俺も入れて五人目?
「私たちの不手際であることは認めます。イベくん、対抗策はありますか」
美月は切り替えが早いな。何となくノエルを見たが、こいつは目を細めて難しい表情をしていた。まあ、そう思うよな。俺もちょっと気になったぜ。
『石島ってやつの肉体は人間そのものだ。魔法とか未知のパワーで増強されているわけではない。あいつは筋力のセーブを自由に開放できるみたいなんだ』
セーブってなんだよ。
「シュータ、私たちは日常生活で筋力を百パーセント活用していないのよ。何パーセントを使っているかは諸説あるけどね」
そりゃ、歩いたり食べたりするのに全力は用いない。調節してるってのはわかる。そして全力を出そうと思ったとき、俺たちが十全に発揮できるかと言えば——ノーだろう。
「そうです。私たちはどんなに努力しても、正真正銘の全力は出せません。ですが石島さんはそれが可能になっていて、さらには理性を失って攻撃的になっている?」
美月がそう言うと、伊部は「そうだ」と言って説明を続けた。
『話が通じる状態ではない。暴れ回るだけだ。恐らくリミッターを壊す力が強力すぎて脳がその負荷に耐えきれないんだろう。だから目的はシンプルだ。ヤツの精神を抑え込む』
俺もミヨも首を傾げる。つまり具体的にどうするんだよ。
『石島の脳が覚醒状態のとき、つまり暴れてるときにルナの体内コンピューターから精神剤を注入する。五秒でいい。ヤツを押さえ付けてルナと五秒目を合わせる』
五秒間目を合わせる? 美月の視界にはデジタル画面が見えているし、そういう方法で薬を石島に投与できるのか。
『そう。作戦が完了したら時間を「遡って」無事平和に戻るってことだ。簡単だろ?』
伊部はそう言うが、あの状態の石島を五秒食い止めるなんて現実的じゃないのでは?
「とりあえずやるの! やってみなくちゃ結果は出ないわ! 結果往来よ!」
ミヨの合図で俺たちはぞろぞろと席を立った。
「あれ、美月さんに実代さん。それに、ああ、こんにちは。どうしたの?」
俺たち四人は揃ってゲームセンター前で石島を出迎えた。キラキラしたイケメンは、やはり俺の名前を思い出せなかったようだ。ノエルとは初対面かな。俺はこいつが再び暴れ出すきっかけを作るため、殴り掛かる役割を請け負っているのだが、これが覚醒しなかったらどうなるんだ? 傷害罪か? ボクサーだし、避けるよな。
「いいから、早く!」と小声でミヨ。
俺は一応ちょっと振りかぶって顔めがけてグーパンチ。当たったら「痛て」くらいの。俺の拳が頬に向けて直進する。顔の三センチ前で止められた。石島に微笑まれながら。
「どうしたんだい? 実代さんあたりが仕掛けたジョークかい? それとも?」
石島は、にこやかに俺の拳を掴んでいた。待て待て。覚醒しないぞ。普通に俺がケンカ売ってるみたいになってないか。と思ったら——徐々に瞳の光が失われていった。
「逃げろ、美月、ミヨ!」
ミヨはいるだけ邪魔じゃないか? 美月は最後に大役があるけどミヨは何もできない。作戦は男子二人で石島を羽交い絞め。その間に美月が精神剤とやらを与えて無力化し、時間を「遡って」無かったことにする。
女子はとりあえず避難誘導役に。まずは俺とノエルで勝たないと——いけないんだが俺は右拳を放してもらえない。やべ。そう思ったときには殴られていた。左頬に激痛。俺は第二の攻撃を防ぐために屈もうとするも、石島の左ストレートがみぞおちに直撃。まるで電車にはねられたように後ろにフッ飛び、ゲーセンの筐体に背中を痛打した。
「痛ってえな、筋肉野郎!」
粋がって叫んでみたが、駄目だ。目が霞み、全身が痺れて動けない。店内には悲鳴が上がって人々が逃げ惑う。店の外でも人々が避難を始めているようだ。
「シュータさん! そんな、しっかりしてください!」
気付いたときには美月が近くにいて俺を揺すった。辛うじて右目を開けると、美月がいる。死ぬ直前に見る美月も綺麗だな。よく見たら口内を切ったのか、唇から血液が流れ落ちている。みぞおちをやられたから息がしづらい。歯が立たなかった。石島をもう一度見る。すると、ノエルと格闘していた。石島が重い一撃を繰り出すと、ノエルは両腕で凌ぐ。攻撃を受けると瞬間移動して石島の背後に回り、蹴りを入れる。石島はそれを片手で払ってまた反撃を……という感じで互角に渡り合っていた。ノエルも強いのかよ。敵に回したら危ないな。これなら案外上手くいくんじゃ、そういう期待は長持ちしなかった。徐々にダメージが蓄積して防戦を強いられたノエルは、とうとう倒された。
「み、つき。失敗だ」
「シュータさん、無理して話さないでください。次こそは頑張りましょう」
ま、ノエルには希望を持てたし、次は決めようぜ。——瞬き。




