きっと誰もいたことのない時間の中で
ーきっと誰もいたことのない時間の中でー
やっぱり勝手に開けちゃいけないんじゃないかしら・・・・・・誰かに声をかけてみるわよ・・・・・・そもそも誰かって誰なの・・・・・・あそこに立派な鐘があるから少なくとも大きな公衆トイレではなさそうね・・・・・・えっ、役者が揃ったって言ってるの?
「こんにちは。ここは礼拝堂なんです」
相手が若い女とは言え、リト自身のように独り言をはっきりと口にしてしまうような者には、人には言えない類の親近感を持てたので、それでいくらか気が楽になり声が震えるでもなく、今は伺い知ることのない未来へ声をかけることができました。
「あっ!!」
リロは背後からの不意の声に両手を上げるほど驚いたので、リトも、太陽の妖精も、いつもの若造が上がってきていることを分かっていた画の中の天使も一斉に驚きました・・・・・・
「構いませんよ。どうぞお入りください。少し暗いので扉は開けときましょう。電気も点けますね」
リトは入口のすぐそばにある、四つの白いプラスチックのスイッチをパチン、パチンとつけました。壁の上の方で東西南北に設置された(上向きで)白くて弱い光の照明が点きました。周囲にある明り取りのステンドグラスだけでは全体の見えなかった丸い天井の画が浮かび上がると、想定外の景色にリロと太陽の妖精は口を開けて見入りました。
「二十年前、天井の画を分解して残すと、土台から何から建て替えたらしいんです」
いくらか自慢げなリトの声が天井の空まで届きます。そして汚れたスニーカーのまま壁に沿い、円形の室内を反時計回りで歩きだし、足音のしない板張りの床の途中に立つ温かな明かりを灯す背の高い四本の電気スタンドのスイッチの紐も引きました。
白く照らされた丸い天井の下における空間はどこか儚く温かい橙色に灯り、入口からの自然光が限定的な領域で混ざり込む礼拝堂の内部。今まで厚いコンクリートの壁に隔絶されていた暗闇の涼しさも雰囲気に加わり、リロは心と皮膚にその厳かで原始的な静寂を聞き取りました。リロの心はまるで澄んだ水のなかから光の原色を見つめました。リロの命の脈はリロのリズムを止めることなく、髪を引っかけた耳のその奥から語り掛けます。
時間は止まらない。ときどき間延びするだけ・・・・・・
「待ってたぞ太陽のクソ坊主!!」
天井で横を向きながら絶叫する、天使の声を聞いたのは二十歳の女の子の腕に抱かれる太陽の妖精だけでした。
礼拝堂の入り口は北側にありました。内部の正面は西側です。一段高い、細長のくし切り形をした壇上がそっちの方角にあるので、二脚のベンチもそのように並べられていました。西にある正面の壁には一畳ほどの薄いウグイス色をした無地のタペストリーが掛かっていて、上の方の左右から突き出る黒いパイプの先端は透明なライトでした。斜めの同じ角度から布の色をより鮮明に照らすようでした。
リトは正面の壁に埋め込まれた最後のスイッチを点けます。透明な光によって生地の淡い色合いがより鮮明になりました。若草を絞り、砕いた白い石の粉を混ぜる染料を用いられた、そんな色がはっきりしたところでどんな宗教のシンボルとは成りえないただの布切れでしたが、しかしどこか易々触れてはいけない気配はありました。もちろんこちら側の印象なのでしょうが・・・・・・タペストリーの前には、白と青の細かな四角いタイルで出来た、フライパンほどの丸い敷物があり、高さ30cmくらいのラッパ口をする深緑色のガラスの花瓶が置かれ、今朝リトが活けたばかりのヤマユリの大輪が、つまり西の足元から向こう正面の東を向き咲いていました。赤黒い歪なドットを派手に散らす、太めの黄色いラインを持つ六枚の白い花弁の先端は後ろへ反り、細長い緑色の硬そうな茎の下にはもう一輪、まだ八部咲きの花弁が完全開花へいきり立つ雰囲気を漂わせています。
意図せずに先ほど全員を驚かせたリトが扉を開けると、外の光を飲み込こんだ暗闇の高貴な強い匂いは、赤土にまみれた蛹のような雄しべから丸いタイルに花粉を散らすヤマユリだったのでしたが、プネッツを胸に抱いていたリロには天井の丸い画の光の柱から漂っているようでした・・・・・・
好きなだけいてくれて構わないですよ。ぼくは丘の階段の修繕をしていますので。まぁ、何かあったら声をかけてください・・・・・・
リトは昼過ぎから始めようとしていた「最後の仕事」の開始を早めました。ピンク色の薄いパーカーを着て男物のジーンズを履き、肩口の襟足が外へ跳ねる黒い髪の女の子の傍でウロチョロしていたかったのです。細い眉毛と切れ長の瞳には繊細さと気の強さが滲み、気の強さだけを残す上向きの鼻は、それでも小ぶりで可愛い。唇にはオレンジみのある口紅が塗られていました。リロは美人と言って差し支えありません。
たとえ閉じた扉の前で不思議な独り言を言う女の子であったとしても、初対面の色白な彼女と一言二言話せたことがどれほどうれしかったことでしょう。そんなわけで予定より早く作業をするにあたり、皺だらけのチノパンからかなり汚れているジーンズへ、誰も知らない、着ている本人さえ知らない、海洋生物だろうキャラクターのプリントTシャツから青いネルシャツへ、スニーカーから長靴へ履き替えたリトは、丘の下で青いビニールシートを被せていたスコップとハンマーと資材を、作業を始める段まで何往復かして運びました。昨日までとは違う量の資材を一気に持ち上げてみたり、やっぱり諦めたりで、つまり張切りざるを得ない浮かれ気分だったというわけです。
リロの腕の中にいた太陽の妖精が、天井にいる翼の欠けた天使(リロは翼の絵の具が足りなくなっちゃったか、剥げ落ちでもしたのかな? と思いました)の元へ迷いなく飛んでいくと前列のベンチに腰掛けました。手ぶらになって腰を下ろすと涼しさが増したような気がしました。見上げすぎたので首が少し痛かったらしく、グルグル回しました。
少なくとも二百年前にはあった(と今さっきの男の子から説明を受けた)室内の空と雲と光と、数えたら九人いる天使たちの制空権に、本物のプラネッツが浮かんでいる、という情景はこれまでの人生でもかなり超越した場面です。すっかり何もかもを忘れてしまっていますが、母親のお腹から生まれてきたとき、水の中の記憶をさっそく忘れ始めた瞼の中で、この星の光を直に感じたはずで、だからそのときとなら比較し得るほど特別な出来事だったはず・・・・・・きっと誰もいたことのない時間の中で押し黙ったままのリロは、翼の欠けている童顔の天使の一人と話している(らしい)プラネッツの後ろ姿を見守りました。
声を掛けたぼく自身も驚くくらい驚いたあの彼女は言った。
・・・・・・なんて言うか、何か見えますか?
でもぼくにはパーカー越しの平らな胸と内側を向く十本の細い指しか見えなかった。
リトは「最後の仕事」に取り掛かりました。雨はもう完全に上がっていました。そのうち雲の間から陽が出てくるとそれなりに蒸すのだろうな、と思いました。リトはこの仕事が終われば明日には村を離れることになるのでしたが、突然に現れた不思議なことを言う女の子に全神経を持っていかれ、根こそぎ持っていかれたので「最後の仕事」をしているときの気持ちや、ひと月ほど村に滞在することで関わった人たちへの諸々の感謝や、また最後の杭を打ち終えたときの達成感など、今朝から思い描いていたいくつもの心温まるシュミレーションはきれいな更地に整備されてしまい、妄想の中で交わす彼女との会話で賑わう建設ラッシュとなってしまいました・・・・・・