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「生れて初めて月の匂いを嗅いだ裏庭」その他・・・・・・

 ー見慣れない車ー


 衝撃だった田舎者の謝罪により、地理的な問題以前に孤立し、永遠に繰り返すゴシップと実際の季節の中で瞬く間に喪失されていた小さな村は「街」で生まれ育ったリロにすれば外国でもなく、世界の欠片ですらない別の惑星にある人里のようなものでした。

 リロは車の速度をグッと落とし、平地続きの途中に盛り上がる緑色した小高い丘に向かいました。

小雨のなか畑仕事をしている村人は見慣れない車に作業の手を止めました。牧草地に放し飼いされている牛や馬や羊もそろってリロの車を強く意識しました。興奮したと言えるかもしれません。簡素な柵の中でめいめいに鳴き、辺りをグルグル回り始め、前脚を高く上げて飛び跳ねたりしました。なかには柵に沿って車と伴走しました・・・・・・


 ー生れて初めて月の匂いを嗅いだ裏庭ー


 誰一人友達のいなかった高校を卒業したリトは、卒業後に就職した倉庫会社で夜間にフォークリフト運搬作業をしていたのですが、ある晩自分の不注意でパレットに山積されていた大量のオリーブオイルを崩してしまい、翌朝一番で激昂した所長の煙草臭い唾を目一杯被りました。しかし昼を過ぎて胸に手を当てた所長は、自分もかつては深夜の倉庫をホールトマトまみれにする倒壊事故を起こしたことがあり、今は亡き所長から「・・・・・・確かこういうお祭りが何処かの国であったよな」等と暖かく許され、逆に励まされもしたおかげで今があるのだから、と猛省しました。いまさら恥を忍び無口だったがまじめな若者の携帯電話へまずは留守番電話を入れました。それでも連絡はなく無断欠勤が三日続いたあと、誰よりも早くに所長を咎めていたベテラン女事務員の予想通り辞職願が届きました。


 去勢済みのシーズーにも見下されている、実家の部屋に籠っていた十九歳の三男は、成り上がりの労働者の家に生まれた出来のいい上二人の兄弟と比較され続ける半生にも、一度たりとて自己肯定を受け入れられなかった己にもほどほど嫌気がさし、世界でただ一人抱きしめてくれる母親に相談しました。

 「ぼく、しばらくどこからも逃げ出したいんだ」

 母親は夫に相談しました。息子よりもずっと深く夫を理解している妻の予想通り、成り上がりの父親は条件付きで承知しました。

 「あんなところだろうがどこだろうが、まずは朝に起きて夜は寝るようになってからにしろ」

 三男は同じ経度に留まりながらおよそ一年分の時差ボケと戦うのでした。


 リトはひと月ほど前から「羽のふる村」に来ていました。この地の血にルーツを持つ母親は二十年前の騒動のとき三人目の身重だった為に駆けつけることが出来なかった自分を、密かに今でも悔いていることを自身のなかで発見してしまうと、古いはがきを探し出し親戚にあたる人物へ連絡を取りました。お母さんの妹の名前を思い出してくれた電話の相手へ、息子の事情を説明しました。独り暮らしの相手は快く受け入れてくれたのでした。

 「・・・・・・それならしばらく私の代わりに鐘を打ちにきてくれてかまわないよ」老婆は強い訛りで、二十年以上も存在を忘れていた縁戚に電話口で頷きました。


 古い木造の平屋でひと月ほど寝起きしていたリトは、初めて見た老婆の、その難解な訛りにも耳がなれ、絵本の中の人獣が暮らしている家のような面食らった野性味ある匂いも今は気にならなくなっていました。

 足元に青い影を作る明るい月夜に、生まれて初めて月の匂いを嗅いだ裏庭以外ではこっそり口で息をしていたリトでしたが、これまでの全てから逃げることで必ず再生しようとした気概のまま、室内に漂うすえた匂いや、擬音の混じる訛りに慣れる前から自分でも驚くくらい自から話しかけ、実家では決してしたことのなかった家事の諸々も手伝い、ついには近所の家の簡単な畑仕事や週に一度の訪問販売で誰かが買い損ねた食品、生活用品などのリクエストを受けると、村の軽トラックを使い「町」へ買い出しにいく手伝いまで始めていました。

 「街」で一度折れた心は、この地に来てがんばり過ぎても折れることなく、自分のキャパシティーを越えているとの認識を持ちながら正直無理はしていました。しかし自分を否定し追い込みもする内面疲労で言えば、人生のゼロ地点にいる自覚が作用し開き直れていました。そんなわけで周りに誰もいないときや枕に顔をうずめているときなどに、激しく論破した相手に自己否定させてから、そいつの涙目の奥に転がる生意気な硬い光の玉を指で摘まみ潰し、ようやくせいせいする妄想の独り言を口にしている自分にハッと気が付くことはありませんでした。


 枕が変わると寝付けなかったはずのリトでしたが小学校の低学年だったとき以来、明日に不安のない良質な睡眠は寝心地の悪い寝袋のなかであっても続いていました。もちろんだからと言って朝六時に丘の上の鐘を打ち忘れるような寝坊はしません。

 朝の時間になると丘の下で待っている、叔母さんたちからは「あの犬」と呼ばれる名もない大きな連れと一緒に丘を上って鐘を打ち礼拝堂の扉を開け、夕方にもどこからか現れて一緒に丘を上りました。ただ、口にはしませんでしたが、リトが鐘を打つようになってから週末だろうがなんだろうと、誰かが丘を上っている姿を見たことは一度もありませんでした。それでもリトは自発的に月水金の三度は朝の鐘の後に必ず礼拝堂の床やベンチを水拭きしました。

 村の顔見知りから一度も話を聞いたことのなかった「遠い親戚の子供」と紹介された若者を不振がっていた老人しかいない僅かな村人たちも、電話口で面倒臭そうに身体を心配するだけの、決して顔を見せることのない子供や孫以上に、今ではこの見知らぬ滞在者リトへ偽りのない好意を抱きました。


 リトは一週間ほど前から畑仕事や雑用等は午前中に限定させてもらい、午後は丘を上る階段の修繕に取り掛かっていました。必要な木材とコルクチップは自分の貯金と母親のカンパで工面し「街」のホームセンターで調達していました。特に信仰心があったわけではない、むしろいまだに逆恨みさえしている感のある村の老人たちは、しかし朝晩の当番を率先してくれるありがたみ以上の感謝をしないわけにはいきませんでした。自分たちの村の一部に、いや象徴的な場所に、誰もが億劫がり、また確かに体力的な問題もあったので、手つかずだったまさにそこへ自ら修繕すると名乗り出てくれたからです。

 腐ったまま地面にめり込む横木と両端の杭を一段一段取り除き、あらためて地面を均すと、木の香り残る白肌の横木を渡し両端にも同じ匂いのする杭を打ちました。そして平坦な足場の面には真新しいコルクチップを撒き踏み固めました。さすがに腰は痛くなり、ひょろ長い魚のような細い腕にも備わる僅かな筋肉に充実した痛みと張りを感じ少しばかり盛り上がったりしました。初めて出来た硬いマメの皮を無意識に擦り合わせる両手の握力は翌朝まで弱くなりました。下から資材を運びあげる位置が徐々に、しかし確実に高くなっていく間に冴えない自分の人生や、もしかすると母親の密かな後悔までもが一段一段整理されていく感じがしました。

 ただ村の老人たちは、めっきり上らなくなっていた階段の色が下から順に変わっていく様子を遠目で確認するごと、避けがたく仕方のない寂しさを秘めもしました。完成させたらもともといたどこかの場所へ戻ってしまうに違いない・・・・・・そのうちまた俺にも当番が回ってくる、と口にする者もいました。それは軽口に過ぎませんでしたが。


 もうすでに抜けられない中毒気味にすらなっていた、恐ろしく質素(ライ麦パンと芋が入ったシチュー、老婆は食前と食後にはニコチンの強い煙草を一本)な夕食後のある晩にリトは高校の昼休みのときのような、騒がしい自分の内面とやり合う、不毛な日向と豊かな日陰の懐かしいバトルにより黙ってしまいました・・・・・・

 隣近所の一人が差し入れしてくれた自家製白ワインを、いつものコーヒーカップに注いだ遠い親戚の老婆が、二人分のアルコールと灰皿を裏庭に面したリトの寝室へ持ってきたときのことです。

 この時間に珍しく部屋のドアをノックされたリトは、いつも寝ている寝袋を端に寄せ母親とLINEで交わしていた会話を中断しました。

 どこまでが裏庭なのか分からない裏庭には背が伸び始めたひまわりの花壇と大豆を育てている自前の畑があり、その先は欲を放棄した人生と重なる時間のまま緩くゆっくりした深い藪に続いていました。

 「なぁ、お前さん・・・・・・お前さんは階段を完成させたら戻るのかい?」

 塩っ気の中に古くさい雑味がある恐ろしく口当の軽いアルコールを傾けました。

 「相変わらず不味いな」老婆はリトがこの部屋で寝泊りして以来いつでもきれいに拭かれているガラス越しに、緩くゆっくりした深い藪を見て頷きました。

 「・・・・・・」リトは白ワインを持ってきてくれた隣近所の老人の前歯のない笑顔を思い出しました。

 「お前を酔わせて聞き出せって、村じゅうの死にぞこないが煩いんだ」

 リトはそんなこと考えてもいなかったのでしたが、聞かれたとき初めてそれが一番いいような気がしました。明日二十歳の誕生日を迎える自分にも、明日が二十歳の誕生日だったことをついさっきLINEで教えてくれた母親にも、この村にも丘にも、丘の上の礼拝堂にも鐘にも全てに対してそれが一番いいような気がしました。しかしリトはある大事なモノをすっかり忘れていました。それは薄暗い礼拝堂の天井の画です・・・・・・リトはその晩、裸電球を消してから決めました。


 立ち上がりの遅いパソコンと誰とも貸し借りしたことのない沢山の漫画と、いつも表に出せないでいる怒りと憂鬱がとっ散らかる実家の自分の部屋をまずは掃除しよう。そして出来る限り早く家を出てみよう・・・・・・




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