3怪 犬は犬、烏は烏
「職質!」
僕からの報告を受けて、露明は電話越しにゲラゲラと笑った。笑い事ではない。
「正直可能性は考えてたけど、まさか初日にいきなり当たるなんてね。きみ、やっぱ変な運あるよ。大丈夫だよ、きみ特徴無いし顔は覚えられてないって」
全く嬉しくない事を次から次へと言ってくれる。色々と言いたい事はあったが、僕はまず一番聞きたい事から聞くことにした。
「お化けの噂が流れてるのって、やっぱり事件とか事故とかあったんですか?」
「知らないの?」
転校生の僕が知ってるのに? という意図が言外に潜んでいる気がするのは、僕の被害妄想だろうか。
「交通事故らしいよ、一ヶ月くらい前だって」
「え、事故……」
予想はしていたが、実際に死人が出ていると言われるとうすら寒いものを感じる。
「自動車と自転車の接触で、亡くなったのは若い女の人。それ以来、事故のあった夕方に通ると幽霊が出るって噂」
初耳だった。家とは反対側で、僕が普段近寄らない地域だからだろう。
「それで、実際幽霊はいるんですか」
「知らなーい」
間の抜けた返事で最重要事項をかわされ、携帯を投げたくなった。
「知らないって……いたら食べるんでしょ」
「僕が食べるのはあくまで『お化け』、噂由来のやつ。死んだ人がなる幽霊は食べないし、そもそも居るのかどうかも知らない」
よくわからないが、怪物は怪物なりにルールが一応あるらしい。僕はベッドに寝転んだ。
「そうだ、眼鏡と上着も返して欲しいんですけど」
あまりにも当然の如く持って行かれたために気付くのが遅れたが、その二つは露明に取られたまま返してもらえていなかった。特に眼鏡は困った。一応裸眼でも帰宅するくらいは出来たが、細かい文字なんかは今も見えていない。露明から来たLINEも早々に読むのを諦めて、こうして通話をかけている。
「僕、置いてったよ?」
「えっ」
「通行人の目につかないよう、きちんと畳んで路地裏の奥に」
「言わないと気づかないです、それ」
ごめーん、と悪びれもしない声が聞こえる。ため息をついていると、階下から母親に呼ばれた。
「陸ー? デンショーが鳴いてるけど、あんた散歩行ったのー?」
「あ、母さーん、今行くー」
言われてみれば窓越しにデンが吠えている。鳴かせっぱなしはご近所の迷惑になるだろう。
「すみません、犬の散歩行かないと。ついでに制服も取ってくるんでどこに置いたかだけ教えてもらえます」
「ああうん、あそこの通りの横道、電柱の影に。……今の親?」
「聞こえてました?」
「……仲良いんだね」
悪魔に新たな脅迫材料を与えてしまったような気がして、心臓が跳ねた。それじゃ! と言って強引に通話を切り、デンを迎えに玄関へ行った。
鳴き飽きたのか、愛犬は庭先で雑巾か灰色の敷物のように伏せていた。僕の姿を見つけた途端に跳ね起きて、尻尾を振り回して喜びを全力で表現する、可愛い奴だ。
「ヒャウウウン、ヒャウウン」
「よーしよし、デン、さ・ん・ぽ、散歩行こうな」
僕が小学生の頃、父親がどこかから貰ってきたデンショーは、雑種なせいか、よくわからない独特な鳴き方をする。姿を見なくても、鳴き声さえ聞けばデンショーだとすぐわかる程だ。
後ろ足で立ち上がり、早く連れて行けとアピールしている。こうなると中々じっとしてくれず、中型犬だからリードを付けるのにも一苦労だ。
「よし……付いた。今日はコース変えるからな」
「ヒョン!」
わかっているのかいないのか、デンは良い返事を返してくる。向かうはもちろんさっきの住宅地だ。ぼやぼやしていて落とし物として交番に届けられたりしてしまっては非常にまずい。
登校時と反対方向へ行きしばらく歩くと、見覚えのある通りが近づいてくる、露明の言っていた電柱はどれだろうか。
わかりやすく目につくのは一本だけだった。上を向いて電線を見、見落としてる電柱が無いか確認する。うん、たぶんあそこだろう。
近寄ると陰にひっそり上着と眼鏡が置かれている。僕は上着を軽く羽織って、眼鏡をかけた。やっと視界が戻った。下には何故かご丁寧にハンカチまで敷かれている。
露明の私物だろうか。なら置いて帰るのも悪いだろうと、拾ってジーパンのポケットに詰める。
「よし、じゃそろそろ帰ろう」
声をかけると、デンは嬉しそうに顔を見上げてくる。もっとも、デンショーは人が傍に居れば365日幸せそうなのだけど。
短い鳴き声を上げ、デンは歩き出した。力任せにリードを引っ張って、家と逆向きの方向へ僕を引き摺っていく。どうやら、まだ帰る気にはならないらしい。諦めてデンの行きたい方へとついて行く。
「ワヒュ!」
「うぉ、何!?」
突然デンが短く鳴き、後ろ足で立ち上がった。尻尾は千切れんばかりに動かされている。他の犬でも居たのか、と前を向くと、路肩に大福の袋が置かれているのが目に入った。いやしい奴だ。
「デン、だめ。ダメだよ。お前のじゃないって」
「ヒャアウ! フヒャン!」
デンショーは聞く気が無い、飛び上がりそうな程に喜んでいる。それにしても何故、和菓子屋の紙袋があんな所に置かれたままになっているんだ?
よく見ようと顔を少し動かして、凍りついた。
紙袋の裏、死角になっていた位置には小さな花束が置かれている。そこまで見たら、僕でも置かれている意味はわかった。
交通事故。と露明は言っていた。その人へのお供え物だろう。ここがその現場なのだ。
「で、デン、帰ろう」
「ワヒュウン! ヒャーン!」
デンは確かに普通の犬くらいには食べることが好きだ。しかし、包装されて袋に詰められて、遠くに置かれている食べた事のない物に、ここまで執着するほどだっただろうか?
デンショーは心底嬉しそうに、自分の存在をアピールしようとしている。その顔はどこか、お供え物よりも上の方を見ているようで。
「デン! おい!」
力づくで引っ張ってしまおうと、後ろを向いてリードを引く手に力を込める。そうやって反対側を見た瞬間、
チリチリチリ、と自転車のベルの音がした。
「あああああああ!!!」
喉から絶叫があふれた。デンショーを無理矢理引きずり、走れるギリギリの速度で走る。デンはすぐ遊びを僕とのかけっこに切り替え、野生を感じるスピードで僕を先導した。自転車ベルはずっと鳴り続けていたが、追ってくることはなく、あっさりと遠ざかっていった。それでも足は止まらず、僕は自宅の方向へと全力で駆けた。
家に着いた頃には、汗びっしょりになっていた。デンショーは追いかけっこが楽しかったのか、ニコニコとした顔でこちらを見上げてくる。
「お前、ハァ、そこは、吠えて……追い返す、とか……やるとこだろッ……」
意味の無い悪態が零れる。息を整えてから、アホ犬、と言って鼻をつついてやると、楽しげに尻尾を振った。
家にあいつが来たとしても、デンショーは役に立たないだろう。そう確信するのにさっきの出来事は充分だった。
桜下第一高校の屋上は、基本的に昼間は解放されている。3メートル近くのフェンスが屋上を囲んでいるお陰で、あまり事故などを心配していないのかもしれない。
昼休みに屋上へ向かうと、他の生徒の姿は無かった。これからの時期は暑くなってくるから、エアコンのある中の方が快適なのだろう。
適当な位置に座って、行きがけに買ってきたパン屋の袋を出す。
そういえば、朝母親に期限が今日までなので食べちゃって。とお菓子らしき小袋を渡されたのを思い出した。折角だしそれも食べようと、カバンに手を突っ込んで探す。あった。小袋を開けると、透明なビニール袋に包まれた豆大福が出てきた。
昨日目撃した花束と和菓子屋の紙袋が頭に蘇る。複雑な気持ちで食べようか食べまいか考えていると、携帯から通知音が響いた。
『ハンカチって持ってる?』
露明からのメッセージだ。昨日服の下に置かれていたハンカチの事だろう。昨日のゴタゴタで忘れていたが、カバンをさぐると幸い入っていた。
『あります』
『今どこ居る?』
『屋上』
既読だけ付いて、返信が来なくなる。深く考えず電源を切って、パン屋の袋を開けジャーマンドッグを食べ始めてから、まさか今来る気か。とやっと気づいた。まあだとしてもハンカチさえ渡せば帰ってくれると思う。そうでなきゃ嫌だ。
一つ目のパンを食べ終えた頃、屋上のドアが開いた。相変わらずの長身が立っている。
「この学校、屋上解放されてるんだ」
キョロキョロと見回しながら、露明はフェンスに近寄っていく。両手で網を握り、校庭を眺めている。
「前の学校は、違った?」
「うん、屋上から飛び降りた人間が居てね、立ち入り禁止だった」
いきなり嫌な話が飛び出す。露明はこっちを振り向き、僕の顔を眺めた後、渋々といった感じで「……冗談」と付け足した。わざわざ嘘だと明言させられたのが嫌だったのか、腕を組んで不満そうな表情をつくる。
「それより、ハンカチは? あるんでしょ」
「ああ、はいこれです」
紺色の薄手ハンカチを差し出す。ありがと、と言い露明はそれを受け取った。
「わざわざ、パン屋のパン?」
僕の傍らのビニール袋を見て、軽い調子で露明が呟いた。
「朝買ってきたんですよ」
「登校前に? 変わってるね」
お前にだけは言われたくない。と言いそうになったのをこらえる。
「まあ自分だけじゃなく、僕のご飯の事もよろしく。今日も脅かしはお願いするよ」
「あの、その事なんですけど」
昨日から考えていた事があった。露明は「なに?」と言って振り向く。意見する勇気がしぼまないうちに口を開いた。
「やっぱり、あそこの噂を元にして作るのはやめませんか」
「なに? 怖気付いたの」
「いや、そんなんじゃないんです。昨日考えたんですけど、いくら死んでるとはいえ、事故にあった人間を食べるのは、やっぱり……せめて他のお化けにしませんか」
昨日の事は恐ろしかったが、お供え物を見た時、何よりも先に悲しくなった。誰かが死んで、他の誰かがそれを想ってお菓子や花を供えている。それを見た時に死人が出ているという事の重さを感じたのだ。
そして、この怪物はそれを受け取る相手を食べようと目論んでいる。例え本人じゃないとしても、生きていた人の話から生まれたものをだ。
それはもしかしたら、生きてる人を食べるのと同じくらい残酷なのかもしれない。
しかし露明は、深い溜息をついただけだった。
「きみ、何回言えばわかるの? 僕が食べるのはお化け、本人が死んだ姿じゃない。どんな残酷な死が元ネタだろうが、生まれたお化けには関係無い」
「でも……」
「……きみ、何かあったの?」
探るような目つきで露明がこちらを見た。少し屈んで、座っている僕を見透かそうとするように覗いてくる。居心地が悪くなって、僕は下を向いて話した。
「昨日荷物を拾いに行った時、現場を見て……そこで姿は見てないんですけど、ベルの音がして。自転車のベルの音でした。誰も居なかったのに事故現場に犬が反応した途端……」
誰かに言ってしまいたくて、不必要な部分まで語った。露明は返事をせずに聞いていたが、唐突に声を上げて笑い始めた。
「蓮田、やっぱり今日は脅かしはナシだ!」
唐突に言われ視点を上げると、いつかのように露明は目を細めて笑っている。瞼の隙間から見えるその瞳はどこまでも黒い。
「もう生まれてたのか、それなら話は早いね……脅かしはナシでも、放課後付き合ってもらうよ。囮は居た方が良い……」
大股で歩き、金網フェンスにもたれ掛かる。逆光で全身が黒い影のようだ。風が吹いて、長い黒髪がなびく。それはどこか、烏が羽根を広げたようにも見えた。
「さあ、お化け狩りだ」