1怪 馬鹿らしき哉転校生
烏の嘴が鋭いのは、生き物のはらわたを抉り取る為だと誰かに教えられた事がある。
幼かった自分をからかう、たわいも無い冗談だ。しかし、冗談とわかってはいても、今眼前に広がる光景を目の当たりにして、それを思い出さずにはいられなかった。
シャッター商店街の路地裏、夕焼けが差し込んで一面が赤に近いオレンジに染まっている。通路の真ん中に立つ男の身を包む学ランは、僕と同じものだ。襟からは異様に白く細い首が伸び、結ばれた黒髪の裾は背中へと垂れている。しかし、顔があるべき部分は奇妙に歪み、無数の青みがかった翼が生えていた。
翼はそれぞれが勝手に羽ばたき、そのたびに細かな羽毛が抜け、コンクリートの上に落ちていく。その翼達の中心に、塔のように巨大な嘴が突き出している。
そいつは真っ白い四つ足の何かを捕食するのに忙しいようで、せわしなく人の腕くらいある嘴を開閉している。その口が開く度、炎ほどにも赤い口内がちらちらと見えた。
そいつから抜けた羽毛の一片が僕の足元に落ち、端から炭が崩れるように消えた。
こんなものを見てしまうなんて思っていなかった。生唾を飲み込み、徐々に足を後ろへと運ぶ。その片足が音を立てた。下を見ると、僕の足は放置された菓子パンの袋を踏みつけている。心臓が破れそうなほど痛んだ。
後ろでやつが振り向く気配がする。
そもそも、何故こうなったんだっけ?
「数日中に、うちのクラスに転校生が来るからな。当日にはまた言うが、とりあえず連絡として」
HRで担任が放った一言に、クラス中でざわめきが広がった。イケイケグループのうちの一人が「えーどんな人―?」と声を上げるのが聞こえる。質問は結局適当にあしらわれて、たわいもない予想があっという間に始まる。わざわざ丁寧に予告をしていただいたおかげで、当日になるまで転校生の話題が飛び交っていた。
この高校では、学年が変わってもクラス替えはされず、そのまま持ち上がりとなる。高二の五月という中だるみの時期、皆新しい刺激に飢えていたのだろう。
期待が高まりきった一週間後、担任が転校生が来たことを告げ、クラスの高揚感はマックスになった。この一週間の間、尾鰭背鰭が付いたであろう信憑性のない噂が流れたり、休み時間のおしゃべりで冗談交じりに理想の転校生像を言い合ったり、そういった遊びが流行していたが、これで賞味期限切れだ。無駄に期待されたこのクラスに入ってくる奴が気の毒に思えるほどの盛り上がりようだった。しかし、クラスメイトが夢見がちに語るような変わった転校生なんてそうそう来ないのが現実だろう。
机の下で爪をいじくりながら、そんな事を考えた。
「じゃ、入ってきていいぞー」
教師の常時だるそうな声が呼ぶと、ひかえめな音を立てて前の扉が開いた。反射的に視線だけ向けたが、僕の席は教室の一番後ろの窓際だ。廊下に居る転校生の姿なんてここからは見えない。
やけに長い足が入ってこようとして、鈍いゴッという音と「いて」と短い声がした。
「おい露明、大丈夫か」
「大丈夫です……まだここのドアに慣れていなくて」
扉をくぐるようにして現れたそいつは、背が軽く180センチはあるように見えた。担任と並ぶと、頭一つ分違うからもっと高いかもしれない。目の端で転校生を捉えながらそう推定した。
身長だけでなく、他にも人目を惹く要素がいくつもあった。
髪は後ろで一纏めにしているが、結んだ状態でも長い。下ろしたら腰に届くだろう。黒髪だが、ただ黒いだけでなく、周りの風景が映り込みそうなほど艶々としている。
体育会系のような雰囲気は無く、むしろかなり細身に思える。短足に見えると嘆かれているうちの学校の制服越しでも、その背丈のうち足が占める割合がかなり多いことがわかった。
そして何より、
「え、超イケメンじゃん! やったー!」
開けっ放しすぎる言葉が何処からか飛んだ。そう、芸能人かと思ってしまうほど顔が整っている。教卓から離れたこの距離でもわかる位に。気付くと目の端で捉えるだけでなく、頭を上げて教卓に立つその転校生に注目してしまっていた。
睫毛で縁取られた目元は涼しげで、特別目が大きいという訳では無いけれど、瞳がどこか不思議な存在感を放っている。肌は特別白いが、不健康という感じはしない。むしろ、日の下に出る必要の無い貴族。と言った方が印象は近い。右目の下に筆の先で突いたような泣きボクロがあり、肌の白さも相まって目立った。
転校生のその容姿は、異様に高まっていた期待のハードルを越えるのに充分だった。
「スタイル良いじゃん」「背高っ」「モデル?」「彼女居るのー?」「足長ーい」
無遠慮な褒め言葉や質問が次々と投げかけられる。話題の主は、困った様に眉を下げて笑ってみせた。担任が手を叩いて私語を中断させる。
「ほらほら、困ってるだろ。じゃ、挨拶してもらえるか」
はい、と答えて、教室に向き直る。
「露明 寧人です。朝露の露に夜明けの明、安寧の人で寧人。これからクラスの一員として、よろしくお願いします。ちなみに、モデルではありません」
笑顔で言い終わり、一礼する。辺りから拍手や好意的な返事が返された。また爪をいじりつつ僕は考える。ジョークも言えますよ、というアピールか。そつの無い奴だ。
朝から担任が用意していた、通路側一番後ろの席にそいつは通された。
休み時間にはもちろん、そいつは注目の的だった。机の周囲へ人が蟻のように集まり、無数の質問を浴びせる。連絡先が欲しいのだろうか、女子の一人が「クラスLINE招待するよ! 友達申請しよ!」と近寄って行った。クラスLINEってなんだ。僕は招待されてないぞ。向こうはそれを笑って応じている。
そのうち、他クラスからの見物人まで出るようになった。転校生のことは既に噂になり始めているのだろう。
転校生はクラスのほとんどに友好的に迎え入れられたようだった。見た目もいいし、どうやらする話も悪くはないらしい。この魅力的な新人をどのクラス内派閥も迎えたがったが、見る限りはどこのグループとも同じくらい話し、同じくらい関わっているようだった。
正直なところ、僕はこの闖入者にあまり好感を抱いていない。容姿も性格も良いなんて、裏がありそうじゃないか。嫉妬が混ざっているのは理解しつつ、そう考えて遠巻きに観察を続けていた。
一週間の間見ていて、わかった事がいくつかある。頭は特別良くも悪くもない感じだ。教師に指された時、授業内の内容ならきちんと答えているが、それより高度な内容だと勝率は半々くらいだ。
体育は得意らしく、バスケの授業では毎試合いつの間にかパスを貰いやすい位置にいた。背が高いから目立つだろうに、自然とマークから外れる。経験者なのかとも思ったが、他のクラスメイトとの会話ではスポーツはやったことが無いと言って、周囲を驚かせていた。
妙なところにも気付いた。飲み物以外、何かを食べたところを見たことが無い。昼食のときに何も出そうとせず、それを訊かれると「昼食べると眠くなっちゃうから」とよくわからない理由で説明していた。お菓子を誰かに差し出されても、「大丈夫」と断る。
ストイックというか、午後の授業なんてそこまでしっかりと受けるものか。しかし授業は授業で、内職したりはしないものの、周囲から私語を持ちかけられれば応じるし、手紙が来れば回すのに協力している。昼食を食べない理由とその様子は、何となくちぐはぐに思えた。
しかし、僕以外にそんな細かいことを気にしている人間はいないようだった。
六時間目の終わりを告げるチャイムが鳴り、僕は早々に教科書をバッグに詰めた。
別にすぐ帰らないといけない用事があるわけではない。どうせ帰ってもやることといったらボーっとネットを眺めるか家のマンガを読むかくらいだ。
校門を出てしばらく歩くと、前方に見覚えのある黒々とした長髪を認めた。露明だ。
露明は珍しく一人だった。いつも放課後には教室に残って喋っているか、どこかのグループに混ざって帰っているか、という印象だったのだが、一人で帰る日もあるのか。この辺りは田舎道で、都市開発に取り残された土地、といった雰囲気だ。駅は反対側だし、こっちの方に住んでるのか。
露明が角を曲がる。僕の記憶では、そちらの方は殆どの店が閉まったシャッター商店街に続く道だ。
ふと、悪戯心が湧いてきた。どこに行く気なんだろうか。噂の転校生の学校外での一面を覗いてやろう。気付かれないよう距離を保ったまま、後をつけていく。
露明はまっすぐシャッター商店街へと進んで行った。ここは昔は活気があったそうだが、近くに駅が出来、駅前に新しく商店街が出来た影響で寂れていったらしく、今は数軒の店しか残っていない。こんな所に何の用があるのだろう。
アーケードに足を踏み入れると、露明はいきなり立ち止まった。慌てて店と店の隙間へと隠れる。見つかるところだった。顔だけ出して覗くと、周囲を伺うように見渡した後、彼は勢い良く走り出した。
もしかして、もう勘づかれたのか。一応死角に入るよう気を付けながら、早足で後を追った。
商店街の中でも、人気が少ない方へ少ない方へと露明は走っていく。疲れや体重を感じさせない、浮き浮きとしたような走り方だった。僕は運動はあまり得意じゃない。尾行ごっこはこの辺にしておいた方がいいかもしれない、と足を止めた。
「待ちなよ!」
露明の声が耳に飛び込んだ。バレた、と思って顔を上げたが、向こうは走り去っていくばかりだ。気付かれたわけではない。
あいつは、何かを追いかけている? 一体何を?
小さくなった背中は、突然道を曲がった。道というよりも、路地。商店どうしの敷地に取り残されたような細い道だ。
僕は人気の転校生が、一体人の居ない商店街で何を追い回していたのか知りたくなって、だから彼に続いて裏道を覗いた。
そして、現在に至るわけだ。
裏路地には転校生の姿は無くて、烏みたいな怪物が何かの動物を食べていた。非現実的にも程があるが、夢だと切って捨てるにはあまりにも生々し過ぎた。
踏んでしまった袋のゴミから、ゆっくりと視線を上げる。
怪物はこちらを向いていた。
先程まで背を向けられていたから気づかなかったが、この化け物はゾッとするような目をしている。丸いお盆のような巨大な目。その中にある瞳はどこまでも暗く、生気を感じられない。死んだ魚と子供の落書きを合わせたような、意図を全く読めない瞳をしていた。
その目が、しっかりと僕を捉えている。
今の今までバタバタと動き続けていた羽根は、全てが中途半端な位置のまま不気味に静止している。半開きの嘴はギザギザとした鋸の刃のような形状をしており、白い毛皮を咥えたままだった。
――――僕に狙いを澄ましている!
「ゔわ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」
その恐ろしい発想が頭をよぎった瞬間、絶叫が口からあふれていた。殺される。死にたくない。
走って逃げ出したいのに、腰から力が抜けてそのまま座り込んでしまった。動く腕で必死に距離をとろうと地面を押す。
烏の嘴が上を向き、ゴクリとそこに挟んだままだった死体を飲み込む。中型犬ほどはある肉片が、一瞬で口の中に消えた。と同時に、烏の嘴の先が蜃気楼のように揺れ始めた。
嘴が、無数の羽毛が、意思の無い目が、順番にゆっくりと、溶けるように消えていく。化け物が消え去ったその下からは、見た事のある綺麗な顔が覗いていた。
「後をつけるなんて、趣味も運も悪いね、きみ」
長すぎる睫毛、高い鼻、目立つ泣きボクロ。
まさしく、露明寧人だった。
謎まみれの転校生は、見下ろしたままわざとらしく腰に手を当てて話し始める。
「声も出ない? 言っておくけど、アレは動物じゃ無いからね。アレは怪異だ」
「は……?」
「怪異、分からない? おー化ーけー」
見られたんならしょうがない、と呟いて、更に相手は話し続ける。
「人身に害を成すお化けを食べる、良いお化け。それがこの僕、露明寧人の正体」
舞台俳優のように両手を広げる。目の前の人間が何を言っているのか。一切理解できない。
「まだ分からない? きみ頭の回転が相当鈍いね。兎も角、まだ食事中なんだ。続きは後で」
言い終わるが早いか、露明の顔がまた歪み、黒い湯気のように羽根と嘴が湧き出た。
それを確認した辺りで、僕の意識は闇に落ちた。