芸人魂 6
「あははははは」
午後の閑散としたファミレスに敦の笑い声が響く。
禁煙席というのがさらに他の客を遠ざけているせいか、見回した所、遠くの席にお茶する主婦の塊と、コーヒーをすすりスポーツ新聞を広げているサラリーマンしかいない。
暖房の効きすぎた店内の空気に微かに誰かが頼んだのだろう、オムライスの匂いが混じって、空腹の俺はそれにさらに気分を悪くする。
「止めろや、顎外れんで」
「いやっ。もう、アホすぎ! アカン、アカンて〜〜」
敦は腹を抱えながら尚も笑い続けていた。俺は「うっさい」と奴の頭を軽くはたいてから、目の前の祐樹とその母親を見据える。
母親の方はチョコレートパフェを頬張る祐樹を見つめ目を細めていた。
微笑ましい姿ではあるが、今の俺には少々複雑だった。
俺は母親の方を軽く睨みながら唇を突き出す。
「ほんま、アンタも人が悪いで。斉藤さん」
「あ、ごめんねぇ」
斉藤さんは俺の視線に、上目で微笑しながらそういった。
そう、その目元だ。俺はどうして気がつかなかったんだろう?
「俺はすぐにわかったで。斉藤さん、ちょっと大きくなったけど、可愛いまんまやん」
「よう育ったでしょ」
敦の物言いに、彼女は気を悪くした風もなくそう返す。敦は人の悪い笑みを浮かべて
「こいつは昔から冷たい奴なんですわ。俺らにファンレターくれた第一号の人の顔を忘れるんやもんな。で、俺が斉藤さんの再婚相手?! 天然もここまで来たらビョーキやわ」
と再び高笑いする。
うっさい。と俺はふてくされ、コーラに突き刺さったストローの端を噛んだ。
そう、祐樹の母親は、高校の初舞台の時に手紙をくれ、そのあとすぐに転校したクラスで一番人気だった、あの、彼女だったのだ。
ほんまによく成長されていたせいで、俺には全然分かんなかった。
「こいつが『何で話してくれへんかったんや』って言ったやんか。俺、てっきり、俺が高校の時に斉藤さんのこと好きやったん、黙ってたん、今更責められてんのかと思って、ビビったわ」
「んなわけあるかい」
「そうなん〜。光栄やわ」
「クラスの男子、ほぼ皆やで〜」
「うそ〜」
嘘であってほしいわい。俺の青春を壊しやがって。俺は恨めしく思いながら。彼女の面影を探すようにふくよかなその顔を見つめた。
まぁ、今でも確かに可愛い顔立ちだ。顔の中身だけは。
「でも、なんで祐樹は敦の名前知っとってん」
俺は悔し紛れにそう呟いた。祐樹は少し目を見開き、頬を赤くしてスプーンをくわえたまま敦の方を見る。
「言ったやん。この子、お笑い好きやねん。中でも、敦君のファン」
「ほんまか!」
敦は嬉しそうに立ち上がると、祐樹の頭を乱暴に撫でた。祐樹はまだ緊張しているのか頬を強張らせたまま頷く。
「なんやねん。俺の方が遊んでやったやんけ」
あの時、自分で感動した男前なセリフが、めっちゃ恥ずかしいやんけ。
俺は舌打ちをすると大袈裟に溜息をついて横を向いた。
「夜、公園でね、たまたま敦君を見かけた時から、この子すっかり好きになっちゃって」
「え? 夜の公園?」
俺は思わず聞き返した。敦の方を見るが、奴は「なんや誰もおらん思っとったのにな」とバツの悪そうな顔をするだけだ。裕樹を見ても、口を噤んで何も言いそうにもない。俺は助けを求めるように斉藤さんの方を見た。
斉藤さんは笑顔のようでいて寂しそうな複雑な顔をして、裕樹の頭をひと撫ですると独り言のように話した。
「ちょっとね、家におられへん時があって、よく裕樹と夜公園に行くことがあったんよ。あ、ちょっと前の話しやけど」
ふと、再婚相手のうわさを思い出す。学生時代には想像もできなかった現実がきっと今の彼女にこんな顔をさせているのだろう。
俺はそれがわかり、あえて口は挟まなかった。
「そんな時ね、聞き覚えのある声がして、見にいってん。な?」
裕樹に同意を求める。裕樹はちらちらと敦のほうを見ながら頷いた。
「敦の漫才、見てん。めっちゃおもろかったし、笑えた」
「え」
俺は思わず敦の方を見る。敦は苦笑しながら手元でナプキンをいじり倒し「まぁ、ちょっと、な」と呟いた。
なんや、もしかして、いやもしかせんでも敦のやつ、一人で練習しとったんか。夜、いなくなったんは遊びに行ってたんやなくて、ネタを……。
「お前、最近めっちゃ怖かったやんか。何してもキレよるし。せやから一緒に練習するより、めっちゃうまなってから、安心させた方がええやろって思って」
敦……お前。漫才を舐めてたわけでも、嫌になってたわけでもなかったんやな。
俺は嬉しさと同時に、自分がそれまでいかに独善的だったかを思い知った。一人で悩んで一人で頑張ってる気になって、ほんまはお客さんだけやなくて相方にまで、窮屈な思いさせとったんか。
俺は一つ小さく息をつくと
「そうか。しらんかった。すまん」
と素直に謝った。敦はそんな俺に柄にもなく照れたようで「アホちゃうか。きしょいねん」とわざとらしい大きな声を上げると俺から目を逸らし、代わりににこやかに俺達を見ていた斉藤さんに話を振った。
「でも、なんで言ってくれへんかってん。斉藤さんも人が悪いわ」
「ごめん」
彼女は肩を小さくすくめると、俺の方を見つめた。俺はその様子をチラリと伺う。目があった彼女はいたずっらぽく微笑んでこう言った。
「今でも、ファンやねん」
「え?」
彼女は気恥ずかしさを誤魔化すかのように、祐樹の口元に付いたクリームを拭ってやりながら続けた。
「うち、高校転向してから色々あってん。ほんで、もうどうしようもあらへん、このまま頑張っても、夢をかなえるどころか夢を見ることすらできひん。こんなうちの人生なんて知れてる、もう逃げだしたい……そう思った時にな、敦君を見かけてん」
話す言葉は選ばれたもので、その言葉の意味以上に彼女が辛い目にあって来た事をうかがわせる苦さが、その声からは感じられた。
見ると、祐樹の方も顔を伏せ、スプーンを膝の上で握りしめている。
「斉藤さ……」
「嬉しかったわぁ。調べたら、二人ともほんまにプロになってんねんもん」
斉藤さんは、陳腐な励ましの言葉を口にしようとする俺の声を、柔らかく制しするように遮ってそう言うと、俺ら二人の顔を交互に見て、ふわっと雪解けを誘う春の日差しの様な笑みを浮かべた。
「こんなに身近に夢を叶えて頑張ってる人がおる、それだけで、なんか嬉しかった。それから、この子と二人の漫才チェックするようになったんよ」
そういって祐樹の頭を撫でた。祐樹はそっと目を上げ、俺らの方を見ている。
「二人の頑張ってる姿に、いつも元気付けられた。もう、アカン。そう思っても二人の漫才見て笑えたら「あ、まだ笑えるやん。まだ頑張れるやん」って」
「そうや。僕とかあちゃんは、お前らのファンなんやぞ」
祐樹は偉そうにそう言うと、母親にしがみついた。
彼女はその背をさする。
「でも、最近の二人の漫才、なんか硬かったやん。昔はもっと楽しそうにやってたのに、どないしたんかなって。公園で裕樹のボールを拾ってくれた時はびっくりしたけど、私の事、気づいてないみたいやし。それで……」
それで、俺を祐樹にけしかけたんか。
「そうやったんか」
俺は敦と顔を見合わせると、祐樹の方を見た。
「祐樹、ありがとな」
「礼なんかいらんわ。僕はただ」
「ただ?」
「お前のおもんなさそうな顔は嫌いやってん」
祐樹はそう言うと、あったばかりの時のように俺を睨みつけた。
「見てる方だって、わかんねんぞ。アツシは最近、つまんなそうやったし、お前の方はなんかカリカリしとったし」
う、なかなかに鋭い。
俺は絶句して、目の前の小さな先生を見つめた。
先生は腕を組み頬を小さく膨らませる。
「焦りすぎやねん。普通にやってたら十分おもろいのに、最近のお前らはうまくやろうとし過ぎて、逆におもんないねん」
関西の素人の意見は適格だ。それが子どもだろうと、玄人よりもすぐれた観察力を持っている。
俺と敦の背筋が自然に伸びた。
「僕らファンかてな、お前らに笑っててもらいたいねん。なんか、頑張ってます〜ってきばってんの見せられても、気ぃ使うし。せやから、礼言うんなら、また、前みたいにおもろい漫才して、わろてくれや」
「祐樹」
人を笑わせているつもりだった。
プロとして、仕事として、きっちりやるのがお客さんやファンへの義務だと思っていた。
それは確かに間違いじゃない。
でも、俺は気づいてなかった。
自分が楽しまないと相手が楽しめないって事だけじゃない。
俺達もまた、彼らに笑わせてもらっている事もだ。
「せやな」
俺は敦の方を見た。敦も鼻の頭を少し赤くしてはにかんでいる。
「任せたれや。今度の舞台、招待したるから見にこいや」
「おう。見に行ったるわ」
「できれば、父ちゃんと、母ちゃんと三人でな」
俺は祐樹のほっぺたを軽くつねった。斉藤さんの顔が複雑そうな笑みに歪む。
「あの人、お笑い嫌いやねん。それで今朝も祐樹と喧嘩して」
「旦那さんも、俺らがわらかしてファンにしたるやん」
笑いで何かを解決できるわけじゃないかもしれない。
一時の気休めにしかならないのかもしれない。
腹の足しにもならんし、教養だってつきやしない。
それでも……。
「な、祐樹。俺らも諦めへん。だから、お前も諦めんと、仲良くしてみぃや」
祐樹が顔を上げた。敦の方を見る。敦も頷く。
祐樹は表情を引き締めると「わかった」と呟いた。それからにやっと小生意気に口の端を吊り上げ
「でも、あの煙草ネタはやめといてな。下品過ぎて、逆にひくから」
と笑った。
「なんやねん〜。ウケとったくせに〜」
「きたないねん〜」
「そんなん言うんやったら、今度はストローでやったるわ」
「アホか。ストローやったらす〜す〜鼻息抜けるだけやんけ」
「あ、ほんまや」
どうでもいい事で笑顔が生まれる。
生まれた笑顔が少しだけ心を元気にする。
元気の出た心はもう少しだけ頑張らせてくれる。
俺は昔のマドンナの方を見た。
彼女も今、微笑んでいる。
「な、斉藤さん」
「ん?」
「あのファンレターどっち宛てやったん?」
斉藤さんの顔が綻んだ。そしてあの頃のままの笑顔で、そっと答えたのだった。
「あれはね……」
-END-