芸人魂 3
急に周囲の音がクリアに聞こえて来て、空の色が不用意に高く感じる。
それらの健全さは、どこかこの無言の少年と母親を突き放すような冷たさがあって、俺も黙り込んでしまった。
「お笑い……」
「え?」
空耳かと思うほどの声に、俺は母親の方を見る。彼女は眉をさげいを決したように顔を上げた。
「お笑い、あの子好きなんです」
「そうですか」
あの年齢くらいの子は皆大抵そうだ。
「それで、プロの方にこう言うのもなんですけど……あの子に元気付けてやってくれませんか?」
「はい?」
唐突な申し出に、俺は思わず声を裏返す。母親はまた頭を下げ
「あの子、今朝、父親に酷く怒られて……しょげてるんです。だから、お願いします。どうか」
「あの、それは……」
俺の仕事じゃない。
困って少年の方を見た。彼はさっきよりさらに切実な顔でこちらを見ている。もしかしたら俺は母親をいじめているようにでも見えているのかもしれない。
「どうか、お願いします」
母親はさらに頭を下げた。
ふと見ると、さっきまでまるで注目してなかった子どもたちや他の母親たちが、訝しげな眼でこっちを見ている。
まいったなぁ……心の中で呟いた。
少年の方にもう一度目をやる。
『お前の言ってる事はもっともや。そやかて、できひんもんはできひん』
敦の言葉が響いた。
できひんやない、やるか、やらんか、やろ。
俺は心の中でその記憶に言い返すと、大きく息をつきながら答えた。
「ええですよ、いっちょやってみましょ」
「ありがとうございます!」
俺は小さく微笑むと、ステージに向かって歩き出す。
舞台は砂場。観客は一人のふてくされた可愛くないガキ。
いいだろう、絶対笑わせたる。
− これは、勝負や。
気合いを入れる様に肩を上下させ、息を吐くと、俺は身じろぎせずに見上げる少年の前に立ちはだかった。
俺を見上げる少年の眼光は鋭く、まるで養成学校の講師のようだった。不覚にもそのまなざしに緊張してしまう。
たかが子ども、されど子ども。
子どもの評価が一番素直なのはどこの世界でも共通の認識だ。
ただ、良く考えると、子どもが好きなのはわかりやすい一発ギャグ系。俺はトークベースの漫才系。しかも持ちネタはどれも二人漫才のものだ。
はたして、通じるのか……。
「なんだよ」
少年の声が俺を突き飛ばす。俺は咳払いすると、自分の持ちネタの中でも一番子どもにわかりやすそうなものを選んだ。
「はい、お待たせしました」
パンと手を叩き、場を引き締める。しかし、少年は
「待って何かねぇよ」
とすげなく返した。いきなり険悪な雰囲気。おもろい。ここから巻き返したろうやんけ。
俺は奥歯を噛みしめ唇をひくつかせると、話しを続けた。
「そうそう、知ってます? 最近の仮面ライダーやナントカレンジャーって、イケメンで溢れかえってるねんて」
少年、無反応。本来ならここで敦の相槌が来るのだが、今日は独り舞台。俺はさらにテンションをあげて続ける。
「僕ね、昔っからヒーローに憧れてたんですよ。ちょっとやってみてもええかな? ほら、僕、なかなかええ線やとおもわへん?」
ここで大仰に格好つけたポーズをとってみせる。
遠巻きに見ていた他の子ども達がクスクス笑い始めた。お、いい感じや。おれは空気を掴んだ感触を手にすると、そのまま波に乗って練習通りに砂場の上で子ども相手に一本のネタを披露した。
ネタが終わる頃には、周囲にちょっとした人だかりができていた。
公園の中の他の遊具で遊んでいた子ども達やその母親、散歩途中の人まで足を止め、それなりの笑いがおこり、俺はすっかり気分を良くしていた。
「どうも、ありがとうございました〜」
俺が頭を下げる。拍手が沸き起こる。
久しぶりの感触に、思わず鼻の穴も膨らみ「どうだ」と少年を目で探した時だった。
「あれ?」
少年はそこにはいなかった。 少し離れた場所にいた母親に向かって走っている。母親はゴムボールを抱えたまま、その少年を困ったような顔で見ていた。
「ね〜、他のもやってや〜」
子どもの一人が俺の腕にまとわりついてきた。
「あ、え……」
「私もまだ見たい〜」
「お兄ちゃん、おもろいやん。もう一個やって〜」
口々にねだる子ども達の攻撃に、母親たちの期待の視線も交錯する。しかし……。俺は気になってもう一度あの親子の方を見た。
母親はしゃがみ目線を合わせながら彼に何かを諭している。
ネタ中の事を考える。
たしかに、ここにいる人間の笑いをそれなりにとりはした。でも、あの少年は笑ったか?
どれだけ記憶をさらっても、答えは『否』だった。
最前列で硬い表情で睨みつけていたのしか思い出せない。
ちくしょう……。
「あ〜、祐樹くん? ほっといたらええやん」
腕にまとわりついていた子どもが俺の視線の肩を叩くように、そう言った。
「そうや。あいつ、いつもノリ悪いねん。ほっとき」
他の子ども達も口を揃え出す。
なんだ? あの子、友達いないのか? そう思いながらどうしたものかと子ども達を見ていると、今度は母親達の中から耳打ちするような低い声がした。
「あそこのお宅ね、ちょっとわけありなんですよ」
「そうそう」
「再婚家庭なのよね。その新しい旦那さんと祐樹君がうまく行ってないらしいのよ」
母親同士で交わす視線は、蔭口を共有する者同士独特の厭味が含まれていて、その口調は、同情を装った噂を楽しむ響きがこもっていた。
「怒鳴り声が聞えるっていうわよね」
「働いてないらしいわよ。その旦那さん。ろくに仕事もしないでお昼からウロウロしてるって。祐樹君、可哀想よね〜」
訊きもしない事を告げ口する言葉の端には、どこか、うっすらとした下世話な野次馬根性と悪意的なものも見え隠れしている様な気がする。
俺はなんだか嫌な気分になって、この、軽犯罪を暗黙の了解として認めてしまおうとするような空気から目をそらすように足元に目を落とした。
むかむかする。
おばさん達の無遠慮なあの親子の蔭口が、ぼんやり俺に膜を張るようにへばりついてくる。
生意気な子どもが駄々をこねながら俺の体を揺すっている。
さっきのあの母親の顔を思い出した。
俺に頭を下げてまで頼みこんでくれたあの母親。
このままでええのか?
俺は自分に問いかける。
彼女は俺を街中で見つけてくれた初めてのファンなんやぞ。