芸人魂 2
少し泥のついたまぁるい塊。俺はしばらくそれがこちらに転がってくるのをぼんやり見つめていた。
自分が子どもの頃によく通っていた、団地の真ん中にあった公園には常にこう言ったボールが、持ち主不明で転がっていたものだ。
懐かしさとともに、どこか気の抜けるような虚しさを感じた。
ボールが、足先に触れて止まる。
「すみません」
若い女の声がした。
向こうで遊んでいた子供たちの母親の一人なのだろうな、そう思い、ここで変態扱いされても困るので、愛想のいい笑顔を作ってボールを手にとった。
「いいえ」
顔をあげる。思ったより若かったが、少々ふくよかと言うには横に膨らみすぎた顔がそこにはあった。
痩せれば綺麗なんだろうな、そう想像させる眼もとではあったが、髪も長い間美容院に行けてはいないのか根元がずいぶん黒い茶髪でスタイルの定まらないものだし、化粧も眉墨と口紅をひいいただけのものだった。
「子どもがこちらに飛ばしてしまって」
見ると、この女性の足元には隠れる様に4歳くらいの男の子が立っていた。髪は短く刈られているが、お下がりのものと一目でわかる少々えりぐりのよれた丈の長いセーターを着ている。
母親が少年の背を優しさの滲む手つきでそっと押した。
「ほら、ちゃんとお兄ちゃんに謝って」
しかし、少年は気難しそうな顔をして俺を睨みつけるだけで、とうてい母親の教育的指導に耳を傾けそうにはなかった。
反抗期ってやつなのか?
さっきの敦と重なり、苦笑する。
「ま、謝りたくない時もあるやんな」
そう言って、何気に少年の頭を撫でようとした時だった。
俺の手が思わぬ方向に弾き飛ばされた。
一瞬、何が起こったのかわからずに目を丸める。そして少年が背を向け逃げる様に走り去った時、ようやく少年に自分の手がしたたか叩かれたのだとわかった。
自分の右手がジンジンと痛む。
「なんでやねん」
思わず呟くと、母親が慌ててボールを抱えたまま頭を下げた。
「すみません! うちの子ったら。あとでキツク叱っときますんで」
「いやいや」
あまりの母親の勢いに、逆に恐縮してしまい、俺はあやふやに笑みを作る。日本人とは、面白くない時にでも笑うものだ。俺達の漫才を笑わなくても。
「ほんまにすみませ……あ」
母親の動きが急に止まった。
目が合う。
母親のその目の動きは、何か目の前の自分と記憶の引き出しの中にあるものを照合するような、そんな動きだった。
なんだ? 知り合いにいたか?
こちらもそれなりの緊張を感じ「はい?」と首を傾げた。
すると、母親は何度か瞬きし、口を片手で押えた。
「もしかして、芸人の方やないですか?」
頬がかぁっと熱くなるのを感じた。
初めての事だった。
町中にいて、こんな、知らない人から芸能人扱いを受けるのは。
そりゃ、デビューしたころは意識した事もあったが、自分達のような小さな劇場で数分漫才をするだけの芸人何か、知る人ぞ知る、知らん人は全く知らん、無名に近いプロなのだと、すぐに気がついた。
だが、ついにこの瞬間が来たのだ!
胃の底がくすぐられるような感覚に、唇がむずむずする。
どや、敦。俺らも捨てたもんやないぞ!
ここに相方がいないのを口惜しく思いながら自分の鼻の穴が広がるのを感じた。
「あ、いや……」
「そうですよね! 凄い! こんな所でお会いできるなんて!」
「そんな、大したことないっすよ」
なぜか標準語になる俺。
騒ぐ母親の声を、他の人間も聞きつけてくれないかそわそわしながら周りを見回す。
しかし、それはちょっと図々しかったようだ。
彼女の歓声には遊びに夢中になっている子どもたちも、お喋りに花を咲かせている他の母親も気づいた様子はなかった。
ただ、砂場の向こうにある滑り台の鉄柱の傍で、さっきの少年がこちらを睨みつけてるだけだ。
その視線は、まるで警戒心を隠そうともしない子犬のように見えた。怖いくせに踏み出せない。踏み出せないけど、許せない、そんな感じで鉄柱にしがみついている。
「あの、息子さんは」
さすがに居心地が悪くなり、少々興奮状態の母親に話を振った。母親は我に返ったらしく、ボールを抱えなおすと、我が子の方を振り返った。
「あ、あの子ですか」
そういう声は少し沈み、固い砂の地面に低く這う。
「男の人が、苦手なんです」
「それはまた、なんで」
「まぁ……」
母親は曖昧に微笑むと、マシュマロの様に柔らかそうな指で自分の髪を耳にかけ、少年を見つめた。
不意に沈黙が下りた。