今はただ、殻破られる時を待つ
感情の起伏が薄い、とよく言われる。親密な周囲に同じFelidaeの種がいないためか、比較対象がいまいち掴めないが、街中を歩く人々を見る限り、確かに稀に見る近縁種は感情を露わにしている。特に尻尾は致命的だ。私はイライラを外にわざと出さない限り、尻尾を激しく振ることもない。こればっかりは生まれ持ったものなので仕方がないのだが、周囲との明確な齟齬に気づいてからはそう言われるたび、いやいやそんなことないですよ、と愛想笑いをして誤魔化す。昔はもっと感情豊かで、それがきっかけでこっちの方に引っ越すことになったんですよ、と、初対面の相手には更に付け加える。残念ながら、それ以上のことを言うことは決してできないのだが、大方の人はここまで言えば大体納得してくれる。
無論だが例外もいる。例えば初めて会った時、感情の起伏と引っ越しがどう関係あるんですか、答えたくないなら答えなくても大丈夫ですが、と返してきた彼とか。
ネズミという種族柄私より二回りほど小さな彼は、少し違う部署、正確には専門学校の事務と准教授という、業務としては全く異なる社会的位置にある。給与は私の方がいいようだが、臨機応変な対応をしなければならないのは大変だし、一方で彼も四六時中遺伝子のことを考えておかなければならないのだから大変だ。大変じゃないことなんて人生にはない、特に人生の短い場合は大抵、せわしなく時間が進んでいく。
そんな彼が事務室に来てモニターをにらんでいた。最近数名の他分野の研究者と忙しくしている彼だが、調査が忙しいとかでどこかに出かけていることも多い。こうして、恐らく論文ではなく一般向けの電子新聞をゆったりと、恐らく1秒間に27文字程度のペースで読むのは、実に32日ぶりのことだった。
「どなたか、お待ちですか」
精いっぱいの愛想を作って話しかける。苦手としている彼だが、出会って以降、特に変な詮索をかけられたりしたことはない。心配はない、はずだった。
「キュクロプス先生と、ヴォロス先生と打ち合わせをする予定でして、この後一緒に実地に行く予定なのですが、少し早めに準備できましてね」
彼の、色素の抜けた赤い眼はそう言っている間にも数行を読破していしまっている。その眼が私に向けられないように祈りながら、私は他愛もない世間話を続けた。
「あ、打ちあがったんですね、ロケット」
彼の読んでいたモニターの大見出しには、「世界連盟主導の衛星計画、遂に始動」とある。現在衛星軌道上を巡っている大型宇宙基地が、今回のロケットの輸送する物資によって完成し、いよいよ稼働し始める、目的は通信衛星規格の統合と、あとは。
「深宇宙探査、どうなるんでしょうね」
彼は何の前触れもなく、こちらを向いた。私は妙に居心地が悪くなって、窓の外を、そしてその向こう側を見る。外は春、大気に充満したエアロプランクトンがブルーミングを起こし、ただでさえ緑色だった上空が更に濃い色に変化する時期だった。そして、高度によって変わる色とりどりの藻類の層を抜けた先には、太陽と月だけが見える、暗黒の宇宙が広がっている。
そう、これは言葉に出して言える。未だ人類は星々の世界を知らない。かつて彼らが月軌道の外側に築いたハニカム構造の殻によって、この星は太陽光以外の星の光を遮られる檻に、同時に様々な天体衝突や、我々の積極的干渉に対して身を守る殻に、閉じ込められてしまった。時を経て私のような存在、かつてこの星から売られていったビーストフォークの子孫であり、今は外宇宙からこの星を調べに来ているEBE、それらは入り込むことが叶ったが、何も知らないこの星の住民、我々の先祖によってその殻の存在が知られるにはまだ時間がかかりそうだ。
「いつか、未知の世界が見つかるんじゃないかな、って私は思います」
当たり障りのない答えを返す。巨体のゾウの女性と、クマの男性が事務室に入ってきたのは同時で、早々に、それじゃ、と行って会釈をすると、彼は実地調査に行ってしまった。
そう、いつか、源種の残した呪いとも言える殻を破って、その外側の無限の世界を見つける時が来る。何百年も待ったその時が、楽しみだ。
珍しく、私は自分が笑みを浮かべていることに気づいていた。