9:30PM 非常階段にて
初投稿です。
宜しくお願いします。
───キス、したいなぁ
「どうした。茅原。たまってんのか。」
ぼんやりと考えてただけだと思っていたら、どうやら口に出ていたらしい。
「あー、聞こえてました?」
勤める会社が入る雑居ビルの非常階段の踊り場。
隣で缶コーヒーを啜る樺島さんはでけえ独り言だったぜ、と笑った。
「男の人じゃないんですから、溜まりゃしませんけどねぇ。」
手に持っていたカフェオレをこくりと飲んで手すりにもたれ掛かる。
樺島さんは会社の四期上の先輩だ。
私が入社したときから、何かと世話を焼いてくれる。
課長には、茅原の仕事は樺島が捌いたのか見分けがつかないと笑われる位に、仕事の何もかもを教えてもらった。
「ようやく今の案件もヤマを越えた感が出てきましたからねぇ。少し余裕ができたみたいで、女としての何かが枯れてる気がしてきたんですよ。」
「で、キスか。」
「そう。魂が溶け合うようなドロッドロのやつ。」
「生々しいな。」
気がつけば入社して3年、仕事ばかりで恋愛なんぞ全く縁遠くなっていた。
学生時代から付き合ってた彼と2年以上前に別れてそれっきりだ。
仕事を覚えてこなすことに夢中になっているうちは問題なかった。
でも、少し余裕が出てきたのか、このままで良いのかとはたと気になってしまった。
好きな人も居ない。
好いてくれる人も居ないまま、この先1人で仕事だけして生きていくのかな、なんて───
「艶が欲しいんですよう~。」
踊り場の手すりに突っ伏して叫ぶと、その叫びを消すかのように足元を電車が轟音と共に通り抜けていく。
線路沿いに建つビルは、その線路を見下ろすように非常階段が取り付けられていた。
その踊り場は通りすぎる電車を眺めて休憩するには絶好の場所だ。
こうして声に出して憚られるような叫びもその音に溶かして飲み込んでくれる。
「艶ねぇ。」
「艶です。愛し愛されて、色っぽいことでしか出てこない艶が女にはあるんですよ。」
「やっぱり生々しいな。」
樺島さんは乾いた笑いを漏らすと呆れたように遠くを見ている。
横に並ぶと頭ひとつ分よりさらに背が高い。
見上げるとその横顔は暗闇のなかで、寒々と頼りなく光る踊り場のライトに照らされて、凛々しさが際立って見える。
これでずっと彼女がいないっていうのだから信じられない。
以前そう呟いたらそんなもん作る時間ねぇよ、と苦笑いしてたっけ。
こんなにカッコいいひとが恋人を作る暇もないってどんだけブラックなんだ、うちの部署は。
同じ会社でも部署が違ったら樺島さんなんてモテモテだろうに。
───樺島さんは、恋人がいたらどんなキスをするんだろう。
それはきっと、私ではない誰かで───
そう考えたとき、チクリと胸の奥が痛んだ気がした。
「茅原は結構ロマンチストなんだな。」
「はい?」
遠くを見ていた樺島さんがふいにこちらに目線を向けるとポツリと呟いた。
うっかり横顔に見とれていたところに、思いがけない言葉が降ってきて思わず思考が停止しそうになる。
ロマンチスト?
私が?
相手もいないのにキスしたいとか騒ぐ女を?
「これって痴女か!って罵るところじゃないんですか?」
「いや、愛し愛されてキスしたいとかなかなかのロマンチストだろ。」
「っ?!だって相手も居ないのにキスしたいとかアホじゃないかとかっ」
「…相手なら目の前にいるだろ。」
「……え?」
今度こそ思考が停止する。
これまでの人生で無いくらい、目を目一杯見開いているのが自分でもわかる。
あれ、樺島さんがどんなキスをするかな、なんて考えてたの口に出てたかな。
それとも電車の音が聞かせた幻聴かと耳を疑うも、帰宅ラッシュの時間はもう過ぎて、足元を走り抜ける轟音の間隔がだいぶ広くなってきている。
「いるだろ、目の前に。」
空耳なんかじゃない。
樺島さんが一歩踏み出して間合いを詰める。
狭い踊り場に並んでいたから、もともと大して離れてはいなかったけど、今は肩が触れるほどの近くに樺島さんがいる。
これまでにない距離の近さにどうしたら良いのかわからなくなって目線をさまよわせた。
定まらない視線が樺島さんへ向いたとき、バチリと視線が絡まった。
樺島さんの少し長い前髪がさらりと揺れて、その奥にある瞳は強い光を宿して私を射抜いている。
「なな、何をそんなん、樺島さん冗談が過ぎますよ。」
「ふーん。じゃあ冗談ということで試してみるか?」
「え。」
「艶が欲しいんだろ?愛してるかはともかく、愛されるキスされてみろ。」
「ちょっと、どう───」
どうしたんですか、とは最後まで言わせてもらえなかった。
樺島さんが更に間を詰めたかと思った瞬間、顎を掬い上げられて唇に柔らかい感触がふわりと触れる。
「ん、ん!」
優しく触れていただけの唇が離れた瞬間、ペロリと唇を舐められる。
「ちょ、ふぁあ……」
思わず少し開いてしまった唇に割り入れるように、樺島さんの舌が侵入してくる。
思わず後ろに下がろうとしても、最初に顎に添えられていたはずの大きな手が、いつの間にか頭の後ろへと回っていて頭を動かすこともできない。
頭ひとつ分より更に背の高い樺島さんは、肩も胸も広い。
そんな彼に私ができる抵抗なんてない。
ガッチリとした胸を叩いてみてもびくともせず、更に腕に力を込められて身動きが取れなくなる。
ひと周り以上大きな樺島さんの腕の中にすっぽりと抱え込まれて、そういえば学生時代にアメフトやってたって言ってたっけ、とぼんやり思い出した。
樺島さんが飲んでいたブラックコーヒーの苦味がして、でも不思議と甘く感じて体の芯が痺れたような気がした。
それでも逃げようとしてた舌を捕まえるように絡められて、逃がさないとばかりに吸い上げられる。
息継ぎもできなくて、苦しくて助けを求めるように思わず樺島さんのシャツを掴むと、これまでの荒々しさが嘘みたいに優しい腕が腰に回る。
何度となく唇を離しては、樺島さんはその度に離れがたいかのように上顎をなぞり、名残惜しそうに舌を絡める。
そして離れているのが我慢できないとばかりにすぐに唇が塞がれる。
それを繰り返しているうちに、ぞわぞわと腰の辺りに這い上がる何かを感じて、段々と足に力が入らなくなっていった。
「溶けたか?」
いつまでそうしていたのだろう。
長い長いキスの後、唇を離した樺島さんが、ニヤリと笑う。
「……うん。」
樺島さんが腕の力を緩めると、すっかりグズグズに溶けた体は支えを失ってその場に座り込みそうになる。
「すまん、やり過ぎたな。」
崩れ落ちそうになった私を慌てて支えながら、樺島さんは苦笑いをこぼした。
「なん、で……」
やり過ぎどころじゃない。
溶けるようなキスをしたいと言い出したのは確かに私だ。私だけど、あまりに容赦のないキスだった。
どんな顔をして樺島さんを見れば良いのか分からない。
うつむいた私に、樺島さんは短く嘆息すると呟いた。
「嫌だったか?」
不思議と嫌ではなかった。
それどころか物凄く良かった。
体の芯が甘くグズグズになるほどに。
溶けてなくなってしまうのではないかと思うほどに。
だからあんなキスに、意味を求めたくなってしまった。
───私、樺島さんが好きだったんだ。
「ううん。」
「そうか。」
緩く首を振ると、樺島さんがホッとしたのが分かる。
そして緩めてた腕に再びきつく力が籠った。
「もう、立てますっ、からっ」
「───離したくない。」
また樺島さんに抱き締められるように胸元に引き寄せられて、慌てて身を捩ったけれど、耳許に低く響く声音で囁かれて抵抗なんてできなくなる。
「茅原、好きだ。」
驚いて樺島さんを見上げると、真っ直ぐ私を射抜く視線とぶつかる。
「茅原が、初めて配属されたときからずっと、好きだった。」
「うそ…。」
「嘘じゃない。」
「だってそんな素振り全然…。」
「そんなもん仕事中に駄々漏れにしたらチームに迷惑がかかるだろ。」
樺島さんはお前にもそんな余裕があるように見えなかったし、と呟いて抱擁を解くと、私の両腕を掴んで真っ直ぐな視線で貫いた。
「でも色恋に目を向ける余裕ができたんなら。キスしたいなら、俺にしとけ。」
足元を、電車が走り抜けていく音が響く。
「俺にしとけよ。」
今まで見たことのない、強い光を湛えたひとみから目が逸らせない。
言っても、良いんだろうか。
今さっき自覚したばかりなのに。
でも、今言わなかったら───
「私も、すき…。」
思わず零れた言葉は、吐息のような小さな呟きだったけれど、樺島さんに届くには充分だったようで。
私の腕を掴んでいた手が、するすると頬を優しく包む。
「もう一度、溶かしていいか?」
囁くように低い低い声でそっと告げる樺島さんに微笑むと、返事の代わりにそっと目を閉じる。
樺島さんがふっと表情を緩める気配がして、再び唇が重なる。
二人の影が吐息と共に夜に溶けていった。