コンテンツの料理法
わたくし少年のころはアニソン・特ソンの音源コレクターでした。当時インターネットがありませんからネットでカラオケを配信するシステムがありません。8トラックカセットやレーザーディスクで音源が来るわけで、マイナーな曲はカラオケにはなかったのです。当時のアニソンオタクは替え歌オフとかやっていたわけで、特撮レーザーディスクカラオケを置いている店は全国のマニアが憧れました。いちどだけ行ったことがありますが、「そこの席にさっきまで某漫画家さんが座ってたのよ」と言われましたし、途中で出てきた人は歌いながら戦隊もののポーズを3人組でシュビっと決めた後、「君たち、明日〇〇スーパー屋上に来てくれよな」と叫んでステージを降りました。中の人たちだったのです。
この種のビジネスに熱心なレコード会社は、音源をたくさん持っているところです。企画CDのスタッフが熱心でない会社に頭を下げて、音源を使わせてもらって新しい切り口のCDができるわけです。そうすると、「〇〇マンの主題歌はどの主題歌集にも入っていて、初CD化される音源があるとまた同じものを買わねばならない」ことになります。もちろん初CD化される音源だけをかき集めたCDも出ますが、そうなると全然興味のない曲まで買わされることになります。「チャージマン研」というアニメは一度も見たことないんですが主題歌音源は持ってます。「緯度0大作戦」の主題歌なんかあるのか? とCD裏を見て首をかしげながら買ったら、1960年代の若々しい納谷悟朗ボイスのナレーションでした。確かにお宝音源ですね。
これは、「中級者をげんなりさせないミリタリコンテンツ」に通じるものがあります。いまさらIV号戦車の三面図とかバルバロッサ作戦の大雑把な作戦図とか、みんなたくさん並べたり積んだりしていると思います。でもそれを抜いて、誰も聞いたことのない話をバラバラに詰め込むと売れるかというと、たぶん少数の「間口が広い人」と「価値ある1ページのために本を丸ごと買う人」は喜ぶのですが、後者は立ち読みで用が済んだらあとはお布施で買う(かもしれない)人たちですし、ある程度の下地がない人は相手にしない本になってしまうわけです。
「真実の追及に何も留保しない、覚悟完了した読者」というのは、例えば歴史学の教授になるとかいう現世のご褒美があるなら、ある程度の人数は集まるのかもしれません。ただそっちのゴールにたどり着ける人が明らかに減ってきて、日本の人口上昇率がプラスに転じるまで拡大の見込みがないとなれば、昔はああだったこうだったというだけ無駄なことです。「少数のお客でも回るモデル」というのは、そう簡単には見つからないんじゃないでしょうか。「今までなかったもの」には「ない理由」があるのです。だからまあ、「ビジネスにならないことを承知のソリューション」を混ぜないといけないと思うのですね。
コンテンツの中で「誰も聞いたことのないネタ」を生かそうとするなら、推理小説でトリックを中心に登場人物を配置するように、そのネタの「見せ方」を工夫することが不可欠だと思います。そうすると「体系的な」書き方にこだわることが重荷になって、「講釈師」めいたものになり、それにカリカリする中級者・上級者が出てくる難しさがあります。