補給について調べる困難
「補給を重視する」というと、いかにも軍事をわかっている気がして、歴史上の無能な指導者の上に立てるような気もして、気持ちいいですよね。ところが補給の具体的なところを調べようとすると、なかなか資料が見つからないことに気づきます。
これにはいろんな理由があります。まず、どんな出版ジャンルでも、売れない本は出版されません。補給の話には楽しい話や勇ましい話はほとんどありません。軍事警察をやるか、他人が書けない軍事読み物を書くか、そんな動機のある人くらいしか買わないだろうと思います。
そして、補給「システム」のことがわかっている軍人はあまりいません。補給のお世話にならない軍人はいないのですが、補給の話は商品知識の塊です。例えば砲弾の先に木づちで信管を打ち込んだとき、摩擦熱で信管が暖まり、大事故につながるリスクがありました。それを担当するドイツの若い女性工員は、「変なにおいがしたらすぐ信管を抜け」などと指示されていました。そういう品目ごとに守るべきルールを指示し、管理するベテラン兵士や民間人の軍属が生産や輸送の現場に少しずついて、それぞれの品目を前線まで届けていたのです。もちろんそれら全体を管理するのは、非常に優秀な少数の参謀士官たちですが、そういう人が書いた本は少ないわけです。
語れる人がいても、今度はデータに問題があります。例えばアメリカからソヴィエトに送られていた物資は、大きく分けて(1)アラスカ⇒シベリア空路(2)西海岸⇒ウラジオストック海路(3)現在のイランに陸揚げして鉄道で国境を超えるルート(4)イギリスから北極海を越えて、ムルマンスクに向かう海路がありました。(2)は日ソ中立条約をあてにして、護衛なしで送り込むものですが、武器を送ると日本が攻撃・接収する口実になりますから、食料品や布製品などに限られました。「重さで言えば」(2)の割合はかなり高かったことがわかっています。(1)は重いものが運べないので高度な化学薬品や航空機そのものに限られ、戦車などの武器はドイツ海空軍と戦いながら(4)で運んでいましたが、ドイツに邪魔しにくい(3)が大規模に回るようになって、ソヴィエト軍にアメリカのトラックやジープが大規模に入って行きました。
物語としてはわかりますが、この話全体をわかりやすくデータで示そうとすると、「重さ」くらいしかまとめようがないことがわかります。貿易だったら取引額が出るのですが、それぞれのルートで何万ドル分の物資を運んだかは、ルート別の数字がないわけです。それを買ったアメリカ政府の部署ならわかるでしょうが、何をどのルートで送るかをその部署は知る必要がないし、軍事機密は洩らさないほうがいいわけですから。
生産は本国でやるわけですから、「使った・喪失した」「届いた」データに対して、「作った」数量は調べやすい・残りやすいのです。だから戦時生産の話なら本や論文があるのに、各部隊に届いた数や時期別喪失数のデータが見つからない……ということになりがちです。1943年以降のドイツ装甲師団のそれぞれについて、何年何月に何が何両送られたか(届いているとは限りません)を本国に残っていた書類から丹念にリストアップした本が10年くらい前に出ましたが、今では大変なプレミアがついています。といっても数万円のことなので、古書店に出てくれば買い手はすぐにつくのだと思いますが。
1941年以降、ドイツがソヴィエトに深く攻め込んでいくにつれて、鉄道を使って物資を送ることがますます大変になって行きました。行ったら戻って来なければならないわけで、鉄道そのものが水や石炭を大量に必要としますから、同じ列車数でも送りたいものを積める量が少なくなるし、列車や機関車もいくらあっても足りなくなったのです。ソヴィエトの厳しい冬に耐えられる鉄道車両が少なかったことも重なって、1941年の末頃には鉄道輸送がひどく滞った時期がありました。
1940年から1941年にかけて、ドイツの軍需生産は全体としてほとんど伸びなかったことがデータとして知られています。弾薬生産もそうなのですが、少なくとも1941年末から1942年春にかけては、「弾薬生産が足りない」ことではなくて、「輸送の問題で、弾薬が前線に届かない」ことが現場では問題になっていました。だから「重くて使用量も多い種類の弾丸」は節約しなければいけなかったわけです。
ただ、弾薬の種類によっては、1941年9月で国内在庫と前線部隊が持っている量をを合わせても生産量の4ヶ月分しかない、6ヶ月分しかないと言った危機の前触れが起きているものはありました。
そういった話を次の小説では盛り込むつもりでいます。