ストレート
「一打席だけだからね」
ヘルメットを被ってマウンドの拝島に声を張る。黒のピッチャー用グラブを左手にはめた拝島は、スパイクの爪先で地面を掘りながら、短く「おう」と答えた。
私はバッティンググローブを装着して、手を握ったり開いたりしてみる。
買った当時は真っ白だったはずのそれは、今は土で汚れてその輝きを失った代わりに、私の手にしっとりと馴染んでいる。手のひら側の小指の付け根ら辺は、擦り切れてボロっちくなっていた。
私は銀色のスリが入ったバットを左手に握り、ゆっくりとホームベースの方へ向かう。
それから、これまで幾度となくそうしてきたように、打席を足で均しながら敵対する投手を見据えた。拝島はまだ残暑の厳しい陽射しがあるというのに、長袖のアンダーシャツを着ている。
右足から打席に入り、バットの先端をホームベースの中心に合わせて適当な立ち位置を決めた。
「なあ、立川」
グラブを小脇に挟み、両手のひらで白球を磨くように擦りながら、拝島が急に呼びかけた。
「なに? 今集中してんだけど」
左手に持ったバットをゆっくり大きく回し、その流れで構えるのが私のルーティンだ。
「この勝負にもし俺が勝ったらさ」
「うん」
「俺と付き合ってくれよ」
「は?」
面食らった私はせっかく構えたのをやめて拝島に向き直った。
「何言ってるの?」
「本気だよ」
そう言う拝島は、確かに真剣な顔つきをしていた。二死満塁を背負ってクリーンナップと相対する時のような、闘気の宿った眼差し。
なんだかそんな風にされると、何とも言い難い気持ちが駆け回って、私はバッティンググローブのついてない右手で頬をかいた。
「そんな顔で言われちゃ仕方ない。受けて立とう」
「よし、絶対打ち取ってみせるぞ」
「ただし」
私は再びバットを大きく回す。
「手加減は絶対しないから」
膝を落とし、余計な力を抜いてゆったりと構える。雑念を払い、ただ白球と投手のモーションだけに精神の照準を定める。
腰元にグラブを据えた拝島は、呼吸を整えてゆっくりと左足を引いた。そのつま先が螺旋を描くように回転しながら持ち上がり、やがて前方に大きく踏み出される。
スリークォーター気味に振り抜かれた腕から放たれた白球は、空気を裂くように伸びて、私の膝元へ。瞬時に右足に体重を残して鋭くコンパクトなスイングで。振り抜く――。
ガシャン。およそ130km/hくらいであろうストレートは、バックネットに当たった。
「まずワンストライク」
拝島が不敵に笑う。
私は悔しさを隠しもせず投手を睨めつけた。拝島の球は、思っていたよりも速度を失わず、むしろ手元でノビたようにすら錯覚させた。ややシュート回転のかかったインローは、彼の武器の一つであった。
足元にある2球目を拾い上げる拝島を見て、私も集中力を高める。
拝島の足が大きく前に伸びたタイミングで、私も重心を右太腿の辺りに持ってくる。再び速球。今度は外角低め。
右足親指の付け根で地面をえぐるようにして、膝、腰、胴と順番に身体を捻り、全ての力を込めて最短距離を振り抜く。
キィン、と甲高いと音を立ててミートした球は、一塁側ファールゾーンを切り裂くような回転のかかったライナー性の当たりになった。
「少し振り遅れたか……」
「ツーストライク」
あとコンマ数秒早く振っていればライト線長打コースだったというのに、動揺を見せない拝島が3球目を拾う。
拝島はマウンドで1度深呼吸をした。私もそれに倣って呼吸を整える。
二人しかいないグラウンドを、日本刀みたいに鋭利な緊張が支配する。土も芝も風すらも、身じろぎ一つ出来ずに息を呑んでいる気すらしてくる。
拝島の左膝が、すっと上がった。
力強く地面を踏んだ彼は、流れるようなモーションで、腕を振り切った。まさに、渾身の1球。申し分ない速度で迫り来るボールは、外角へ。
しかし、甘い。ベルトより少し低いその位置は、私の得意なコース。
絶好球。もらった!
快音、右方向。肩越しの私の視線と、投球を終えた拝島の視線が、打ち返された球の行方を追う。
時が止まったような感覚の中、心臓の拍動だけが妙に煩い。
勢いのない打球は、ふらふらとセカンド後方に落ちた。
ライト前ヒットだ。
「くそっ……!」
悔しそうな声をよそに、私はじんじんと痺れた自分の手を見ていた。
拝島も分かっていたであろう、私の得意コース。そこへ真っ直ぐ入ってきたと思われたボールは、手元で逃げるように変化して芯を外れた。直球であればセンター定位置を大きく越える会心の一撃だったであろう。
「カットボールって……男ならストレート3球で勝負してこいよ」
私は自分にしか聞こえないように呟いて、少し笑った。
逆に言えばあのカットボールは、どうしても打ち取りたいという強烈な意思故の選択だったのは、よく伝わってきていた。
「拝島!」
声を掛けると、膝に手をついて項垂れていた負け投手は顔を上げた。打席を軽く均してから、私は歩いてマウンドへ向かった。
「私が勝ったんだから、私の言うこと1つ聞いてよ」
悔しそうに歯を食いしばった拝島の顔は、近くで見ると泣きそうな表情にも見えた。あれだけ勇ましかったチームメイトなのに、なんだかそれが情けなくて、ちょっとかわいくて、つい笑ってしまう。
「私と付き合って」