呪われた青年、そして白猫と願い
私は、鏡に向って問いかける。
何故、あなたは白いの?
何故、あなたはその場所にいるの?
何故、あなたは悲しそうなの?
見渡せば、鏡はなくなっている。
見渡せば、銀色の狂おしい光が私を囲んでいる。
見渡せば、幾千もの命が私を威圧している。
空の満月が、とても綺麗。
後ろから声がした。
「こいつら蛮族をすべて――してくれ。それが俺の願いだ……これで姫様も……」
私ではない〈私〉が答えた。
「その願い、叶えましょう」
闇を飲み込むような咆哮。
花の如く散ったのは、紅色の霧雨。
霧雨は地の花々を染め、生命の悲鳴を艶やかに浮き上がらせる。
私は、ただ見ていた。
私は、ただ踊っていた。
満月は霞み。
地は死に歪み。
〈白猫〉は命を喰らっていた。
ああ、そうか。
私は、夢を見ているのだ。
長く長く、
自己の存在さえも、
世界の輪郭さえも、
現実と幻想の境界さえも、
溶けて視えなくなってしまう程の悪夢を。
−意味もない、夢もない、魔女の夢語り−
「頼むっ! 俺を世界で一番の金持ちにしてくれ!」
と、僕の目の前で膝をついて懇願する男が言った。
僕は贅を尽くした一室にいた。豪華という言葉はこの部屋の為に存在するのではと思える。個人の書斎というには、ちょっとしたパーティができそうなほど広かったし、天井からは煌びやかなシャンデリアが、強暴なハチ巣を思わせるようにぶら下がっていた。僕のすぐ後ろにある大理石の机は重厚で、無駄な威厳を放っている。他にも数えれば、そう言ったものは部屋の中にたくさんあるがきりがない。はっきり言って、僕には無縁な空間演出物だったし、それは無駄の塊に見えた。金持ちの考えることは理解できない。
目の前の男はまさにこの部屋に見合うだけの格好している。指には宝石の指輪があちこち収まり、衣服はまるでこれからパーティにでも行くのかと思えるくらい、ピシッとしたスーツを着ていた。これが部屋の主。今回の契約者。
「……いいでしょう。あなたの願い叶えます――時にいいですか、ご主人」
と、僕は淡々とした口調で言った。
男はにこやかな笑みを浮かべると、
「なんだ? 願いが叶うなら何でも答えてやるぞ」
と、高らかに答えた。
「あなたは、今よりお金を得なくても充分お金持ちに見えるのですが……」
僕は再び部屋の中を見回す。あの壁の、女性を描いた絵はどれくらいの値段なのだろうか。
「――俺より金をもってる奴なんてたくさんいる。こんなの序の口だ。俺は満足してない。俺は、もっと! もっと大金が欲しいんだよ!」
と、男は両手を大きく広げて、演説するような口調で言った。僕はこれまで人の願いを叶えてきて、これほど欲望をむき出しにした人間は初めて出会う。だが、それだけに、僕はこの者の願いを叶えることに躊躇しないですんだ。
「分りました」
僕はこれまで、何度も繰り返してきた動作をとる。
「では、あなたの願い、叶えましょう」
指をパチンッと鳴らした。――これは栄光の訪れの合図でもあり、同時に破滅の訪れでもある。
瞬間、部屋の重そうなドアが荒々しく開かれ、
「シュラク様!」
と、黒いタキシードを着た中年の男が入ってきた。
シュラクと呼ばれた男は、パッと折っていた膝を立てると、
「――なんだ! ノックぐらいしないか! 今俺は忙しい。大事な客人もきてるんだぞ!」
と、早口で怒鳴るように言った。
タキシードの男は、慌てて深く一礼する。
「申し訳ありません! しかし、緊急のお知らせが――」
と、タキシードの男はシュラクの耳元にそっと何かを伝えた。
シュラクの顔は驚きと喜びではちきれそうになる。
「それは本当か?」
と、シュラクは言った。
タキシードの男はこちらの様子を少し気にしながら、
「はい、間違いありません」
と、声を小さくして答えた。
「よし、早速作業にあたるように伝えろ。俺も後で行く」
「かしこまりました」
と、タキシードの男は、シュラクと僕に一礼して部屋を出て行った。
シュラクはこちらを向いて、
「すごい! 君は本当に素晴らしい!――今、俺の鉄の採掘場から、溢れるほどの金が見つかったそうだ! はっはっは! これで俺はもっと金持ちになれる!」
「それだけじゃありませんよ」
と、僕は右手に持っていた、一本のステッキをシュラクに見せた。
「それはなんだ?」
と、シュラクは僕の持つステッキをまじまじと見た。
「これは……こう使います」
僕はステッキを軽くふって、
「山ほどのお金」
と言った。
「……おお」
シュラクは歓喜に満ちた声を上げる。僕達の前、何の動物の毛皮か知らないが、高価そうな毛皮の絨毯の上に、山積みになったお札が現れたのである。
「これは、お金を願った分だけ作り出せるステッキです」
と、僕はステッキをシュラクに渡した。シュラクはそれを震える手で受け取ると、
「は……はっはっはっはっは!!!」
ただ、高らかに笑い声をあげだ。次第にその声は欲望に満ちた、生々しいものに変わっていく。僕は改めて、人の欲望の深さを実感した。それは、枯れた井戸を覗くように深く、底の見えないような感覚だった。
「あ、一つだけ言い忘れたことがありました」
僕のその言葉で、シュラクの笑い声がピタリと止まる。
シュラクは不安げな声で、
「……なんだ?」
と訊いた。
同時に、窓はカーテンの一つもかかってないはずなのに、部屋が真っ暗になる。
「こ、これはなんだっ!? どうなってる!?」
と、シュラクはうろたえた声を上げた。シュラクからは見えなくても、僕にはシュラクの姿がよく見えていた。
僕は感情の篭ってない声で、
「〈白猫の籠〉。それは、誰であろうと、願われた『願い』は必ず叶える。だが、その代償として誰であろうが、その願った者は――命を〈白猫〉に”喰われること”になる」
「そ、そんなのペテンだっ! 俺は最初、そんなこと一言も聞いていなかったっ!」
と、シュラクが精一杯声を張り上げて答えた。だが、その奥には恐怖が潜んでいるのを感じる。
「ただ、何でも願いを叶えてくれるお守りだと聞いて買ったんだ! 俺は本当に何も知らなかった!」
「言いませんでしたから……それが〈白猫〉のルールです」
僕はこの場面になると、自分の心の奥底がどんどん固く、冷たくなっているのを感じる。もう、僕はどれくらいこれを繰り返してきたのだろうか? 回数を重ねるたび、僕は何も感じなくなっていく。だが、同時にそれがとても怖かった。このままいけば、僕は人に希望と絶望を与えるだけの人形になってしまう。なのに、
「それでは、あなたの命――いただきます」
と、僕はゆっくりとシュラクに近づいていた。硬い足音が響く。
〈白猫〉のルールには逆らえない。その呪いからは逃れられない。
僕の中では、その衝動――シュラクを”喰おう”とする衝動が溢れそうになっていたのだ。頭より先に、体が動いてしまう。
シュラクは狂ったようにステッキを振り回し、
「お、俺はみとめんぞ! こんな所で、俺は死ぬわけにいかないんだっ!」
僕はシュラクの振り回すステッキを、軽々と受け止める。
「ひっ! 来るな、来るなっ!」
と、シュラクはステッキを放し、目が少し慣れたのか、ドアの方へと走り出した。が、ドアはシュラクが何度ノブを回しても、ピタリとも動かない。ふと、僕はあることに気がついた。ははは……、なんだ。結局僕もこの男と同じ。とても醜いものを体の中に共生させているんだ。そう思うと、僕は少しやるせなくなった。――もう、終わらせよう。
「な、何で開かないっ! 誰かっ! 助けてくれっ!」
シュラクはドアを何度も叩いて叫ぶが、誰もやって来る気配がない。僕は、床を軽く蹴ると、シュラクの真後ろに向って低く跳躍した。音も無く着地。そして、シュラクの体に手をかざし、
「ひ、ひいっ」
その手をゆっくりと上げる。シュラクの体はふわふわと、かざした手の後を追うように上昇する。
シュラクは必死に空中を暴れて抵抗するが、反して体は持ち上がっていた。やがて体は反転して、シュラクの顔がこちらに向く。その顔は恐怖で歪んでいた。
僕は、シュラクが見上げる程高くなった所で、その上昇を止める。シュラクは首をぐったりして、なにやら急に大人しくなった。
「ははは……、これが俺の最後か」
と、シュラクは力なく笑いながら言った。「なあ――一つ頼みごとを聞いてくれないか」
この男、一体何を言うんだ? 命ごいかとも思ったが、シュラクの顔は完全に生気がなく、諦めきった顔をしている。
僕はシュラクの言葉を無視して、上げていない方の手で、指をぱちんっと鳴らした。
シュラクの手足がゆっくりと、黒く染まっていく。それはシュラクという存在を噛み砕いていくように、ゆっくりと体の中心まで進行していく。
「――俺にはな。金の次に大事な一人娘がいるんだ。そいつが心配だ……」
シュラクは自分の体に起こっている出来事をまったく無視して、誰に言うでもなく言った。 なん、だって?
黒色はすでにシュラクの胴体をすべて染め上げていた。残るは顔だけ。
ふいに、シュラクの顔が、目が、生命の輝きを取り戻し、僕をまっすぐに見つめた。
「なあ、〈白猫〉よ。もし娘に何かあったら、その時は頼む」
その顔が、とても忘れられなかった。命がちりちりと燃え尽きてしまいそうなのに、力強くしっかりとした顔。
何で、僕にこんな顔を、こんな言葉を向けられるのだ? 僕は、シュラクの命を奪おうとしているのだぞ? 今になってそんなことを言うなんて……分らない。本当に分からない。
僕は上げた手に力を込める。シュラクは今、影のようにすべて黒く塗りつぶされてしまった。
最後に見えたシュラクの顔は、欲に溺れた人間でも、恐怖に歪んだ顔でもなく、父親の顔だったのだ。
シュラクだったものはやがて、砂のように細かくなりながら、僕の手の中に吸い込まれる。
部屋の明りが元に戻った。だが、部屋の主は消え、床には煌く銀色の指輪だけが残っている。
何の感情も湧かなかった。僕の心は硬く、そして凍えるくらい冷えていく。いつの頃からだろうか、こうなったのは。苦しみも、痛みも、罪悪感も感じない。
それが、とても怖い。
いつかこの恐怖すら感じなくなってしまうのだろうか。
それが、とても怖い。
永遠と、この呪われたサイクルが続いていくのだろうか。
それが、とても怖い。
僕はゆっくりと後ろに倒れる。頭は重く、体には何の力も入らない。
冷たい感触と、硬い感触。それが背中に起こったとき、僕はガラスの棺に入ったのだと気がついた。深い眠りに落ちていく。また、人の願いを感じるまで。
”いつか、いつか必ず、〈白猫の籠〉はあなたを呪いから解放してくれる”
ずっと昔に聞いたことのある少女の声が、そっと、霞むくらいに弱く聞こえた気がした。
僕は何もない真っ暗な空間に、一点だけ意識の塊として浮かんでいた。その意識のある感覚は、僕が目覚めている証拠だった。同時にそれは、もうすぐ召喚されるという合図でもある。
僕は、棺の中――つまりは役目を終えた後はまったく思考できなくなる。完全に停止するということだ。だから、僕が考え、記憶し、匂いや音を感じることができるのは召喚された時だけなのである。それは、睡眠から覚めるのと同じ。だから、僕の頭の記憶は起きている時しか刻まれない。そして、同時に『白猫』の役目の中でしか生きられないと言うことでもある。思い出という言葉なんてはるか前に忘れてしまった。
思考だけが浮かんだ状態で、ふとある異変に気がついた。強い『願い』が感じられない。異常な出来事だった。『願い』の強い感情は、僕を召喚するための前提条件なのである。その条件が揃っていない状態で、召喚されるなんてことありえない。水の中で火が点くのと同じくらいありえないことなのだ。
突然、視界は薄暗い深緑を映し出し、匂い、空気、五官のすべてが現実世界という感触を得ていた。足には硬く、でも少しふんわりとした感触、どこかでフクロウが鳴き、空気は少し冷たく青臭い。空にぼやっと淡く浮かんでいる満月は、この深い木々に囲まれた中では、たった一つの大きな道しるべのように見えた。
ふと、後ろで何かが動いた気配を感じる。
「あなた、誰?」
と、少女のような細い声が聞こえた。僕は月明かりを背にして振り返る。
声の通り、目の前には少女が立っていた。長く伸びた銀色の髪。瞳は澄んだ青色をしていた。そして淡い緑色のドレスを着ている。
少女の銀色の髪が、月明かりに照らし出され、幻想的な淡い輝きを放っていた。僕は思わずその光景に、一瞬だけ魅入ってしまった。もし、背中に羽があったら、妖精と勘違いしていたかもしれない。それくらい、その様子は美しかったのである。
しかし、僕は少女の指にはめられていた銀色の指輪に気が付いた。――まさか、彼女が召喚者?
「えっと……、僕は契約精霊なんだ。君のはめている、右手の指輪〈白猫の籠〉に住んでいる。どうやら、僕は君に召喚されたみたいなんだが……」
最後の言葉は嘘だった。本当は何故ここにいるかなんて皆目検討もつかない。そもそも、『願い』の強い力を感じないのに、僕はこの場所に召喚されている。本来なら、ありえないこと。僕の契約は召喚者の『願い』を叶え、召喚者の命をもらうことなのである。それから、『願い』を叶えることを抜き取ってしまったら、何も残らない。僕は状況がはっきりとするまで、嘘を突き通そうと思った。
少女はしばらく呆気にとられた顔をしていたが、
「けいやくせいれい?」
と、ゆっくりとなぞるように言った。
ああ。やはりこんな状況じゃ、すぐには信じられまい。だが、僕の考えに反し、
「本当に?」
と、少女は問いかけてきた。
その、真剣に問いかける少女の瞳に、一瞬だけ輝くものが走ったの気のせいだろうか。
「ああ。ちなみに僕の契約は……僕を自由にすること、その代り、君のいうことに何でも従おう」
「あなたを自由にするってどういうこと?」
と、少女は訊いた。
「……僕は元々、人間なんだ。それがちょっとした事故に巻き込まれてしまって、君が持つ〈白猫の籠〉の呪いを受けてしまったんだ」
これは本当のことだった。今では色褪せた場面にしか見えない、昔の話。
「じゃあ、あなたは……えっと……」
「そう。半分は人間で半分は精霊って所かな」
と、僕は答えた。「だから、人間に戻るには今の契約を果たしてもらうしかない」
「いいわ。決まりね」
あまりにも即答の返事に、僕は一瞬少女が何を言ったのか理解できなかった。
「何が?」
「だから、私はあなたと契約するっていうこと」
なんという決断の早さだろうか。そもそも、僕が言ったことを殆ど鵜呑みにしている。僕は思わず、
「本当にいいのかい?」
と訊いていた。
「ええ。だって、今私、すごく困ってるんだもの。それとも今までの話は嘘?」
「……いいや、本当だけど」
「じゃあ、問題ないじゃない」
と、少女は不敵な笑みを浮かべて言った。「――ねえ、それで契約ってどうするの?」
「……握手、することかな」
と、僕は片手を少女の前に差し出した。「それで契約は成立だ」
「そんなに簡単なの?」
と、少女は何か期待がはずれたような、残念そうな顔をして言った。
「ああ」
自分でもこんなでたらめなことを言って、バレやしないかとも思ったが、
「そう。わかったわ」
少女は僕の手をゆっくりと握り返した。少女の細い手は、見た目と反して暖かい。
「私の名前はマリー・シュリエールよ」
と、マリーは笑顔で言った。本当なら、その顔もとても温かいはずなのに、僕には何も感じなかった。
「僕は……シー。〈白猫〉のシーだ」
僕達はお互いの手を離すと、
「これで契約は成立ね」
と、マリーが言った。偽りの契約。
「では、ご主人様。何なりとご用を」
と、僕が丁寧な口調で言うと、マリーは眉をひそめて、
「それ、やめて。私のことはマリーでいいし、そんな言い方もしなくていいわ」
「わかった、マリー。……これでいいかい?」
「うん、上出来ね。……じゃあ、シー。最初の命令よ。風きり草を探すのを手伝って」
その瞬間、僕は体の奥に湧き出るような躍動感を感じる。ありえない。それはまさしく〈白猫〉の力だった。しかし、マリーからは『願い』が感じられない。なのに……〈白猫〉の力を使うことができるというのか。
僕は戸惑った。何かが狂っている。今まで秩序として動いていたルールが崩壊しているのを感じた。音もなく、一枚一枚花びらが散っていくように。
「……どうしたの? まさかできないなんて言わないわよね」
と、目を細めて言ったマリーに見えない角度、自分の背中に僕は手を回し、
「わかった。――風きり草はこれでいいかい?」
と、マリーの目の前に緑色のものを差し出した。それは、一本の細い茎に無数の葉が枝分かれに生え、尚且つ葉の部分が内巻きにくるくると曲がっている、とても変わった野草だった。
マリーはしばらくの間、目の前に出されたものが、何なのか分らないような感じで、唖然としていた。当然の反応だろう。
「これ、もしかして風きり草?」
と、はっとしてマリーは訊いた。
「うん。そのはずだけど――マリーの方が詳しいんじゃ……ぐっ」
突然、マリーは僕の足を蹴飛ばしていた。「何を――」
「すごい! これでエレアが助かる! シー、あなた一体何をしたの?」
と、マリーは喜びを全身で表現しながら、目を輝かせて言った。どうやら、僕は本当に風きり草を出してしまったらしい。もし、そうだとしたら、『代償』を頂かねばならないはずだ。
しかし、『代償』を与える力というのか……衝動を感じないのである。その衝動が無ければ、『代償』を与える必要はない。逆にその衝動に、呪いに逆らえないのと同じ様に。すべて花びらが無くなった後に、花の本体も萎れて黒ずんでいくようだった。一体僕に何が起こっているのだろうか? それとも、”彼女”が言った時が迫っているのか? 様々な疑問は膨らんでは萎み、結論という大きな形を成すことがなかった。
考えても何も分らない。ただ、〈白猫〉たる何かが狂い始めているのは確かだった。
「シー。ボーっとしてないで早く帰りましょう!」
と、マリーは僕の空いた手を引張っていた。「早くエレアに風きり草を飲ませないと」
「――ちょっと待って、マリー。帰るって一体どこへ?」
「”ねこの家”。私達の家よ」
僕はまた力の衝動を感じた。
「分った。ねこの家だね」
と、瞬間、なんの間もなく、僕達二人は茶色い土の上に立っていた。辺りの深緑は姿を消し、淡い風と広々とした草原がかわりに現れる。
そして、すぐ目の前には、レンガで作られた塀と鉄格子の門。門のすぐ横にある横文字の標札には、”ねこの家”と書かれていたのだった。
もう何度目かわからない、マリーの唖然とした顔。
「さ、早く中へ入ろう」
と、僕は言った。「急ぐんだろう?」
「ここ、ねこの家……?」
「多分そうだと思うけど」
と、僕が言うな否や、マリーはポケットから鍵の束を取り出し、一つを門の鍵穴に入れた。
かちゃり、と硬い音がし、マリーは周りを確めるようにして中に入る。その姿は泥棒のようだ。僕も後に続く。
門の向こうはとても広い敷地があった。レンガの塀に囲まれたその空間には、子供ようの遊具や、畑や、花壇がある。そして、ずっと先の正面には、古びた洋館が立ちふさがるようにして建っていた。まるで何かの学園のようだった。門から洋館までの距離はそう離れていないが、横一列にならぶ窓からは、明りが一つも見えない。
マリーは洋館と門のちょうど中心で呆然と立ち尽くしていた。僕は門に鍵掛けの魔法を使うと、マリーのいる場所まで歩いた。
「マリー。どうしたんだい?」
マリーはパッと振り向くと、
「すごい! 本当にねこの家よ! こんなに簡単に帰ってこれるなんて、シーはどんな魔法を使ったの!?」
と、両目を輝かせながら言った。
「えっと、まあ契約精霊だから」
マリーは嬉しさにはちきれそうな顔をすると、
「そうこなくちゃ! さ、早く行くわよ!」
と、颯爽と振り戻って、洋館へ走る。嵐のような子だなと、僕は思いつつ、マリーの後に続く。
洋館は近づいてみると、余計にその古さが見えるようだった。壁は無数のくねったツルに覆われ、壁は欠けている場所がいくつかあった。窓も二つ、ヒビが入っているのが見える。
マリー先程の鍵束を使って、玄関口ともいえる、両開きの大きな扉の鍵をあけた。
「ところでマリー。さっきから気になってたんだけど」
と、僕は扉を開こうとしていたマリーに言った。
「何?」
と、マリーは僕に顔を向ける。
「君は許可もなく、勝手にねこの家を抜け出してきたの?」
「もちろん。当然でしょ」
と、マリーは何の後ろめたさもなく答えた。「どうして?」
「いや、家の人に怒られるんじゃないかな」
「大丈夫。なんたって風きり草を持ってきたんだから」
どこからその自信がくるのか、不敵な笑みで、マリーは玄関扉を開けた。
ふと、僕は嫌な予感がした。扉の向こうに誰かいる?
「ちょっと、マ……」
が、すでにマリーは扉の中に入っていた。そして、すぐに小さな悲鳴のようなものが聞こえる。僕はすぐに閉まり欠けていた扉を押さえて、中に入った。微かな光が見える。
案の定、目の前にはマリーが銅像のように立ち、そのさらに前には、ランプを持った若い女性が強張った顔で立っていたのである。女性は、淡い緑のドレスに白いエプロンを着ていた。そして、金色の長い髪を後ろで一つに束ねている。
「……マリー、あなた今までどこへ行っていたの?」
と、女性は責めるわけでもなく、かといって優しくもなく、平坦な声で言った。
「聞いて、シエラ先生! 私、風きり草を見つけたの!」
マリーは嬉しそうに言った。が、女性は強張った顔のまま、
「まさか……〈西の森〉に行ったの?」
「うん、でもね――」
ぱんっ。マリーの言葉はその音と共に途切れてしまう。女性はマリーの頬を叩いていた。そして、ランプを持ったまま、すぐにマリーを抱き寄せると、
「あれほど〈西の森〉に行ってはいけないといったでしょう! ああ……、でも無事に帰ってきて本当によかったわ……どれだけ心配したと思っているの!?」
女性の頬からは光るものが流れていた。
マリーはしばらくして、堪えるように泣き始めた。
「……シ、シエラ先生、ごめんなさい」
と、マリーは、自分がどれだけ周りに迷惑をかけたのか、気がついたようだ。
「――あなたが、マリーを助けてくれたのですか?」
と、女性は抱き合った体制のまま、僕に顔を向けて言った。が、僕が答えるよりも先に、
「うん。そうなんだよ。それで聞いて、シエラ先生。シーはね、契約精霊なんだよ。私、シーと契約したの」
と、マリーが女性から離れて答えた。女性は一瞬怪訝そうな顔をすると、
「マリー、それはどういう……」
ふと、右側の廊下から、扉を開け閉めする音が聞こえた。新たに淡いランプの光が現れる。
「――シエラ、どうかしたのかい……マリー!」
しわがれた声と共に廊下を駆ける音がし、淡い紺のドレスを着た老婦がマリーに抱きついた。
「ごめんなさい。おばあちゃん」
と、老婦の胸に顔をうずめながらマリーが言った。少し声が震えている。
「無事に帰ってきて本当によかった……」
老婦は呟くように言った。
「クレア先生。マリーは〈西の森〉へ行っていたんです」
と、女性が言った。老婦は驚かずに、優しい声で、
「私が変な話をしたせいだね。ごめんよ、マリー」
「ううん。私が悪いの。おばあちゃんは悪くないわ」
と、マリーは顔を上げて答えた。
「それでクレア先生。実は……」
と女性が言いかけると、老婦が、
「契約精霊のことでしょう?」
女性は驚いて、
「先生、どうして……」
老婦は僕をじっと見据えると、
「あなたがマリーと契約を結んだ精霊ですね。本当はお礼を言いたいのですが、契約精霊ならその役目に従っただけ。あえてそれは言いません。一つ教えてください、あなたはマリーとどんな契約を結んだのですか?」
老婦はその歳柄からは想像できない鋭い目をしていた。その目は何か洗練されたものだけが持つ事のできる、特別な目だと僕は知っていた。この人はもしや……。
「僕を自由にすること、です」
老婦は驚いた顔をして、
「それはどういう意味ですか?」
「僕は元々、人間なんです。ずっと昔、そのマリーが身につけている指輪、〈白猫の籠〉の呪いにかかって、契約精霊になってしまった。そして、その呪いを解くには契約を結び、自由にしてもらうしか方法がないのです」
と、僕は切実に答えた。
ありもしない感情を込めて言えば言うほど、僕は演劇をしている気分になっていく。
「おばあちゃん、シーの言っていることは本当よ」
と、マリーが言った。胸に突き刺さるはずのその言葉も、死体が切り傷を受けるように、何も感じなかった。とても怖い。
老婦は難しい顔をすると、
「……わかりました」
ふと、マリーが思い出したように、
「そうだ。おばあちゃん! 私、風きり草を持ってきたんだよ!」
と言った。「ほら、シーが持ってる」
僕は見えるように、風きり草を目の前にもってきた。
それを見た老婦の顔は、先程より驚いたようで、半ば放心状態である。
まるで御伽話が本当に目の前で繰り広げられたのを目撃したかのようだった。
今から思えば、それは兆候の一種だったのかもしれない。ぼんやりと、でも淡く、それは僕に終わりへの兆しを示していたのだ。
なんてことはない。ただ、夢を見ただけ。ずっと、ずっと昔の夢。
でも、そんなこと一度もありえなかった。ガラスの棺に入ってしまったら、夢なんて見る事はありえない。
でも、僕はガラスの棺にはいない。硬く、白いベットの上にいる。
だから、それはとても必然的な結果だったのかもしれない。外の世界で眠ることなんて、不可能なことだったからだ。
夢は霞んでいて、ぼんやりとしていた。
「俺の妻と娘を奪った奴を……殺してくれ」
と、その男は言った。静かに、淡々と、でも地獄の奥底からおたけびを上げるように。
男の後ろには、とても大きな屋敷が立っていた。空から降る月の光が、男の顔をとても影深く、悪魔のように映している。
本当はそんなこと言いたくなかったのに。
目の前の深い闇から逃げ出したかったのに。
僕は言っていた。
「あなたの願い。叶えましょう」
僕は自分の中から湧き上がる、その衝動に逆らうことができなかった。……やめろ。
僕は右手を高く上げて、ぱちんっと弾いた音を鳴らした。
ふと、男の後ろにあった屋敷の窓――黒い人影が明りを受けてくっきりと浮かび上がった窓から、人が消えた。いや、それは消えたのではない、倒れたのだ。
しばらくして、聞こえたのは甲高い悲鳴と、
「お、お父様!? お父様!? だ、誰か! 助けて!!」
一人の少女の叫び声。
男はその声を聞いて、満足そうに笑った。
「……これでいい」
僕は思わず、よろけそうになった。目に映る何もかもが歪んでいた。吐き気よりもさきに口から出たのは、
「一つ、言い忘れたことがあります」
その声は、僕の声にも聞こえたし、まったく違う他人のようにも聞こえた。
何で僕はこんなことを言っているのだろうか?
男は笑っていた顔をピタリと止める。
「〈白猫〉は召喚者の願いを叶えるかわりに、一つだけ『代償』をいただくのです。……それは、あなたの命です」
いつの間にか男の顔は歪んでいた。
「そんなこと、俺は聞いてない」
絞られた声で言ったのは、掠れた、老人のような声だった。
「いいませんでしたから。それが〈白猫〉のルールです」
僕はそう言って、ゆっくりと男に近づく。男は逃げ出していた。
できることなら逃げて欲しかった。僕は自分が何をしたいのか、これから何をするのかがわかってしまったから。やめ、ろ。
ぱちんっ。僕は指を鳴らした。
目の前に、唖然と目を見開いている男が立っていた。逃げたはずの男は、一瞬何が起こったのかよくわからない様子だった。
だが、それを表にだすことはないだろう。男の体はもう動かせないはずだから。
「――あなたの命、いただきます」
僕は銅像のように棒たちになる男に向って、片手をかざした。
瞬間、男の体は手足から黒く染まっていく。ゆっくりと。噛み砕くように。
かざしている白い手は、小刻みに揺れていた。必死にその手をそらそうと。
衣服と指輪を除く、男のすべてが黒い塊となった時。男の命は〈白猫〉に吸い込まれていった。僕には抗うことも、止めることもできなかった。
「僕は……何をしたんだ……?」
持ち主のない衣服と〈白猫の籠〉を見て、遠くから聞こえる泣き声を聞いて、震えるように呟いた。
僕は男の抜け殻である上着のポケットから、一枚の手紙が出ているのを見つける。
未だに震える手で、僕はその茶色い封筒を、そっと開けた。
”親愛なるセリスへ。この手紙を君に出しているということは、私はすでに”決行”をしているということだ。これは自分勝手で、とても図々しい手紙かもしれない。でも、君以外に、娘を頼める人がいないのだ。……恐らく、”決行”が成功しようと失敗しようと、私は表の空気を吸える場所にはいないだろう。もし”決行”が失敗していたら、この手紙のことはすべて忘れてくれ。だが……もし”決行”がうまくいっていたのなら、どうか娘のことをよろしく頼む。何度も書くが、本当に自分勝手ですまないと思っている。でも、君しか信頼できる人がいないんだ”
細い字で、綺麗に書かれた文章は、そこで終わる。僕は二枚目をめくった。
”私は今、戦慄と不安、そして歓喜の中にいる。ずっと……ずっとこの”決行”を待っていたからだ。妻を殺し、娘を奪った憎き仇をこの手で……本当に時間がかかってしまった。なに、私のことは心配しないでも大丈夫だ。逃げ延びる為の策は用意してある。時間はかかるかもしれないが、私は騒動が治まるまで身を隠していようと思う。だから、その時がくるまででいい。娘を……頼む。そして、本当のことは私から話したい。どうか、娘には何も言わないでくれ。でも、もし私がほとぼりがさめても現れないようなら、君から話してくれないか。娘……エレノアの本当の父は私で、今まで君を育てたように見えた男は、母を奪ったのだと。私からすべてを奪ったのだと。……最後にもう一度言う……本当にすまない。……最後に、この手紙は信頼のおける人物の手によって君の家に運ばせたので、誰にも手紙の内容を見られることはない。そして、読み終わったらどうか手紙を燃やしてくれ(君なら私が言わなくても燃やすと思うが)。トム・リーテルより。”
僕は泣いていた。溢れる雫は、白い紙の上に落ち、黒い染みを作った。
強い風が吹いた。僕の震える両手に支えられてた二枚の手紙は、風にさらわれるように飛んでいってしまう。僕にはその手紙を再び掴み取る力がなかった。
ボクハイッタイ……。その言葉が、壁を殴りつけるように何度も頭の中に響いた。
最後に男が見せた。恐怖に歪んだ顔。未だに響く、悲痛な少女の声。
僕はその時、初めて〈白猫〉の呪いを知った。
一人の少女から二人の父親を奪った。同時に。
呪いは、これからもずっと続いていくのだと知った。だから、
「……あ」
それは、僕の心の箱がそっと閉じてしまう音だった。ゆっくりと、大切なものを守るように。
そうしなければ、僕は狂ってしまうから。
そうしなければ、僕は屍になってしまうから。
悲痛に聞こえていた声も、ただの、誰かの声。
ふと、頭が、全身が重くなっていく。僕は身を任せるようにして、後ろに倒れた。
一瞬だけ見えた半分の月が、とても色褪せて見えたのは何故だろうか。
それは、ずっと、ずっと昔の夢。今ではその風景すべてが色褪せている。
ねこの家とは孤児院だった。クレア老婦がもう、何十年も前から始めたということらしい。東に広がる街並から外れた郊外に建ち、かといって離れすぎているほど外れた場所ではない。受け持つ孤児たちの数は何十人という数だし、半ば学校のような雰囲気が感じられる。いや、実際に授業をする為の部屋があるので泊り込みの学校といった所だろう。
マリーの言っていたエレアというのは、マリーと同じねこの家に住む子供で、どうやら、”風ノ病”という奇病に罹ってしまい。もう、手の施しようがなかったそうだ。そこに、マリーが以前クレア老婦から”風きり草”の話を聞いていて、それを思い出した。結果、マリーは『西の森』を越えた先にある『草の海』と呼ばれる樹海に、風きり草を探しにいこうとしたのである。なんとも無謀な話であろうか。だが、風ノ病は風きり草でしか治らないと言われている、他に治療法がない難病なのだ。それに風ノ病は、罹った者を寝たきりにさせ、一月が経つと、「風」に変えてしまう……それゆえに、昔は〈風隠し〉と呼ばれていたらしい。
クレア老婦もねこの家の(マリーを除く)全員も、エレアのことは諦めかけていたそうだ。でも、マリーは風きり草を見事持って帰り、今、エレアは快方に向っているのだった。
僕はクレア老婦に個室を用意してもらい、ねこの家の客人として幾日か過ごした。
もちろん、無償ではない。(主に、これはマリーに対してだけだったが……)
不思議と、マリーはあれ以来、〈白猫〉の力を使おうとしない。たまに命令はされているが、お手伝い程度のことだけだ。大々的なものではない。
一度、それをマリーに訊くと、
「別に、叶えたいことなんてないもの。今で十分」
と、平然に返されてしまった。
「それより、近くの川で、畑に使う水を汲んでこなくちゃ。さ、早く、いくいく」
純粋とはこのことを言うのだろう。
それは、ねこの家(考えてみれば皮肉な名前だ)の子供すべてに言えることでもあった。クレア老婦の人並みがよく分かる。それでも、僕は嘘をつき続けることに罪悪感は覚えない。僕の心は固くなっていく。ここ数日で感情の起伏がほとんど無くなっていることに気がついた。
が、代わりに、時々胸の辺りが疼くようになっていた。理由はわからない。ただ、それは一瞬の出来事なので、あまり煩わしいものではないのだが……。
毎日、僕はマリーの傍にいて、手伝いをさせられたり、時には無茶な提案(マリーの思いつきは、無謀というよりやんちゃと言える)に荷担したりもした。どうして、マリーはすんなりと、契約精霊などいう言葉を信じたのだろうか。そして、即断で契約をしたのだろうか。未だに分からない。(単にその純粋さからくるものなのか)一つだけ分かるとしたら、マリーが楽しそうにしているということだろう。
あまりも平坦で、呪いとはかけ離れた日々。
でも、本当は安心してもいいはずなのに。心は何の安らぎも感じない。
しかし突然、ある日、クレア老婦から「ちょっと朝の散歩でもしませんか」と誘われたのである。良くない予感がした。
「散歩と言っても、近くにある大きな柳の木までですよ」
と、ねこの家の門を開けながら、クレア老婦はにこやかに言った。
まだ、朝日が昇ってすぐのような時間だった。空気はこれから一日が始まるといわんばかりに澄み切って、空も同じくらい雲ひとつない青色。
ねこの家の周りは草原になっていて、門を抜けた先には、深々とした緑色がところ狭しと広がっている。淡い風が吹き、草の匂いがした。
僕は歩き出したクレア老婦の隣に並ぶ。
「――話があるのですよね?」
と、僕は言った。
「はい、それはもう色々と訊きたいことがたくさんあります」
僕とクレア老婦は、そのまま門を出て、南に向って草原を歩き進んでいく。微かに、先の方には柳の木が一本だけたっているのが見えた。クレア老婦の足並みは、年柄からは考えられないほどしゃんとして、きびきびとしていた。
「――まず、あなたが本当に契約精霊なのかということです」
と、クレア老婦は言った。予感。
僕はどう答えようかと迷ったが、
「正真正銘、契約精霊ですよ」
が、老婦ははっきりとした口調で、
「嘘、ですね」
と、答えた。「あなたは契約精霊なんかじゃありません」
「……何故ですか?」
クレア老婦は一旦立ち止って、僕の方を見ると、
「――一つは、あなたがこの場所にいることです。契約精霊は本来、契約者のそばを片時も離れないものだからです。そばにいられなくても、住家とする魔具の中に待機することはできるはずです」
と、クレア老婦はそこでまた前へと向いて歩き始めた。僕は黙って後に続く。なるほど、散歩の誘いは罠だったというわけか。予感は確信となる。
「――だから、あなたは契約精霊ではない。次に二つ目、それはマリーとの契約方法です。後からマリーに聞きましたが、握手をすることが『契約』なんてこれまで聞いたこともありません。本来は、契約する者の血を精霊に捧げることで、初めて『契約』が成立したことになるのです」
いつの間にか、僕達は柳の木の前に来ていた。クレア老婦は足を止めて、僕に対峙するように振り向く。
「そして最後に、”エディ”が、「あなたから『契約』の力を感じない」と言っていることです」
瞬間、クレア老婦の斜め後ろに、誰かが立っていた。それは、赤い髪をした、人形のように無表情な子供だった。子供は白いシャツに黒いリストバンドをして、チェック柄のズボンを着ている。彼がエディなのだろう。それは確実に人ではない。僕と同じ、契約精霊だった。この時、僕の中のクレア老婦に対する淡い疑問が解けた。そうか、老婦は『契約者』だったのだ。
「――さあ、答えてください。あなたは本当は何者なのですか?」
と、クレア老婦は淡々と訊いた。
いつかは嘘だと見抜かれると覚悟していたが、こうもハッキリと分かってしまうとは。クレア老婦が『契約者』でなかったら、恐らくはこうも早く嘘がばれることはなかっただろう。どちらにしても僕には変わらないのだが……。
「確かに僕はマリーとは『契約』していません。でも、僕は確かに契約精霊です」
クレア老婦は眉をひそめると、
「なるほど、それなら納得がいきます。しかし、何故マリーに嘘をついたのですか。――それに、あの風きり草は本物でした」
これ以上、へたな嘘はつけない。だが、僕にも今の状況をどう説明したらいいのか分らない。
僕はクレア老婦になら、すべてを話してもいいのではないかと思った。老婦が『契約者』なら、今の僕の状況が何か分かるかもしれない。
「クレアさん。〈白猫〉という契約精霊の話を聞いたことはありますか?」
「……いえ、聞いた事はありません。――エディ?」
と、クレア老婦は、エディを見た。
「詳しくは知らない。でも、ずっと昔、そんな名前の契約精霊がいるという話は聞いたことがある」
エディは淡々と、感情のこもっていない声で答えた。
クレア老婦はこちらに顔を戻す。「では、話の続きを」
「僕はその〈白猫〉なんです。そして、昨夜言った通りに、元々は人間でした。でも、あの魔具〈白猫の籠〉の呪いで契約精霊になってしまったのです。契約の内容は、『契約者の願いを叶えること』――のはずでした」
「今は違うと?」
と、クレア老婦は訊いた。
「はい。僕が指輪から呼び出されるのは、所持者の『願い』を感じたときなんですが、今回の場合、『願い』を感じずに呼び出されたんです。それは絶対にありえないこと。『願い』無しには、僕はこの現実世界にはいられません。何かが狂ってしまったとしかいえない。それともう一つ、マリーから『願い』を感じないのに、僕はマリーの『要求』には〈白猫〉の力を使って応じることができるんです。だから、風きり草は僕が力で出しました。――そして、その行為には『代償』が必要ないんです」
淡い風が吹いた。草が揺れる。まるで僕の話を聞いていた誰かが一呼吸をついたような感じだった。
「僕自身、とても訳がわからない」
が、言葉は混乱の欠片もなく、淡々と、他人事のようだった。それを本当に自分が言ったのかも分からない。
クレア老婦は複雑そうな顔で、
「……なるほど。事情はよく分りました」
と言った。その目は鋭いままだったが、何か悲しみを帯びていた。僕はふと、クレア老婦はすべてを知っているのではないかと思えた。
「もう一つだけ、教えてください。――あなたの『代償』はなんですか? 『代償』は『契約精霊』が強力であればあるほど、それに反して酷なものになるはず。だとしたら、あなたは余程の『代償』をもっていることでしょう」
以前の僕ならその質問に答えることができなかった。……だが、今なら答えることができる。秩序はどうやら『第二の白猫のルール』まで崩壊したらしい。第二のルールとは、〈白猫〉の代償を召喚中に喋ってはいけないことだった。
「『代償』は、願いを叶えた者の命を奪うことです」
と、僕は言った。何の躊躇いもなく、召喚者を奈落へと突き落としてきた言葉を。
その沈黙は、とても長い時間に感じた。『代償』を与える必要がないとはいえ、クレア老婦は僕を歪んだものとして、化け物として見るだろうか。それはかまわない。そんなもの、今まで何度も目の当たりにしてきた。そして、僕の心はもう硬く、痛みすらも感じなくなってきている。
でも、クレア老婦の顔は微動にせず、悲しいままだった。
クレア老婦は一度ゆっくりと瞼を閉じ、開けると、
「――わかりました。もう、何も訊きません」
と、優しい声で言って、「では、家に戻りましょうか」
「え」
何故、クレア老婦は今のを聞いて何の変化もないのだろうか。突然、話をやめるのだろうか。マリーに代償が実行されないと分ったから? いや、違う。クレア老婦は僕のその言葉と、今までの話の意味がよく分っているのではないか。だから何も言わない。
クレア老婦は僕をよけて、ねこの家に向って歩き出そうとした。しかし、
「エディ?」
と、クレア老婦は一歩踏み出そうとした瞬間、エディに肩をつかまれていた。
「……本当のことを言わないのはよくない」
エディは呟くように言った。「たとえ、それがどんな結果でも」
「クレアさん。何か隠してるんですか?」
と、僕は訊いた。先程の老婦の悲しい目が頭をよぎる。クレア老婦は何か思案めいた顔をして黙っていたが、やがて、
「これから私が話すことは、とても、とても残酷なことです。……それでも、あなたは聞きたいですか?」
クレア老婦の目は先程と同じ悲しさが宿っていた。それは哀れみというよりは、身内に迫った不幸を嘆くような種類の、切実な悲しさだった。
僕は躊躇うことなく、
「聞きたいです」
と言った。
「分りました」
と、クレア老婦は一度目を閉じると、数秒してゆっくりと開く。
「――『廃約』。それは契約精霊が、命を終える時。いわば、寿命みたいなものです。この『廃約』になってしまった契約精霊は、まず意味もなく召喚されるようになります。そして、次にその能力を『契約』なし、『代償』なしで、召喚者に力を貸すことができる。やがて、十二日の刻を向え、その契約精霊は……消滅します。あなたは、色々と他の契約精霊と違う所があるので断定できませんが、今のあなたの状況はまさに『廃約』と同じものです」
確か、召喚されてから、今日で十二日。
今日、僕は……消滅する?
本当は戸惑って、混乱してもいいはずなのに。
本当は泣き叫んで否定してもいいはずなのに。
本当は必死になって助かる方法を聞き返していいはずなのに。
その感情が湧いてこない。
代りに湧いてきたのは、何故か安堵感だった。生きたいという感情が起きるには、時間が経ちすぎていた。色々なものを失いすぎていた。
「そうですか」
僕が答えた言葉は、その淡い風にのって消えてしまいそうなほど平べったいものだった。
「……」
クレア老婦は黙っていた。一度何かを言おうと口を動かしたが、結局何も言わずに閉じてしまう。
何も、何も言う必要はないんですよ。これで終りが迎えられるのですから――と、僕は言いかけ、ふいに奇妙な感覚が、足元から沸いてきた。足から温度が少しずつ下がっていくような、冷ややかな感覚。決して寒くはないはずだった。
「――どうしましたか?」
と、クレア老婦が心配そうに訊く。
「きた」
そう呟いたエディ。瞬間、僕は心臓に黒いものが突き刺さったのを感じた。刺さった場所からえぐれるように激痛が走る。
「がぁ」
叫び声をあげたつもりなのに、それはしぼられてまったような情けない声だった。それどころか、体もまったく言うことを聞かない。空間という壁の中に自分がすっぽりと入ってしまったような感じだった。
その時、僕は感じた。
ガラスの棺が壊れてしまったのを。
〈白猫の籠〉が、僕を捕らえていた呪縛の一つが消えてしまったことを。
長く続くと思った胸の激痛は、糸をきったように急に止んでしまった。体も動くようになり、僕は思わず、倒れるように四つん這いになる。呼吸は荒々しくなっていた。後、数分でも続いていたら、僕はおかしくなっていたかもしれない。胸の黒い物は消えていた。――いや、あれは突き刺さったのではない。僕の体から突き出てきたのだ。それは黒い無数の手に見えた。
何が起こった……?
「大丈夫ですか」
と、クレア老婦は僕の横にかがんで言った。
「……今、胸が急に」
僕の出したその声はまるで他人の声のようだった。
「――それは『廃約』であることの証。やがて、その『内なる手』によって契約精霊はその命を終え、呪縛から解放される」
と、エディは言った。「だから――」
「……僕の命は今日で終わる」
「そう」
と、エディは言った。
先程、はっきりと感じた、魔具の消失。これで、僕は契約精霊でも、人間でもない存在になってしまったというわけか。マリーとの、偽りとは言え、『契約』も意味がなくなったのだ。
あれほど、僕を捕らえて縛り付けていた、忌々しいものだったはずなのに、帰る家を失ってしまったような消失感が、僕の中で穴があいたように沸き起こっていた。それは、完全な孤立だった。僕はみなしごになってしまったのかもしれない。
もうすぐ終わりを迎える。でも、僕の頭の中には、自分が死に向かっているという感覚ではなく、今まで『願い』を叶え、『代償』として命をくらってきた者たちの情景が次々に浮かんでは消えていった。私欲を訴えた者、身内の不幸を嘆いた者、最愛の人への思いを訴えた者。――結局、僕は命を踏み台にしても生きることができなかったのだ。一体、今まで何をやってきたのだろう? 最後に脳裏い浮かんだのは、シュラクの顔だった。
「一人にしてくれませんか」
と、僕はゆっくりと立ち上がって言った。「ほんの少しだけでいいですから」
「……わかりました。では、私は一足先にねこの家に戻っています」
クレア老婦は、あえてそうしているのか、淡々とした顔で僕を見ながらも、すっと立ち上がって、ねこの家に向かって歩き始めた。今の僕には、かえってそんな態度の方がよかった。エディもいつの間にか姿を消している。恐らく、クレア老婦が持つ魔具の中に戻ったのだろう。
僕は柳の木の下に行くと、幹によりかかるようにして腰かけた。
今まで見えていた緑と空色の風景は、何か優しいように見えていた。
以前の〈白猫〉が言ったことはすべて嘘だったのだろうか。”彼女”があの時流した涙は嘘だったのだろうか。
でも、今の僕には”彼女”を責めることも怒ることもできなかった。そんなことですらどうでもよいくらい、僕の心は安らかだったのだ。……その、はずなのに。
僕の頬からは何かがポトリと落ちていた。
「あ、れ……?」
一粒だったのに、あとからポロポロとそれは流れて落ちていく。
おかしいな。こんなにも安らかなのに。なぜ……なぜ、僕は泣いているのだろう?
そんなこと、とても簡単なことだった。
今まで何も感じないと思っていた心は、固く、小さな箱の中に押し込まれて、閉ざされてただけだったのだ。
蓋が閉まっているのに、中では静かにメロディを奏でている、壊れたオルゴール箱のように、僕は泣いていたのかもしれない。
でも、そうしなければ、僕はとっくに壊れていただろう。だからこそ、箱の蓋は開かれた。もうすぐ、すべて終わるから。やっと、それが終わるから。
なのに、とても空しかった。悲しかった。寂しかった。
溢れてくる感情に気付いてしまったら、あとは嗚咽を吐きながら、膝を抱えてずっと泣くだけだった。
”いつか、いつか必ず、『白猫の籠』はあなたを呪いから解放してくれる”
すべて嘘だった。”彼女”が言った言葉は気休めでしかなかったのだ。
だが、そんなことはどうでもよかった。長い時間の中で、その言葉はとても淡く消えかかっていたのだから。
涙は止ることなく、頬を落ち続ける。
今まで貯めていたすべての悲しみを吐き出すように。
しばらくして、溢れていた感情は蓋をしたように収まった。
心に残るものもなく、ただ唯一、この運命に対して真っ向から向き合っている自分がいた。
それは、自分でも不思議な気持ちだった。死を目の前にして、どうしてこれほど安らかなのか理解できなかった。透明なそよ風を感じ、聞こえてくる鳥の鳴き声に耳をすましていた。
僕は独りで最後を迎えることを決めた。
ねこの家に戻ると、門の前に立っていたマリーが仏頂面で、
「もう! 家中捜してもいないんだから! いい? 私の許可なしで勝手にどこかへ行ったりしないで」
と言った。怒っているようにも見えたし、ほっとしているようにも見えた。
そのマリーの眼差しに寂しさという影を感じた。
そして、気がついてしまった。
マリーも孤独だと言うことに。
いや、もっと前から気づいていたのじゃないのか?
マリーが他の子供達と一枚大きな壁を作っているのを。珍しい銀色の髪。青い瞳。多分、それだけが理由ではないだろう。
今、マリーの指に、銀色の指輪はない。多分、マリーにはそんなことどうでもよいのだろう。
初めて、そして最後になって、目の前の少女の存在が嬉しいと思った。
それは、どれくらい眠っていた感情だったのか。正直分からない。しかし、ほんの一瞬だけの出来事。霞むぐらい弱く、淡い感情だった。
だが、それでも……。
「……シー?」
僕は忘却と催眠の呪文を唱えた。本来なら契約者に使うことのできない呪文だが、マリーは契約者ではない。
ぱちんっ。弾けたような音と共に、マリーの体は崩れるように倒れる。僕は寸前でマリーを受け止めると、
「すいません! マリーが急に!」
と花壇に向かって叫んだ。
すぐにその場にいたシエラさんと一人の男の子があわてて駈けてくる。
「早く、ベットへ」
と、僕が言うと、シエラさんは頷いてマリーを抱きかかえると、男の子と一緒に家の中に入っていった。
これでいいんだ。僕は自分勝手なのかもしれない。でも、誰の心に残る気もない。……やはり、自分勝手だな。
マリーを傷つけてしまうからという訳ではない。
ただ、独りになりたかっただけ。それだけなのだ。
小さな黄色い蝶が目の前を通りすぎる。太陽が温かくねこの家を包んでいた。
その情景はあまりに平凡すぎた。平和すぎた。
僕がいる場所ではない。
僕が一緒にいたいと思うには暖かすぎた。
逆に、それが僕を孤独にさせた。
だから、僕は何も言わず、澄み切った空を見上げながら、西へと歩き始める。
胸の疼きを感じながら。
すでに日は傾き、新緑を朱色に染め上げていた。どこまでも続く森を、僕はどこまでも歩く。
歩きながら、ずっと考え事をしていた。自分でも死が近づいているのに、呑気なものだと呆れてしまう。
僕はこれからどこへ行こうとしているのだろうか、と。そもそも、今まで歩んでいた道を振り返ってみても、それ自体に何の意味も、結果もなかったと感じる。いや、感じる暇も、考える暇もなかったのだ。役目を終えれば、棺の中で眠ってしまっていたのだから、当然といえば当然だった。
ふと、視界が開け、中央に切り株が一つある、小さな平原に出た。切り株には人が座っている。一目で、”彼女”だと分かった。黒い長髪と、同じく真っ黒な長いドレスを着た若い女性。僕に呪いを擦り付けた魔女、アウラ。しかし、僕は驚きもしなかったし、怒りを奮起させることもなかった。まるで、最初から会うことを予定していたように自然だった。それよりも、アウラがまだ生きている方が不思議だった。あれから数百年は経っているはず……やはり魔女だからだろうか。僕は切り株に近づいた。
アウラは待ち構えていたように、
「こんにちわ。〈白猫〉さん」
と笑顔で言った。ずっと昔に聞いたことがある、透き通った声。容姿は少し年取っていても、声は変わっていない。
「どうしてここに?」
と、僕は訊いた。自分でも、そんなことを聞く余裕があったことに驚いた。〈白猫〉の迎える結末について、問いただす気は微塵もなかった。もう、どうでもいいのかもしれない。
「私はある占い師から聞いたの。あなたがこの場所にくることを」
占い師。それなら、アウラはすべて覚悟していて、僕に会いに来たということになる。もしかして、アウラは……。
「私はあなたの呪いを解くことはできない」
と、僕の思考を先読みするかのようにアウラは言った。
「でも、結末を変えることはできる。それが、私のここに来た理由」
沈黙。本当は喜んでいいことなのかもしれない。しかし、何の感情も沸いてこない。柳の木の下で感情をすべて置いてきてしまったようだ。それは、とても危険なサインに見えた。
しばらくして、アウラは溜息をついて、
「呪いの影響ね。〈白猫〉になったものは感情の起伏が少なくなっていき、最後を迎える『廃約』の時には生きる意志も失われていく……、もう時間はないか」
と言った。最後の言葉は呟くようだった。
そうか。これも呪いの影響だったのか。なら、あの感情の奮起は、もしかしたら『廃約』が起こったことにより、ほんの少しだけ狂いが起きたのかもしれない。だが、だんだん、色々なことがどうにでもよくなってきていた。
代わりに涌き出てきたのは、早く独りにならなければという衝動だった。
誰もいない所で。
誰からも見られない所で。
この呪いの終焉を迎えよう。
たとえ、その意志自体が呪いだと分かっていても。
僕には止めることができなかった。
胸の疼きは、微かな痛みに変わっていた。
ハヤク、ココカラハナレナクテハ。
ゆっくりと淡い風が吹いた。木々がざわつく。
僕は後ろに振り返った。が、その状態から足を動かすよりも先に、
「待って。行かないで」
と、アウラが僕の右手を掴んでいた。微かな暖かい感触。
僕が後ろをふり戻ると、アウラは必死な表情だった。
「放してくれないか」
と、僕は言っていた。淡々と、感情のかけらもなく。
「一つ聞いて。私はあなたに嘘をついてしまった。〈白猫〉の呪いが解けるはずなんてない。まったくの偽善だったのよ。私の勝手な罪悪感の解消だったのよ。それが、あなたを苦しめるのを知っていて言ってしまった。……だけど、見つけたのよ。たった一つだけ、呪いの結末を変える方法を。それは――」
風は強さを増し、木々の大合唱がすべての音を遮った。
その中で、僕は彼女が動くのを見た。
音もなく、彼女の空いていた手が動く。
音もなく、彼女の手は銀色の光を帯び、僕の胸に冷たい感触を突き立てる。
音もなく、彼女の口が何かを告げる。
音もなく、視界が無に染まる。
その時、ようやく自分が涙を流していることに気がついた。
死にたくはなかったな。
……今更、思うなんて。
僕は、これからどこへ行くのだろうか?
すべてが、無に染まる。
”ごめんなさい。これが……私にできる精一杯だから”
姫宮菊巳は無骨な石の階段を上った。ゆっくりと、でも遅すぎず、胸の奥に疼く感情を現すくらいは速く。
菊巳は鼻歌を歌っていた。微かに響くのは迷子の子猫ちゃんだった。
石の階段は左右に林を挟んで、ずっと上まで続いている。朱のカーテンが林と階段を包んでいた。階段の一番上には、赤い鳥居が見える。菊巳の前には、後ろの夕日から押し出されるように影が落ちていた。夏と秋の変わり目で、気温はちょうどよい。菊巳の制服はまだ夏用だった。
(今日はいなかったりして……)
菊巳はふと立ち止まると、片手にぶら下げていた学生鞄を見た。その中には、先ほど菊巳が買ったササミが入っている。
(まあ、いなかったら、その時考えよう)
再び、鼻歌を歌いながら階段を上っていく。
菊巳はA高校の学生だったが、部活には入っていなかった。よく誘われはするのだが、どうにも菊巳にはその気になれなかったのである。しかし、ふと考えれば、
(それはそれでよかったのかも)
と、思い始めていた。それは、三週間前に起こったある事件がきっかけだった。が、事件と言うには些細で、誰の記憶の中にも残っていなく、影で始まり、影の中で終わったようなものだが。しかし、少なくとも、菊巳にとっては人生で体験したことがない、奇想天外なものだったのである。以来、菊巳は毎日のようにこの神社に通い詰めている。
菊巳はちょっとした修行場所になりそうな長い階段を上りきった。少し古めの赤い鳥居をくぐる。
(――あ、いた)
と、菊巳はまっすぐ続く石畳を、本殿に向かって進む。本殿といっても、立派なものではなく、寺小屋と言う感じの小さな拝殿である。なんの神様が祭られているのか、菊巳は知らなかったが、いつ来ても人がほとんどいないので、それほど有名な神ではないのだろうとしか分からなかった。
拝殿の前には小さなお賽銭箱があり、そのさらに手前には三段ほどの石階段がある。菊巳が拝みにくるわけでもないのに神社にきた理由が、石階段の二段目の隅で”丸まっていた”。否、寝ていたと言った方がいい。本来、真っ白なはずの”彼”の全身は、真正面から浴びた夕日によって、淡いオレンジに染まっている。
(夢でも見てるのかな)
菊巳は口元を綻ばせながら、静かに”彼”へと近づいていく。いつもなら、菊巳が完全に近づく前に”彼”は起きてしまうのだが……。
あれっ、と菊巳は思った。すんなりと”彼”の目の前に辿り着いてしまったのである。しかも、”彼”はまだ眠っている様子。菊巳の陰が”彼”に重なり、オレンジが白色になる。
(もしかしたら、本当に夢を観てるのかもしれない)
菊巳はそっと、”彼”の隣に腰を下ろした。正面の鳥居から射貫くように見える、山の中に沈んでいく夕日が、宝石のように淡い輝きを放っている。どこか幻想的な風景だった。菊巳は少し目を細めると、すぐ”彼”の方を観察した。
首輪もなく、”人の言葉を喋る”、不思議な白猫。
否、不思議という形容動詞ではもはや表現しきれなかった。
菊巳は穏やかな”彼”の寝顔に違和感を覚えた。
あまりにも寝顔に愛嬌がありすぎて、三週間前のことが幻だったように思えてきたのだ。
菊巳は思う。
三週間前の”彼”は白猫という皮を被った、”異物”だった。
悪魔のようでもあり、天使のようでもあった。
だが、その背中に背負ったものは、哀しくて、とても孤独だった。
私は、”彼”に何かを期待しているのだろうか。
私は、”彼”に恋焦がれているのだろうか。
菊巳自身、自分がどうしてここにいるのか、未だに分からないでいた。
ただ一つ、菊巳の中ではっきりとしていたのは――。
菊巳はそっと”彼”の頭を撫でた。
「……すまないが、不意打ちはやめてくれないか」
と、”彼”は目を閉じたまま、少し迷惑そうな声で言った。その声は凛としていて、若々しい。
「いいじゃん。減るものじゃないんだし」
菊巳は笑顔を作って、しかし、頭を撫でる手は止めない。
「だから、やめてくれないかと……」
「ケット・シー。今日は珍しいね。夢でも見てたの?」
と、菊巳はケット・シーの言葉を無視して訊いた。
ケット・シーは小さな溜息をつく。と、言っても、正確には小さな呻き声のようなものだった。どうやら、諦めたらしい。
「……現実と夢の違いは何だと思う?」
と、ケット・シーは言った。
菊巳は、ほらきたと思った。いつもケット・シーと話していて、普通に話しが運ぶことは少ない。どこか哲学めいた問いかけ。が、菊巳は何故かそれが嫌いではなかった。だからこそ、菊巳はここにいるのだが……。話しの流れから、眠る時の夢だろうと菊巳は思い、頭の中でその問いかけを考えた。
「うーん、夢はどちらかというと、内容がよくても悪くても自分は何もできないってことかな。あ、でも明晰夢っていうのもあるのか……」
と、菊巳は半分は自分に納得させるように言った。考えながら、喋っているという感じだろう。いつもはそんなこと考えたこともないから、菊巳はついついこんな調子になってしまうのである。
ケット・シーは黙って聞いていた。いつのまにか、菊巳の手はケット・シーの頭から遠のいている。辺りは朱色が弱まり、淡い闇が包み始めていた。
「うむむ……、起きてる時に見てるものと寝てる時に見てるものって違いなのは分かるけど……。多分、私にはどちらも同じように見えるかな」
「どうしてだい?」
と、ケット・シーは訊いた。
「だって、どちらも感じていることにかわりはないじゃない。ほら、夢だと思って朝起きても、今この場所が本当に現実なのか、それとも夢なのか分からなくなる時ってあるでしょ。多分、夢と現実ってすごく曖昧なんじゃないかな。……特に根拠はないんだけど」
少し間があってから、
「かもしれない」
と、ケット・シーは言った。そして、再び沈黙する。ケット・シーにしては珍しく、すんなりと肯定した。いつもなら、菊巳の抽象的な答えに対して、直接的ではないにせよ、やんわりと自分の考えを上乗せするように喋り出すのに。菊巳は今日のケット・シーはやはりどこかおかしい。
「ただ……」
「ただ?」
ケット・シーは両手を前について、狂信的な信者が何かを崇めるように、体を伏せながら後ろへと伸ばすと、
「少なくとも、夢の中ではご馳走にありつけないし、夢から覚めた後はいつもお腹がすくということだ。僕の場合はね。……ああ、お腹がすいたなぁ」
猫らしく(?)、ニャ―と一声鳴いた。
菊巳は思わず笑ってしまった。
そのケット・シーの様子が普段とはかなりかけ離れた行動だったからだ。そして、自分から質問を投げかけておいて、まったく意味の分からない返答をしている。
だが、それが菊巳には可愛くみえたし、正直、すぐにでも抱きしめたい衝動にかられた。
「何か可笑しいかい?」
と、ケット・シーは訝しげな顔をして言う。
「ううん、何でもないよ」
菊巳は楽しそうに脇の学生鞄から、ササミの入った袋を取り出すと、
「じゃじゃーん、問題です。私は持っているこれは一体なんでしょう?」
「ほう、僕にどうしろと?」
と、どこかしらケット・シーも楽しそうに言った。
「んー、無制限に、いつどこででも撫でてもかまわないよ券を贈呈――ということでどう?」
菊巳の言葉は七割方冗談だった。が、ケット・シーは、
「いいよ」
とあっさり答えていた。
「え?」
菊巳は驚いた。今日のケット・シーは何もかもがおかしい。
(あっ)
だから、気がついてしまった。
菊巳を覗きこむ瞳が、どこか悲しそうなのを。
だから、気がついてしまった。
きっと、さっき見た夢は良いものではないということを。
だから、菊巳は、
「よし、絶対だからね」
と、笑いながら、手に持っていたものをそっとケット・シーの前に置いた。
そうすることしかできないと思ったから。
”彼”との距離はそれが限界だと思ったから。
「わかっている」
と、”彼”はササミをゆっくりと食べ始めた。よくよく考えてみたら、”彼”が食事するところを見たのは、菊巳にはこれが初めてだった。
ただ、それでも一つ、菊巳の中ではっきりしているのは……、
(もう少し、”彼”と一緒にいたい)
気がつくと、白い猫になっていた。
森の中。
辺りは薄暗く。
目の前に漆黒のドレス。
誰もいない。
ドレスは抜け殻。
何もいない。
彼女はどこに?
探す。
鳴く。
誰もいない。
何もいない。
どこにもいない。
僕はこれからどうなる?
わからない。
答えはでない。
空を見上げる。
涙のような満月。
悲しいほど美しい。
狂いそうなほど美しい。
苦しいほど美しい。
僕は、まだ呪われている。
僕は、まだ生きている。
『呪われた青年、そして白猫と願い』 おわり
どうも、作者のくーろこです。
実のところ、この作品はかなり書き直しをしております。もう、恐らくは五度目くらいでしょうか。多分、原型からはかなり離れた内容になってます。
どちらかと言えば、この小説の根底にあるのは人の孤独です。主に執筆中はそれをイメージして書きました。
つたない作品ではありますが、最後までお読みいただき(少なくともここまでページロールしてきたってことは呼んでるはず)、本当にありがとうございました。