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実に短い眠りだった。
意識を取り戻した叉反が最初にしたのは、自分を抱えようとしている黒服の顔を殴り飛ばす事だった。
「起きたぞ!」
「だから早く殺しちまえば良かったんだ!」
額からは相変わらず血が流れ続けている。一人殴っただけで眩暈がするが、そんな話は聞いてはくれないだろう。
殴られた男が立ち上がる。さっきホールであしらった五人だ。律儀に叉反の始末に来たらしい。破隠と違って拳銃を使わないのは、足がつくのを恐れているからだろうか。
連中が攻めあぐねている隙に、こちらから攻めた。手前の男の足を払い、よろめいた男を羽交い絞めにして頬に銃を突き付ける。
「武器を捨てろ。全員だ。言う通りにしなければこいつを殺す」
臓物を吐き出したくなるような科白だったが、叉反は言ってのけた。
黒服の連中は引きつった薄ら笑いを浮かべていた。一人が言った。
「本気か? 俺達が本気でそいつの心配をするとでも?」
「しないだろうな。だが俺がこいつを殺せば証拠が残る。手がかりをここに残すのはまずいんじゃないのか、ゴクマ」
言葉より先にナイフの光が見えた。羽交い絞めにしていた男を突き飛ばし、ナイフを振りかざした黒服に衝突させ、向かってくる黒服の顔を力任せにぶん殴った。その体が軽く吹っ飛んで、一人が確実に伸びた。
もはや交渉もへったくれもなかった。向かってくる奴を片端から殴り、蹴り飛ばし沈めていく。殴る度に頭ががんがんと鳴り、気分が悪くなる。綺麗な格闘じゃない。チンピラの喧嘩さながらの乱闘だった。
「奴等はどこへ行った?」
一分もしないうちに、屋上には四人の黒服が伸びていた。一人の胸倉を掴み、叉反は言った。頭が痛い。頭がひどく痛い。
「破隠達はどこへ行ったんだ?」
拳銃を男の蟀谷に突き付ける。こんな事をすればするほど、自分が屑になったような気がしてくる。
顔面を青痣だらけにした男は、それでも敵意に満ちた目で叉反を睨んだ。
「撃ちたきゃ撃て」
叉反は相手の腹に拳をめり込ませた。呻き声を上げて、男は気を失った。どんなに締め上げても、たぶんこの連中は口を割らないだろう。
叉反は立ち上がった。また眩暈がした。気が付けば、拳銃をずっと握っている。まるで誂えたように手にしっくりきている。反吐が出そうだ。反射的に左手で拳銃を剥ぎ取り、屋上のコンクリートに打ち捨てた。
手がかりを探さなければならない。だが、その前に頭の怪我を治療しないと。
歩くのはホテルへと続く扉までが限界だった。そこまで来ると体が急にぐらりと崩れ落ちた。力が入らない。目が眩み、眠る直前のように意識が危うい。
「倒れるなよ、探偵」
ふと声が聞こえた。至近距離だ。咄嗟に構えようとして、さらに足から力が抜ける。もうこれ以上、誰かの相手など出来そうもない。
「心配するな、俺達は敵じゃない」
体が抱きかかえられる。一人じゃない。二人の人間が、叉反に肩を貸している。黒い靴が何足か見えた。他にも、何人かいるらしい。
「誰だ……」
思いがけないほどに小さな声で、叉反は尋ねた。
「刀山会だ」
返答は簡潔だった。
次に目を覚ました時、叉反はベッドの上で横になっていた。見上げている先には円い電灯があり、背中に微かな震動を感じた。まるで部屋全体が動いているようだった。
「起きたか」
ついさっき聞いた声がした。そのほうへ顔を向ければ、厳めしい顔をしたスーツの男が叉反を見下ろしていた。部屋の中は相変わらず震動している。ベッドの壁にはハンガーにかかった叉反のスーツと、五つのへこみがある防弾チョッキがかかっていた。
男は何故か手にアサルト・ライフルを持ち、クリーニングクロスでそれを拭いていた。叉反は頭の中にある資料を手繰った。国産で、今やかなり古くなった銃だ。
「64式小銃……」
「へえ。知っているのか」
感心したように男が言った。綺麗に刈られた坊主頭で、体つきから余計な肉が全くついていない事がわかる。
叉反は身を起こした。頭にまた鈍い痛みが走ったが、さっきよりはだいぶ良くなっていた。辺りを見回して、震動の正体に気付く。走行中なのだ。部屋だと思っていた物は、どうやらキャンピングカーの内部らしい。
額に手をやる。包帯が巻かれていた。
「俺がやった。安心しろ、素人じゃない」
言いながら、男がビニール袋を叉反の膝の上に置いた。コンビニの袋で、中にはペットボトルの水、パン、おにぎり、バナナやリンゴまで入っていた。
「大したもんじゃないがな。食えるなら食っておけ」
「どういう事だ?」
「何がだ」
「あんたは一体何者だ。それから、この車は何だ」
「言っただろう。刀山会だ。この車は俺の私物だ。有礼の指示でお前を助けた」
「何で俺の居場所がわかった?」
「情報があった。例のホテルとは懇意にしているんでな」
よく似た破隠の言葉を思い出す。男はいいから食え、と言った。
確かに腹は減っている。ビニールを裂き、叉反はおにぎりを口にした。味には何の変哲もない、どこにでもあるコンビニの食料だ。
「ナユタにある事務所は爆破されたと聞いた。有礼は無事だったのか」
「さあ。今のところ連絡は取れていない。有礼はあらかじめ、自分に何かあった時には俺にお前のフォローをするよう指示していた。お前に役目を無事果たさせるために」
ライフルを拭き終えた男が、クリーニングクロスを畳んで、傍にあったライフルケースに収めた。
「俺達は今、ゴクマが深田を連れて行った場所に向かっている。東北にある今はもう使われていない廃港だ。今日の午前零時、そこから出る船で、連中は国外へ脱出する算段らしい」
「どうして、ゴクマの行き先がそこだとわかった?」
「こっちにも情報を集める手段はあるさ」
特に表情も変えずに、男は言った。
「人数は揃っている。ゴクマの連中を俺達が引き付けている間に、探偵、お前は深田を奪還してくれ。奴の身柄を確保し、ナユタまで戻って組に引き渡す。それがお前の仕事だ」
「……俺には依頼がある。初めに引き受けた依頼が」
「知っているよ。だが、人質の存在を忘れたわけじゃないだろ」
叉反は男の顔を見た。壁のように固い表情をした男は、かつて見た武道家を想起させた。己の感情を完全に律し、表には一切出さない。
「港から少し離れた場所に車を一台待機させておく。何とかそいつで逃げ切れ」
淡々と男は言った。まるでスパイ映画だ。敵陣に奪われた人質を取り返す。仁が聞いたらこう言うだろう。探偵の仕事じゃない、と。
「……あんたらは、最初からこうなる事を見越していたのか?」
アサルト・ライフルを見て、叉反は問うた。
「どういう意味だ?」
「いくら何でも用意が出来過ぎている。ゴクマの連中が口を割ろうとしなかった情報を得た上に、武器と頭数まで揃えていたっていうのか? そこまで出来るなら、何故俺を巻き込んだ?」
わざわざ叉反を経由しなくても、刀山会の力だけで深田を取り戻す事だって出来たはずだ。
男はしばらくの間答えなかった。床に目を落としていた男は、やがてぽつりと言った。
「色々あるのさ。刀山会にも、ゴクマにもな」
そして、男はアサルト・ライフルをケースに仕舞った。
考えをまとめながら、叉反は男が用意した食料を腹に収めた。ゴミ類を袋に入れ、水を飲んで一息つく。
男はすでに別の銃を点検し始めていた。拳銃だ。ベレッタ・モデル92FSピストル。
「次から次へとよく出て来るな」
思わず、叉反は言った。男が顔を上げて、微かに笑った。
「組織のじゃない。こいつも俺の私物だよ。前の仕事の関係で手に入れたんだ」
「銃に関わる仕事を?」
「別に銃だけじゃないがな。十年間勤めた。まあ、色々あって馘首になった後、しばらく転々として、そのうちに組に関わるようになった」
男の目が叉反を見る。曇りのない黒い目で。
「転落した人生だと思うか?」
「そうだな。どこかで踏み留まれば良かったんだ」
迷いなく、叉反は答えた。
「そうかね。しかし、別に俺もいいと思っているわけじゃない。ひとまず食い扶持を稼ぐ必要があっただけだ」
「それで選んだのがヤクザか。他の選択肢もあっただろう、あんたなら」
男が眉をひそめた。
「知ったような口を利くじゃないか。俺の何がわかるっていうんだ、探偵」
「64式小銃の扱いを知っている人間はそう多くない。そもそもそんな簡単にヤクザ者が持てる物じゃない。刀山会の規模じゃ、幹部がトカレフを持つのがせいぜいのはずだ。だというのに、俺が見ただけでもシグ・ザウエルが二挺にアサルト・ライフルだ。幹部でない構成員でさえ銃を持っている様子だった。金回りがいいだけじゃない、明らかに何者かが肩入れしている」
男がじっと叉反を見つめていた。射すくめるような目つきだった。
「それ以上は考えないほうがいい。探偵、余計な事をつつくな」
「なら、あんたの話に限定しよう。自衛隊の制式ライフルをどうして持っている?」
「こっちは裏社会の人間だ。探せば手に入れる方法はあるさ」
「では何故そのライフルなんだ。火力が欲しいだけなら、もっと他の物があっただろう」
「生憎、ディーラーがすぐに用意出来るのがこれだけだったんでね」
「言っただろう。自衛隊の制式ライフルだと。古い銃とはいえ、仮にも国が管理している銃がすぐに手に入るわけがない。ついでに言えば、そのライフルは機構上、分解組み立てが複雑だ。即座に撃てて、整備も楽な物を求めるヤクザには売りにくい代物だ」
男は黙って叉反の推理を聞いていた。腰元のホルスターにベレッタを収め、ライフルの入ったケースを手に取った。
「……仲間内でも言われていたよ。手間のかかる銃だってな。俺個人としては、そういうところも含めて嫌いじゃなかった。当時はもう、ほとんど使われていなかったから、訓練中に触れる時はなるべく多く触るようにした。欠点はあるが、いい銃だ」
「自衛隊にいたんだな」
「馘首になった。闇社会へ武器を横流ししていた疑いをかけられて。その日、別の事件に巻き込まれたせいで、俺は公式には死んだ事になった。身内とは離れ離れになっていたから、俺が死んだ事を知って騒ぐ奴はいなかったし、不祥事を起こした扱いで死亡そのものが発表されていない。で、いい機会だから闇から闇へ渡ってここまで流れ着いた」
「その銃はどうしたんだ」
「俺に疑いをかけていた幹部を脅して、一挺と弾をいくらか横流しさせたんだよ。うまく誤魔化したんだろうが、いつばれる事やら」
おかしそうに男は笑った。少年のような笑みだった。
「転落したかもしれないがな。どうせ俺は存在しない人間だ。気ままに流れていくだけさ」
今度は叉反が黙って聞く番だった。横流しの嫌疑をかけられて、死亡扱いとなった男。基本的には関わらないほうが賢明だ。だが、深入りしないまでも、ある程度情報を集めておく必要はあるかもしれない。この先また、闇の世界で出会った時のために。
「――ヤクザになって、一つだけ良かった事がある」
唐突に、男が言った。
「生き別れになっていた身内の消息を知る事が出来た。ヤク漬けにされ、売春に出されて馬鹿どもの慰み物になる寸前に、刀山会にいたチンピラが助けてくれたんだそうだ」
瞬間、叉反の中に閃く物があった。つい最近行った調査で、よく似た話を聞いた覚えがある。
「フュージョナーだったせいで、組織内じゃ嫌われていたらしい。が、おかげで足抜けも楽に出来た。何の因果か、また裏の世界に戻って来ちまったらしいがな」
男が叉反に向き直った。
「探偵、頼みがある。何とかして、あの男を助けてやってほしい。有礼が生きているにしろ、そうでないにしろ、奴が組織に戻ったら待っているのはケジメだ。生きて戻れる保証はない」
「組の連中から追われないようにしろ、というのか」
「ああ。どんな手段を使ってもいい。親子三人で、幸せに暮らせるようにしてやってほしい」
「俺は探偵だ。逃がし屋じゃない。出来る事はそう多くはない」
「それでも俺よりは出来るはずだ。表で生きているお前なら」
男は頭を下げた。真摯に。ヤクザ者らしさなど微塵もない。
「頼む。俺はこれくらいでしか奴に恩を返せない。どうか深田を妹に、美恵子の元に帰してやってくれ」
深々と、男は頭を下げた。どう言ったらいいか、叉反には一瞬判断がつきかねた。深田の妻美恵子と娘の凜は、未だ行方不明なのだ。
「顔を上げてくれ」
ようやく、叉反は言った。
「まず、あんたに言っておかなければならない事がある。美恵子さんと、娘の凜は今、行方不明だ」
「何!?」
弾かれたように男が顔を上げた。
「警察には連絡してある。深田さんの関係者だから、捜索は力を入れてやっているはずだ」
「いつからだ? いつから行方が知れない?」
「今日の三時前に、俺の携帯に連絡があったきりだ。あんたの部下に手配して、探させる事は出来ないのか?」
「ここ二日で組長と幹部が死んでいるし、今日は事務所が爆破されている。構成員は揃って自宅待機だ。一人、二人なら動かせるかもしれないが……」
思案気に口元に手をやって押し黙り、やがて男は言った。
「探偵。目的地に着くまであと一時間と少しある。その間、少しでも体を休めておいてくれ。俺は、何人かに声をかけてみる。ひとまずは深田の奪還に集中しないと」
男の声は冷静だった。叉反は頷いた。
「着いたら即行動だ。準備しておいてくれよ」
「一つだけいいか?」
「何だ」
「あんたの名前だ。何て呼べばいい」
「俺の名前?」
男が怪訝そうな顔して問い返した。
「刀山会じゃ特別顧問って肩書だがな。死んだ人間に名前はない。〝亡霊〟とでも呼んでくれ」
そう言って、男は奥にある部屋へと姿を消した。
叉反も体を休める事にした。眠って起きれば、また戦いが待っている。親子三人を無事日常に帰すという、大切な戦いが。
6
防弾チョッキとスーツを着てキャンピングカーから降りると、刀山会の構成員らしい男達が、それぞれ銃を持って集まっていた。何人かは、サブマシンガンらしい物をその手に持っている。総勢十名。それぞれ銃声をカットするための耳栓をし、口を利かず指示を待っている。
エンジンがかかったままの車に、〝亡霊〟が近付いて言った。
「例の場所に車を隠しておいてくれ。あとで探偵が行く」
「わかりました。顧問」
そんな会話が聞こえ、車が走り出した。
車を見送ると、〝亡霊〟は叉反に近付いてきた。手に、何かを持っている。
「探偵、お前にも渡しておく」
〝亡霊〟の手に握られていたのは、ホルスター付きの、黒いフレームの大きな拳銃だった。FEGモデルP9R。軍用拳銃だ。弾倉は入っていない。
「銃は使わない」
咄嗟に叉反は言った。〝亡霊〟は譲らなかった。
「駄目だ。武装している連中の中へ飛び込むんだ。こっちも銃を使わなきゃならない。主義主張は聞いてられん」
叉反は沈黙した。
理屈はわかっている。
〝亡霊〟の言う通りだ。銃に対抗するには、結局銃しかない。生死が関わっている場面で、敵と同じ条件が揃えられるなら、そうするべきだ。
それに、ここで言い争いをしている暇はない。
叉反は無言で銃を受け取ると、腰にホルスターを装着した。
「銃を撃った事はあるか?」
「……以前に何度か。かなり前だ」
「そうか。五分やるから、その銃の特徴を捉えておいてくれ。すぐに出発するぞ」
言って、〝亡霊〟は他の構成員を呼び寄せ、打ち合わせを始めた。
叉反は集団から少し離れた。実際には、拳銃携帯許可証と取扱免許を所持している。ナユタに来る前に取得したものだ。
ホルスターからの抜き差し、射撃時の姿勢、照準の合わせ方、引き金を絞る感覚を確かめる。やっているにつれ、血の巡りが活発になってくるのがわかる。体がかつてを思い出す。銃の取り扱いを仕込まれた時の事を。
――かの内乱以来、我が国では銃犯罪が増加した。武器に関わりのない人々が、発砲事件に巻き込まれる可能性が、ずっと高くなっているんだ――
師の言葉が脳裏に甦る。叉反に銃を、そして探偵を教えた者の言葉を。
――お前は体が大きいし、これだけは飲み込みも早い。銃には向いているかもしれない――
飛び散った血。崩れ落ちる体。耳に残響する銃声。
「っ!」
汗が滲み出ている。ついさっき手にしたばかりの拳銃は、まるで長年連れ添ったかのように手の中にある。撃てる、だろう。敵に相対した時、この指はスムーズに引き金を引く事だろう。忌まわしい記憶がフラッシュバックしなければ、だが。
「探偵」
声が聞こえた。振り返ると〝亡霊〟が立っていた。
「時間だ。準備はいいか?」
「ああ」
汗を拭き、息を整えた。時間はない。迷う時間も、過去に囚われる時間も。
〝亡霊〟が弾倉二つと耳栓を差し出していた。耳栓をし、弾倉の一つをマガジンポーチに仕舞い、もう一つを銃把底部に挿入して押し込む。スライドを引いて初弾を薬室に押し込み、親指でレバーを下げてセイフティをかける。
準備が整った。敵地へと向かう準備が。
「行こう」
叉反は言った。