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       3


 旧市街の物陰に車を停め、工場地帯の入り口に着いたのは十二時五十五分だった。かなり飛ばして運転してきた上に、工場地帯まで全力疾走だ。さすがに少し息が上がっている。それでも、慎重に身を隠しながら、叉反は十三番倉庫を目指した。


 目的地は立ち並んだ倉庫の一番端にあった。少し手前の倉庫と倉庫の間に身を潜め、叉反は中の様子を伺う。

 ――――いた。十三番倉庫の中、灰色のスーツの男が立っている。手にはジュラルミンケースを持ち、苛立たしげに腕時計を見つめて、舌打ちする。

 落ち着きがなく、感情的。気が短くて、計画通りに進まないと不安。


 さっきの電話の内容と、今の様子から、叉反は男の性格をそんな風に予測した。適当に揺さぶってやれば簡単にボロを出すだろう。取れる手段はあまりない。迷ったが不意打ちをする事にした。男は時計を見て、辺りを見回し、舌打ちして足踏みという動作をほとんど繰り返している。

 明らかに、鈴木が現れない事に苛立っている。


 携帯を取り出した。電話をかけている。仕掛けるなら今だ。男の注意が電話に向いているその時に先手を打ち、主導権を握る。

 そう思って、叉反が駆け出そうとした時だった。

 突然、エンジン音がして、叉反の目の前にシルバーのセダンが飛び出してきた。見事なまでのブレーキで十三番倉庫の前にぴたりと停め、同時に中から数人の黒いスーツを着た男達が現れる。どう見ても堅気ではない。


「な、何だお前ら!」

 灰スーツの声らしい怒声が聞こえた。

「鈴木は来られなくなった。一緒に来てもらおうか」

 黒スーツの一人が、そんな事を言った。

 叉反に聞き取れたのはそこまでだった。後頭部に金属が当てつけられる。つい二日前にもやられた、覚えのある感触だった。


「お前も来てもらおうか。探偵」

 知らない声が威圧的に言った。いつの間にか、見張られていたのだ。どこからだろう。鈴木と会った辺りか、あるいは、それよりも前か。結論を出す間もなく、黒スーツのうちの何人かが、拳銃を構えながら叉反の前にやってきた。

 ――シグ・ザウエルP226。鈴木が持っていた銃の後継型。やはりヤクザ者が持つにしては立派過ぎる銃だ。彼らがヤクザなら、という話だが。


「誰だ、お前らは」

 両手を上げながら、叉反は言った。まるでSPのように仕立てられたスーツを着た男達は、表情一つ変えなかった。代わりに答えたのは、後ろで叉反に銃を突き付けている者だった。

「刀山会」


 それ以上の問答はなかった。頭から頭巾を被せられ、両手を後ろに回されて器具をつけられる。身を自由に出来ないまま、叉反は強引にセダンの中へと押し込まれた。灰スーツの男も同様だったようで、口汚く黒スーツ達を罵っている。

「出せ」

 灰スーツの罵倒など意にもかけない様子で、車のエンジンがかかった。


 どういう道を走ったのか、よくはわからない。三十分ほど走った後で車を降ろされ、階段を昇らされた。灰スーツの男がまた喚き始めていたが、すぐにその声も遠ざかっていった。どうやら、別々の場所に案内されるらしい。

 ドアが開いて、蹴り飛ばされる。倒れた体を無理やり起こされ、頭巾を取られた。


 薄暗い室内だった。電灯はつけられず、ブラインドの隙間から差し込む陽光のみが明かりだった。それでも、部屋に何人かの人間がいる事がわかる。目の前には机があり、誰かがそこで頬杖をついていた。顔は、逆光でよくわからない。

「――君が探偵の尾賀叉反か?」

 机に座っていた人物が、おもむろに口を開いた。思いのほか柔らかい、しかしどこか斬りつけるようなものを感じる声だ。


「うちの鈴木が世話になったようだね」

「……あんたは?」

 途端に後頭部を殴られた。頬に何発か拳をもらい、わき腹を容赦なく蹴り飛ばされる。

「やめろ。今怪我をされても困る」


 机の主が鷹揚に言って、周りの者達は手を出すのを止めた。叉反は再び元の体勢に戻される。

 黒い影が机の上で両手を組んだ。

「刀山会の有礼淳也(ありかたじゅんや)だ。まずは礼を言わせてもらいたい。よく鈴木をぶち込んでくれた。西島の次に目障りだったんだ、あの男は」


 ――見張りは、やはりかなり前からついていたようだった。鈴木が捕まった事はおろか、叉反が通報した事まで知っている。

「……有礼。西島と刀山会を二分していた男か」

 刀山会についての調査資料を思い出す。年齢は二十代後半。組織のナンバーツーであり、ヤクザには見えない小綺麗な顔立ちと、その行動範囲の不透明さから印象に残っていた。深田の足取りを追うには直接関わりがなかったため、調査はある程度の段階で引き上げている。


「用件は何だ?」

 ぶっきらぼうに叉反は言った。暴力は振るわれなかったが、周囲が殺気立ったのはわかった。

「君に仕事を依頼したい」

 柔らかい声音のまま、有礼が言った。


「仕事?」

「そうだ。人を一人ここへ連れてきてもらいたい。出来るだけ早く、だ」

「誰を連れて来いと?」

「深田慎二」

 一瞬、言葉に詰まった。何かを言う前に、有礼が続けた。


「彼は一度組を抜けたにも拘わらず、どういうつもりか戻ってきて西島の下で働いていた。挙句西島を裏切り、ゴクマとの犯罪計画書を持ち逃げした。警察やマスコミにでも駆け込むつもりだったんだろうが、いずれにせよ刀山会にはいい迷惑だ」

「ヤクザには当然の報いだ」


「そうはいかない。西島のような馬鹿の不始末で獄に入るのは甚だ不本意だ。ゴクマと手を組んだのは、あくまでも西島とその一派であって、刀山会そのものではない。それを、周囲に知らしめなければならない」

「深田さんに何をするつもりだ?」

「君には関係ない。組織人同士の、けじめの問題だ」


「……俺が本当に言う事を聞くとでも思っているのか」

「ああ。君は聞くよ」

 有礼の手が動いた。周囲の者の一人が、ポケットから何かを取り出す。光っている。タブレット型の携帯電話だ。その画面を、叉反の目の前に持って来る。

 見知った者の姿が、そこに映っていた。


「明槻仁……だったか。子供にしては利発そうな顔をしているな。小汚いフュージョナーだが」

 画面に映っているのは、コンビニから出て来た仁の姿だった。どこかからカメラで撮影しているらしく、その映像を携帯に送ってきている。

「……どういうつもりだ」


「何が?」

「子供を巻き込むつもりか」

「君が用件を飲むなら、彼は見張られている事さえ知らずに済む」

 有礼の声音に変化はない。こんな事は、まるで何でもないと言うかのように。

「……だが、もし仮に聞き入れられないというのなら、君は小さな友人を一人失う羽目になる」


 画面の中の仁が、監視に気付く様子はない。いつものように少しつまらなそうな顔をして、菓子パンを口にしている。

「俺は深田さんの居所を知らない」

 考えを巡らせながら、叉反は口を開く。

「警察でさえ追っている最中だ。仮に引き受けたとして、どうやって彼の居場所を探ればいい?」


「幸いな事に、我々は今日この事務所に、ゴクマのメンバーにもお越し頂いている」

 頭の中で、有礼の言葉と手持ちの情報を結びつける。

「そう、君と一緒に来たあのうるさい男だよ。彼は西島、鈴木と組んで東京とナユタ、二つの都市でとある計画を進めていた。一体、何だと思う?」

「……さあな」


 有礼は鼻で笑った。つまらないものを見た時にするような、そんな笑いだ。

「麻薬だよ。あの三人は二つの都市で麻薬を大々的に拡散させる計画を進めていたんだ。武力で流通を一手に握り、ゆくゆくは関東の麻薬ビジネスを丸ごと我が物にしようとしていた」

 つくづく馬鹿だろう、と有礼は言った。


「身のほども知らずにそんな大計画を立てるなんて。鈴木にしろ西島にしろ、みかじめや素人からはした金を巻き上げるのが精一杯の、その程度の人間だ。よりにもよって組むのがゴクマなど。暴力を撒き散らすだけの連中と関わったところで、余計な敵が増えるだけだ」


 叉反は何も言わなかった。つまり、計画書とは、ゴクマと西島達による麻薬販売の計画を記した物、という事だろうか。

 無言のままの叉反を、有礼はまた鼻で笑った。

「話を戻そう。つまり、西島達と取引をしていた彼から、深田を攫ったゴクマの連中に話をつけてもらう。我々の使いが持っていく計画書と引き換えに、深田の身柄を渡してほしいとね」

「……その使いの役が俺か」


「その通り。君には深田が隠した例の計画書を取ってきてもらう」

 有礼が席から立ち上がった。始終笑っているような顔が、叉反を覗き込み、頬に触れる。その仕草に悪寒が走った瞬間、髪の毛を有礼の手が掴み上げた。

 端正な顔が、間近で見えた。刀山会構成員の半分を束ねる男の目が、試すように叉反に向けられている。


「そろそろ考える時間は終わっただろう。答えを聞こうか?」

「っ……」

 ……やるしかなかった。今、逆らっても何も生まれない。

「……わかった。仕事を引き受ける」

「ありがとう」


 髪の毛から、有礼の手が離れた。タイミングを計っていたかのように、ドアが開く。男達に引きずられ、灰スーツの男が部屋に運び込まれた。

ひどい顔だった。騒ぎ立てた分、それなりの仕打ちを受けたらしい。ポケットから携帯を取り出され、操作を強要される。電話がかかり、灰スーツが相手に何か言った。口の中を怪我したのか、声が小さい。

 有礼が携帯を取り上げる。


「――……やあ、どうも。刀山会の有礼淳也だ。初めまして。深田慎二はまだ生きているかい? …………そう、口を割ってはいないんだろう? なら、聞き方を変えるべきだ。深田に代われ」

 相手が誰かはわからない。だが、有礼に怯む様子は一切見られなかった。


「何故? 君らの目的は計画書とやらだろ? 君にせよ西島にせよ、力尽くで聞き出そうとしても相手は口を噤むだけだ。殴られ慣れた下っ端が、今さら暴力を怖がるわけないだろう」

 相手が何か言っている。少し長い。だが、有礼の表情に変わりはない。まるで子供の主張を聞くかのように、鷹揚に頷いている。


「……評判のゴクマもただのガキだな。時間の無駄だ、深田に代われ。こちらが聞き出して、計画書をそちらまで届けてやる。これが最後だ、代われ」

 言うだけ言って、有礼は画面に触れると叉反の前に携帯を置いた。

『…………誰だ?』

 携帯の向こうから声が聞こえてきた。オープントークに設定されたのか、はっきりと聞こえる。二日振りに聞いた、探し人の声が。


「深田さん、俺だ。探偵の尾賀叉反だ」

『探偵……。あんた、何でそんなところに……』

 深田の声に覇気がない。相当に消耗している事が推測された。

「それは――」

「余計な事は喋るな」


 有礼が素早く言い放った。笑みを浮かべながらも、酷薄な瞳が叉反を見張っている。

「計画書の在り処を聞け」

「…………」

 従うしかない。仁の命がかかっている。

「……詳しくは話せない。ただ、深田さんの助けがいる」

『助け……?』


「ああ、そうだ。落ち着いて聞いてほしい」

 最低限の心の準備が必要だ。深田は、おそらくこれを聞き出すために、かなり痛めつけられているはず……。

「――状況が変わった。そこにいる連中に代わって、俺が計画書を取りに行く事になった。引き換えに、貴方の身柄を確保する。深田さんお願いだ、計画書の隠し場所を教えてくれ」


『駄目だ!!』

 途端に深田が叫んだ。爆発が起こったような、そんな怒声だった。

『探偵、あんたわかっているのか!? ゴクマは刀山会と組んで、関東中に麻薬をばら撒こうとしてるんだ。今までの流通を全部ぶっ潰して、辺り構わず麻薬漬けにしちまう気だ。でかい抗争が始まるだけじゃねえ、放って置いたらそこら中にヤク中が溢れる事になる!』


「計画の中枢だった西島は死んだ。後釜を狙っていた鈴木もさっき逮捕された。刀山会に計画を実行しようとする人物は、もういないはずだ」

 声を大きくしながらも、努めて冷静に叉反は告げる。

 深田がここまで怒るのには理由があった。彼が心底違法薬物を嫌う理由が。

鈴木が逮捕されたと知って、深田の声が若干止まった。次を言わせないように、叉反は話を続ける。


「ゴクマは計画書を処分したがっているんだ。いくらゴクマでも、他の組との抗争とヤクの売買までは両立出来ないんだろう。鈴木の逮捕で、計画実行の見込みはなくなった。余計な騒ぎになる前に、後始末をしてしばらく姿を隠したいはずだ」

『……だから、望み通り始末させようってか? 俺の命と引き換えに?』


「実を言えば、関わったのはもう我々だけじゃない。俺の知り合いの子供が、人質に取られている。ゴクマと刀山会の関係が明るみに出て、組の存続が危うくなるなら、有礼はその子を殺すつもりだ」

『子供!? 有礼さんは子供を人質に取ったのか?』

 深田の声色が俄かに変わった。どこかしら、憤りさえ感じる。

 彼の現状を思えば、無理からぬ事だ。


「……本人はまだ気付いていない。このまま無事計画書が始末されれば、子供の安全は保障される。深田さん、頼む。計画書の在り処を教えてくれ」

 沈黙があった。長い長い沈黙が。深田の吐息さえも聞えず、辺りの暗さもあってか、叉反は闇の中に一人取り残されたような錯覚に襲われた。

『…………わかった』


 ようやくして、深田は言った。

『ナユタ北駅のコインロッカー、五十四番だ。開けてすぐ上、内側にテープで留めてある……』

「一人に鍵を持ってこさせろ」

 不意に、有礼が口を挟んだ。

「一人だけだ。武器は何も持たせるな。鍵だけ持たせて駅まで寄越せ。三時丁度にだ」


『それは……俺じゃあ何とも……』

「お前には言っていない。半端者のトカゲめ。後ろにいるゴクマに言ったんだ。いいか、計画書を渡すついでにクスリと運び屋を返してやる。深田は生かしたままこちらへ渡してもらおう。もし何かの手違いで殺しでもしてみろ、どんな手段を使ってでも、今日中にゴクマを潰してやるからな」


 相手の返答を聞かず、有礼は通話を切った。口でたとえどういう内容を言ったとしても、その顔にはさざ波一つ立つ様子はない。不気味な男だった。考えている事が全く読み取れない。

「交渉は終わりだ。三時まで余裕はない。探偵を車に乗せろ。妙な事をしたら殺せ」


 言って、有礼は足早に部屋を出ていく。

 叉反は再び頭巾を被せられた。無理矢理に足を立たされ、連れられていく。

 今は従うしかない。仁の安全を確保し、深田を依頼人の元へ届ける。何があっても、それだけはやり遂げなければならなかった。



 車に乗せられてからしばらくして、携帯電話が鳴り始めた。誰からかはわからない。バイブレーションが鈍く震動している。出るのは無理だ。両手は後ろで縛られているし、頭巾のせいで見えないが、車中には有礼の部下達も乗っている。

 車はナユタ北駅へと向かっていた。ナユタ市では中央駅の次に大きな駅だ。二本の乗り入れ路線と当駅を起点とする一本の路線を持ち、駅に隣接する形で大型のショッピングモールを備えるかの駅は、毎日大勢の人が行き交っている。


 叉反の調査では、深田は東京の事務所で計画書を盗んだ後、しばらく東京中を逃げ回ってから他の土地まで移り、さらに移動してこのナユタ北駅に来たらしい。

 何故深田がすぐに東京を出なかったのか、その理由はわからない。ホテルの宿泊歴や目撃者など、深田が東京にいたという痕跡は見つかったものの、数日間東京に留まった動機は不明だ。追手の目を欺くにしては、リスクが高すぎる。刀山会にとって、東京は縄張りの内側なのだ。


 不可解な点は、まだまだある。

 そもそも、何故深田は一度足抜けしたはずの組織に戻ったのか? 同じく小間使いだった者から話を聞いたが、『西島が呼び戻した』という理由以外にはっきりした事はわからなかった。


 当時、西島は来るゴクマとの大事業――すなわち麻薬拡散計画――のために、少しでも自分の手駒を増やそうと必死だったらしい。足抜けした元部下にまで声をかけているのだから、それは相当切羽詰っていたのだろう。

 対立していた有礼と見比べても、西島に人望があったとは思えない。ならば何故、深田は西島の元へと戻ったのか。


 そして何故、戻ったはずの組織を裏切って計画書を盗んだのか?

 叉反の調べた限り、深田慎二という男は、わざわざ危険を冒してまで犯罪計画書などという厄介そうな代物に手を出すようなタイプではない。


 フュージョナーであった事で、周囲から迫害され、家族とも上手くコミュニケーションを取れずにいた深田は、小さい頃から荒れた生活を送っていた。十六で暴走族に入り、十八の時にふとした事から暴力団と揉め事を起こす。この時事態を収拾したのが西島で、これが縁となり、深田は刀山会に入り、西島の下で働くようになる。


特に大きな犯罪に関わる事はなく、やっていたのは、もっぱらみかじめ料や借金の取り立てなどだ。暇になればパチンコなどのギャンブル、さらには酒に酔って喧嘩をし、何度も留置所に入れられていた。

 そして四年後、とある契機から深田は刀山会を脱会。元々幹部達がフュージョナーの構成員を良く思っていなかった事もあり、すんなりと抜けられたらしい。


 それからの深田は、だらしない私生活を改め、必死になって働き、堅気として生きた。そうするだけの理由が、彼にはあった。西島の誘いを受けて組に戻るまで、裏社会との関わりは一切なかった。

 何かわけがある。深田が今の生活を捨ててまで組に戻り、計画書を盗むに至ったわけが――……。


 そんな事を考えていた時だ。車が急に停まって、叉反は両手の拘束を解かれ、頭巾を頭から外された。

 どうやら目的地に着いたらしい。

「降りろ。階段を上がって、真っ直ぐロッカーまで進め。途中で鍵が渡される」

 黒服の一人が言った。頷き、叉反は車を降りる。叉反が歩き出してしばらくしてから、車のドアが再び開く音がした。


 道にあるミラーを確認する。黒服が二人、離れたところから叉反を見ている。どうやら監視がつくらしい。向こうにしてみれば、当然の処置だろう。

 西日が少し眩しい。白い壁のナユタ北駅が、少し先に見えた。

 出来るだけ自然に叉反は駅まで歩いていく。また電話が鳴り始めた。携帯電話を取り出して、出たい気持ちを抑える。コールが長い。相手は、こちらとどうしても話したいらしい。


 階段を上がって、北駅の中へと入っていく。今のところ、ゴクマからの接触はない。そうこうしているうちに階段を上り終えた。コインロッカーは改札の前を通ってすぐの場所にある。歩調を整えながら、叉反はさらに進む。

 三度目の着信。今度は少し短い。相手の見当はついている。だが、かけ直すタイミングは見出せない。


と、電話に気を取られたその瞬間、叉反は道行く誰かとぶつかった。

「失礼」

 すぐさま、叉反はぶつかった相手に向かって謝った。サラリーマン風の男だった。眼鏡をかけて、レンズ越しに叉反を忌々しげに睨みつけ、舌打ちをしつつ離れていく。


 小さく金属が擦れる音がした。携帯電話が震えていた。丁度四回で終わる。今度はメールだ。電話をかけてきた相手からだろう。

 慎重にポケットに手を入れる。刀山会の目があるため、携帯には触れない。代わりに、さっきまでそこになかった物を手に掴んで取り出す。

 あった。ナンバープレートつきのロッカーの鍵。番号は「54」。


 振り返らず、叉反はロッカーへと向かった。――あのサラリーマンは、もういないだろう。

 五十四番を探す。ほどなく見つかった。鍵を開けて、上部を探る。ビニールの感触。固く小さいそれを引き剥がす。ついに見つけた。青いボディのUSBメモリ。

 『計画書』だった。

「見つけたようだな」


 ふと見ると、黒服の二人がこちらに近付いてきていた。一人が叉反の手の中のUSBを確認し、続ける。

「よくやった。すぐに連中に連絡して、移動を――」

――その背中から血飛沫が上がったのは、一瞬の出来事だった。

 銃を取り出す間もなく、振り返ったもう一人の胸元が鮮血に染まる。咄嗟に叉反は後ろへと跳び下がった。


 二人の命が、瞬く間に失われた。構内に悲鳴が響いたのは、その直後だった。

 異変に気付いた人々が混乱し、安全地帯を求めて我先へと逃げ始める。多くの人々が逃げ回る中で、殺人者は全く動じず、その指先から血を滴らせていた。

黒服達を切り裂いたのは、禍々しく伸びた黒い鉤爪だった。指の一本一本は太く、黄金の体毛に覆われている。顔はフードに隠れて中から低く唸り声が聞え、巨躯が黒い影を作っている。


「計画書を、渡シてもらおう」

 濁りの混ざったその声で、レインコートの殺人者が言った。

「……どういうつもりだ。ゴクマは取引に応じるんじゃなかったのか?」

 慎重に叉反は身構える。西島達と合わせて、これで五人殺した。二日で五人。しかも、殺した事に何の感慨も抱いていない。


「計画書ヲ、渡せッ!!」

 レインコートが吼えた。巨体が一瞬で間合いを詰め、剛腕が唸りを上げて叉反を狙う。殺意は明確だった。こちらの生命など、考慮に値しないらしい。鉤爪の一撃を躱しながら、計画書をポケットに仕舞う。瞬間、凶爪が頬を掠める。皮膚が裂けた感覚。深い。痛みと共に赤い血が流れ出したのがわかった。


 速く、そして強力だった。下手に反撃などすれば、その瞬間に八つ裂きにされるだろう。

 撤退するしかない。とにかくこの場から生き延びなければ。

 とはいえ、逃げるのは至難の業だ。相手はぴったりとこちらにくっついて、隙間なく攻撃を繰り出してくる。横殴りの一撃一撃が身を掠める度、逃げ場がなくなっていくような錯覚に襲われる。飛び掛かれば届くような距離で、決定打を放たずにいるのは向こうの戦略だ。じわじわと嬲るように追い詰めて、こちらが崩れる一瞬を待っている。


「がァッ!!」

 唸りと共に蹴り足が上がる。靴は履いていない。手と同じように鋭く伸びた黒爪が、叉反の顔に迫る。目に触れるぎりぎり。必死に背を反らせた。体が、バランスを失う。

 レインコートが、ほくそ笑んだ気がした。


 突風のような一撃が、右腕に食らい付いてきた。剛腕が骨を討ち、黒爪が肉を抉る。血が噴き出た。怪我の深度を知る前に、左側から暴風が吹いた。身が捻じれるように吹き飛ばされる。次の瞬間には、叉反は駅のタイルの上に転がっていた。

 黒い影が、猛獣のように体に覆いかぶさる。レインコートの荒い息遣いが、すぐそこで聞こえた。


「計画書を、渡セ……」

 喉を低く唸らせて、レインコートが言った。

「渡さないなラ、殺してやる」

 声が濁りつつある。喉元に手がかかる。爪の先が、徐々に皮膚を突き破っていく。


「……やってみろ。殺せるのがお前だけだと思うなよ」

 レインコートの背に、蠍の尾の先端が触れる。フュージョナーである叉反が持つ最後の武器、毒針が。

「俺のようなフュージョナーの毒がどういう物か知っているか。人間大の蠍に刺されたと思えばいい。どこに刺さろうと関係ない。血に混じった毒が心臓に届けば、それで終わりだ」


 レインコートの手が止まる。唸り声だけが続き、フードの中の顔は一向に見えない。体を動かすのに、あともう一息だけ時が必要だ。隙を衝いて、この場を離脱する。

「俺を殺さなくても計画書は手に入る。なのに、ゴクマが俺を殺してまで計画書を奪おうとする理由は何だ?」


 闇のような顔に問う。時間稼ぎになるかはわからない。だが、相手の意識を少しでも逸らす必要がある。それに、新たな情報が手に入るかもしれない。レインコートの手は喉を掴んだまま、しかしそれ以上の力は込められていない。いつでも握り潰せる寸前のところで、蠍の尾と膠着している。


「――……俺を殺して深田さんも計画書もどちらも手に入れたいのか。一体深田さんが何を知っているというんだ」

 唸り声がより強くなる。苛立っている。人がするような反応ではなく、もっと動物的なものだ。この襲撃者の正体にも、少し見当がついてきた。

 体が整いつつある。反撃の準備が、もうすぐ……。


 ぽたりと、頬に何かが落ちた。フードの向こうから落ちてきた、粘りのある水滴。息が荒くなっている。体が小刻みに震え、首を抑える力も弱まっている。

「……回帰症か」

頭に浮かんだ予想を叉反は口にした。答えはない。震えはさっきよりもひどくなって、口から漏れる声は苦しげだ。


「それなら――っ!?」

 返答は暴力だった。勢いよく胸ぐらを掴み上げられ、獣臭い吐息が顔の間近にかかる。もはや確定的だ。回帰症。この世でフュージョナーだけが発症する病を、こいつは患っている。

「獣になりたいわけじゃないだろ」

 毒針が背から外れているにも関わらず、叉反は続ける。


「こんな事をしている場合じゃないはずだ。治療を受ければ進行は遅らせられる。馬鹿げた悪事に関わっている時じゃない」

「……ダ、マれ」

「これからも殺し続けるつもりか。ゴクマの言いなりになって」

「ダマレぇッ!!」


 濁り切った叫びが上がる。振り絞った力が、叉反の命を終わらせるはずだった。

 空気を掠めるような音がした。終わりは来なかった。レインコートの体に異変が訪れていた。撓んでいた筋肉が一斉に弛み、苦しげな嗚咽が喉から漏れる。レインコートの肩口から長い物が生えていた。狩猟で使うような麻酔針だ。僅かに頭をずらせば、階段の手前に何者かが並んでいる事がわかった。一人ではない。数人で、特殊部隊めいた黒い装備。一人がライフルを構えているのが見える。到底ヤクザには見えない。ゴクマでも、おそらくないだろう。


 すでに何人かがこちらへ向かって走り出していた。足音は後ろからも聞える。見張られていた。捕える機会をずっと伺っていたのだ。瞬発の力を発してレインコートを突き飛ばし、叉反は駆け出した。とにかく逃げなければ。目の前の改札を飛び越えて、ホームへと急ぐ。


 追跡者の足音がした。一人ではない。三人はいる。年配らしい男の声が「待て!」と叫んだ。構っている暇はない。ベルが鳴っていた。ナユタから他市へ出る電車だ。最後の力を振り絞って、その中へ飛び込んだ。


 反対側のドアへ衝突すると同時に、電車のドアが閉まった。窓の向こうに息を切らせている男達がいた。三人。歳はばらばらで、黒やグレーの背広を着ている。

 ドアに背をもたれて荒い呼吸を鎮める。勘が働いた。間違ってはいるまい。面識はないが、連中の組織とはそれなりに長い付き合いだ。ナユタに来る前から、ずっと。


 警察だった。



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