プロローグ
翼は幅広く、人頭人面、
脚には爪が鋭く、太い腹は羽毛でおおわれ、
奇怪な樹の上にとまって嘆声を発する。
――ダンテ『神曲・地獄篇』
窓の向こうに欠けた月が見えた。満月が近かった。ぼうっと浮かぶ月を人並に綺麗だと思う感性はあったが、今はそれ以上の感想は湧かなかった。
悠長にやっている余裕はなかった。そうでなくても、依頼を受けてから足取りを追うのに随分時間がかかっている。依頼人への申し訳なさが募るが、頭から振り払う。とにかく、目標には追いついたのだ。反省は、全てが無事済んでからすればいい。
ナユタ中央駅行きの最終電車、三両目後部の優先席に一番近いドアに、目的の男はもたれかかっていた。どこか疲れた顔をして、窓の向こうに見えるナユタの新市街を眺めている。紫のシャツに、金のネックレス。日焼けした肌、薄い眉、鋭い目つきと、一見すればどこにでもいそうな中年のチンピラだ。細身で、調査によれば、組での役職は小間使い。一番下だった。
実のところ、一度裏の世界から足を洗っているが、当時の上役から呼びかけられたらしく、最近元いた組に戻っている。ちなみに以前の役職も雑用と、立場に変化があったわけではない。
性格的なものもあるだろうが、組織の最下層に置かれた理由は別にある。
男の腰からは、他の者にはない物が生えていた。青光りする滑らかなトカゲの尾。
《フュージョナー》だ。生まれつき人間以外の生物の部位を抱えて生まれてきた者。彼が組織で成り上がれなかったのは、上層部の人間が〝人間らしくない〟特徴を持つ男を嫌ったからだ。男の面倒を見ていたのは彼を拾った上役と、昔気質の組長で、二人の事は慕っていたという。
彼のトカゲ尾は傷だらけだった。大半は古傷だろうが、新しい物もいくつか見受けられ、根元には真新しい縫合の痕まである。ここ最近の生活が、彼を追い込んでいたのだろう。
あくまで自然に、彼へと近付く。疲労の色が濃い。何か考え事をしているのか、こちらが近付いている事に気が付く様子はない。
「――失礼。深田慎二さん?」
いくつか手段はあったが、一番直接的なものを採用した。出来る事なら、これ以上依頼人を待たせたくなかった。
中年のチンピラ――深田はぎょっとした顔でこちらを見上げた。無理もない。こちらとの身長差は彼の頭三つ分といったところだ。職業柄目立つのは決して得策ではないので、素直に高身長を喜べないが。
「な、何だお前……。どうして俺の名前を……」
「驚かせてすみません。探偵の尾賀叉反と言います。実は、ある方の依頼で――」
「探偵? 俺の居場所を調べたっていうのか、探偵が!?」
深田は見る間に動揺していった。大声を出した深田に対して、周囲の客が怪訝そうな目を向けている。
「落ち着いてください。私は刀山会とは何の関わりもありません。ですが、このままでは貴方に危険が――」
炸裂音が車両内に響き渡って、叉反の言葉が遮られる。振り返れば、いかにもといった風情の、上等そうな黒いジャケットを着た巨漢が、拳銃を天井に向けたまま立っている。すぐ後ろに、手下らしい男が二人。どちらも叉反と同じくらいの背丈で、筋肉の上に脂肪が乗っていそうな体つきをしている。
「関係ない奴は出ていけ。巻き込まれたくないんだったらなあ」
リーダー格らしい男が、再び引き金を引いた。同じ車両に乗っていた数人の乗客達が一斉に事態を理解した。誰ともなく悲鳴が上がり、前の車両へ我先に駆けていく。
一分と経たないうちに、三両目の中は関係者だらけになった。三人の巨漢に、深田。
そして尾賀叉反。
「深田。組裏切って逃げ延びようなんざ随分甘い考えだな。所詮フュージョナーの頭じゃ、事の大きさについていけなかったか?」
リーダー格の言葉に、深田は血相を変えた。
「西島さん! あんた一体何を考えてんだ! 《ゴクマ》なんて人でなしと組んで、関東中をボロボロにしちまうつもりか!?」
あらん限りの深田の叫びも、西島の顔色を変える事はなかった。呆れたようにため息をつき、かけていたサングラスの位置を直す。
「いつまでもガキみてえな野郎だよ、お前は……。修羅の世界で生きていくには力をつけていかなきゃいけねえんだ。圧倒的な力をな」
「あんたそんな人じゃなかっただろう! 極道でも屑みたいな真似だけは絶対にしなかったはずだ! 大体オヤジがこんな事許しゃしない。何としてでも潰すはずだ!」
「オヤジならさっき死んだよ」
断頭台の刃のように、西島の言葉が宙に落ちた。
「てめえと違って隠れるのが上手いジジイだった。青森の山ん中まで逃げてやがったがな、自分一人じゃベッドから動けねえ体だ。鈴木の奴が楽にしてやったよ」
深田の顔から血の気が引いていった。膝から崩れ落ち、見開かれた目がここではないどこかを見つめている。
「あ、あんた……オヤジまで……」
「てめえの言う通りコトを進めるのに邪魔だったからな。……まあ、お前はそう簡単には殺さねえ。計画書の在り処を聞かなきゃならねえからな」
西島の銃が、ゆっくりと深田に照準を合わせる。ノーリンコ五十四式手槍。中国製拳銃。
銃など最低だ。
「そこのサソリの兄ちゃん。あんたは関係ねえ、大人しく退いてな」
銃口を深田に向けたまま、西島は叉反に凄んだ。
西島が叉反の名前を知っていたわけではない。お互いに初対面だ。ヤクザは叉反の名を呼んだのではなく、その身体的特徴に触れたのだった。
叉反の腰から生えた、蠍の尾に。
「聞こえなかったのか。退かねえならてめえから殺すぞ、フュージョナー野郎!」
「――深田さん、聞いてくれ」
西島には答えず、呟くように叉反は言った。
「貴方が逃げるのを助ける。俺が合図したら、先頭まで走ってくれ」
「いや、でも!」
「フュージョナー!! どうやら死にたいらしいなあ!?」
「この電車はあと五分でナユタに着く。それまで時間を稼ぐ」
「あんたは!?」
「いいから! 三、二……」
緊張感を背中で感じながら、叉反は状況への集中力を増していく。
「もういい」
西島の声のトーンが変わった。抑制の力が一つ切れて、理性を手放した時の声だ。
「……一」
呼吸が、気配が背面越しに伝わる。周囲の音に自らの感覚が溶け込んでいく。目の前の深田の息遣い。線路を走る電車の音。車内に響くアナウンス。ヤクザ達の怒気の鼓動。敵の殺意が火の玉のように燃え滾っていく。コンマの時間がゆっくりと過ぎる。
男達の指が、引き金に掛かる……。
「やれ」
次の瞬間、爆音が弾けるのと車内が大きく揺さぶられたのは、全く同時に起こった。
「行け!」
叉反は叫んだ。急カーブに揺らぐ車内を深田はわき目も振らず走り出す。不意を突かれたヤクザ達はまだ状況に対応し切れていない。
叉反は、動いた。
「くそが!」
西島が再び銃を構える。その瞬間、まるで示し合わせたように、叉反の爪先が西島の銃を蹴り飛ばした。 急な接近に怯んだ西島の顔面に素早く右拳を叩き込み、翻って左の裏拳で背後に立っていた男の顎を捉える。三人目の男が叉反に銃を向けるのと同じくして、右足の靴底が男の胸板にめり込んでいた。
カーブが終わる頃、ヤクザ達は優先席の傍に倒れ込んでいた。部下二人の手から拳銃をもぎ取り、弾倉を排出し薬室から弾を抜き取って空撃ちして、車両と車両の間に放り捨てる。ナユタ駅到着まであと四分といったところか。
「待てや……」
大の字に倒れていた西島が立ち上がる。鼻は真っ赤に腫れて血を流しているが、それだけだ。他の二人もよろよろと立ち上がりながら、敵意に満ちた目で叉反を睨む。
「毒虫のフュージョナー風情がふざけた真似してくれるじゃねえか。このまま無事で済むと思ってんのか?」
「刀山会はこれで終わりだ。幹部が自分の親を殺すようならな」
「はっ。老い先短い病気のジジイに従って何になる。組は生まれ変わる、金と力でだ」
「どちらもお前にはない物だ」
「うるせえっ!」
西島が殴りかかってくる。横殴りの拳。腕の内側を受け止め、下腹にパンチ。拳を引いた瞬間に真横から乱暴な蹴りが襲ってくる。部下だ。体のバランスが崩れ、手下の男がのしかかってきた。馬乗りに乱打。乱打。雑な攻めだ。感情任せの攻撃を防ぎながら叉反は隙を窺う。
――見えた。連続する拳の一瞬を突き、腕を掴み取って引き倒す。転げた拍子にもう一人の手下が動く前にその足を掬い、床に叩き付ける。
窓から景色が見えた。およそ、あと二分。
立ち上がる。西島の姿がない。どこへ――……
「終わりだ」
冷たい金属の感触が後頭部へ押し付けられる。稚気さえ感じる西島の声。引き金を引くのは一瞬だ。体が反応した。豪風を受けた風車のように回転する。右足は城壁を壊す槌さながら、唸りを上げて振り回される。
――破壊する。
銃声が響く前に、西島の体はドアへと叩き付けられた。右わき腹への一撃。吹き飛ばされた際に後頭部を強く打ち付けた。立ち上がる様子はない。
「ああ、そうだな」
銃を取り上げてマガジン・キャッチボタンを押し、スライドを引いて薬室内の銃弾を取り除く。撃鉄をハーフ・コックにし、弾倉から銃弾を床にばら撒き蹴散らしておく。そして、空の弾倉を踏み潰した。
「終わりだ」
コートを直して、叉反は先頭車両へと向かった。
「探偵!」
先頭車両の一番端に、深田は身を潜めていた。電車は速度を充分に落としながら駅へと入っていく。西島達が追ってくる気配はない。
「大丈夫だったかあんた。怪我は?」
「問題ありません。それより、降りたらすぐ走ります。ひとまず後ろの三人を撒かないと」
「あ、ああ……。にしてもあんた、よく西島さん達を」
深田の言葉が終わる前に、電車が停車した。深田の肩を抱き、ドアが開くのと同時に駆けだす。他の乗客達がまばらに降りてくる。西島達はまだ伸びているだろうか。いずれにせよ出て来ないのなら好都合だ。電車から距離を取りつつ、叉反は深田を連れて階段へと急ぐ。
その時だ。
赤い弧を描いて、黒い塊が叉反達の前に落ちてきた。
一瞬、それが何であるかを判別するのに時間がかかった。
「に、西島……」
深田の体から力が抜ける。そのままホームにへたり込むのを、叉反は止められなかった。
西島は死んでいた。首が一回転に捩じられ、全身の血管が破裂したかのように黒いジャケットは赤く濡れている。瞳孔は見開かれ、顔は驚愕に歪んでいた。
「――計画書ハ何処だ」
唸り声のような濁った声が、唐突に耳に届く。
見れば、眼前に異装の者が立っていた。ヤクザ達を超える巨大な背丈に、その全容を覆い隠すフード付きのレインコート。顔はわからない。右手に手下二人の死体をぶら下げている様は、まるで獲物を仕留めた狩人だ。
「ゴクマか……」
慎重に、叉反は問うた。答えは期待していない。言いながら、深田を庇うように前に出る。
「計画書は何処だ、と聞いてイる」
案の定、答えはない。レインコートの腕が無造作に死体をわきへと打ち捨てる。叉反は構えをとっていた。危険だった。ヤクザ達とは異質な、戦闘意識をむき出しにしている殺人者。一対一ならともかく、深田を守りながら戦えるだろうか。
フードの奥で、唸り声がする。
「答えなイなら――!」
「動くな! 警察だ!!」
新たな声が、緊張を解いた。足音を響かせて、ホームの向こうから警官達が駆けてくる。銃をこちらに向けて、大勢で迫ってくる。
「次は奪う。計画書、必ず……」
呟くように言い残して、レインコートは一瞬のうちに、ホームの反対側の線路へと姿を消した。人間が出せる速度ではない。普通の人間が持たない素養がなければ、あの速度は出せない。
「助かったよ、探偵さん。いつも、こんな感じなのか?」
こちらへ駆けてくる警官達に両手を上げながら、深田が口を開く。
「ええ、まあ……」
叉反も深田に倣って両手を上げながら、言った。
「――いつもじゃないですが」