手とり足取り、髪に口付け。
私がマロングラッセに舌鼓を打ち風峰くんに勧められた二個目の誘惑と戦っている時、真央がやっと現れた。優れないように見えるその顔色に私は声をかけようとしたが、風峰くんの姿を認めた真央はふてぶてしく片方の口の端を上げる。
「新しい舞手の風峰ってやっぱり『勇者』だったんだ。あ、今は『魔王』でしたっけ、先輩?」
あらかじめ知っていたようだ。私の疑問が顔に現れていたのか、真央は呆れたように朝のお勤めの時に社務所の連絡掲示板で確認したのだと教えてくれる。
「俺もまさか『魔王』と呼ばれるなんて思ってもみなかったな。主将も両極端な人だよね」
「ある意味ぴったりだと僕は思いますけどね。『勇者』なんて所詮ただの上っ面だけじゃないですか」
「……なかなか手厳しいね」
困ったように頭をかく風峰くんに、真央はふんと鼻をならす。
「皆そろったことだし、そろそろ稽古場に行こっか」
このままでは二個目、三個目のマロングラッセの誘惑に負けるかもしれない。私は奉納の舞の練習を促した。
初対面の人には借りてきた猫のように大人しくなる人見知りの真央も風峰くんには自分から食ってかかるくらいには打ち解けているようだ。
私の鈴の舞は一人だが、真央と風峰くんは一緒に舞うので剣舞を通してもっと仲良くなれるだろう。青春の一コマだ。
持ち手の上部に上から三個、五個、七個の鈴がつき朱色の長い房が雅やかな神具の鈴を手に取り、私は龍笛の音に合わせてゆっくりとした動作でもう身体が覚えてしまっている舞のおさらいをする。
昨夜部屋でこっそり練習したかいあって、龍笛の人も初日にしてはまぁ良いんじゃなかろうかと頷いてくれる。
一時間程度、奏者と舞手の呼吸が合うように練習して、私達はお開きにした。
さてさて、剣舞の方はどうだ?
三人で舞う剣舞の様子を見て、私は肩を落とした。
私と同じく小学生の頃から舞い慣れている真央は、風峰くんは初心者なのに「見て覚えろ」とばかりに我関せず。基本的に同じか対照な動きではあるが、それぞれ違う動作のところは三十代の舞手のお兄さんが教えている。もう真央ったら。
ふと舞うのを止めた彼は、二人に何かを話しかける。そしてそのまま出口のこちらにやってきた。時計をみると彼のお勤めの時間だった。巫女の私と違って宮司の後を継ぐ彼は見習い出仕として努めることがたくさんある。
「今日、ヤバいかも。後で美琴にお願いするかもしんない」
だがお勤めに向かうその表情は固く、青白い。
「大丈夫? 今ちょっと休んだら?」
「いや、父さんも待ってるし、これくらいならまだ平気だから」
真央が稽古に来るのが少し遅かったのは、本殿の方で氏子さんがお祓いに持ってきた物を預かっていたのかもしれない。
小さい頃を思い出させるその強ばった顔に私は「でも」と手をつなぎ止めて渋ったが、そんな私を安心させるように真央は少しだけ目元を優しくした。
最近では嫌そうに振りほどかれる事が多い手も、微かに握り返してくれた。遠慮がちなそれが嬉しい。
「次回までに振りを覚えてきて下さいね」
風早くんにそう言って稽古場を後にする真央の背は、線が細いとはいえ成長して逞しくなった。だがいつまで経っても、姉は心配でたまらないよ。
「真央くん、具合悪そうだったね」
舞手のお兄さんから昨年の剣舞を録画した物の見方を教わっていた風峰くんは、彼に頭を下げて別れの挨拶を済ませてから私に話しかけてくる。奏者の人達も楽器を片付けている。どうやらこちらもお開きにするようだ。
「うん、ちょっとね」
詳しくは言えないのでそう返してから、私も毎年お世話になっているお兄さんとちょっと話してから手を振る。風峰くんはそれを黙って私の横で聞いている。それから、まだここに居てもいいかと聞いてきた。
「忘れないうちに復習しておこうと思って」
さすが優等生。良い心がけじゃないか。
「じゃあ私もつきあうよ」
剣舞は男性の舞だが、私も舞える。
会社勤めのお兄さんは練習にとれる時間があまり無い。真央もお勤めがある。だから私が舞の指導を手伝うことになるだろうなとは予測していたのでそう言ったが、私はこの後、何の気負いもなくそう申し出たことを後悔した。
「右手はもっと斜めに傾けて、こっち、遠くに遠くに届けるように指先まで意識して。はい、ここ肘に力入れない」
風峰くんの向かい側から手を伸ばして正しい位置へと訂正する。
「もっと腰落として。膝曲げて足開いて、背筋まっすぐ」
手で彼の腰や背を伸ばしながらも、膝カックンするように膝を使って彼の足を曲げ、足先で払うようにして彼の足幅を広げたり、足の向きもぐいっと変えさせる。
まさに手とり足取り。口で言うよりこっちの方が早いし分かりやすいもんね。
「正確な型を取ろうとすると、けっこう色んな筋肉使うね」
見下ろしてきた瞳は思ったよりも近くにあった。
親密過ぎる、その距離。身長差があるため時々自ら密着するように身体を寄せていた私。指導のためとはいえ今更ながら自分と彼との至近距離を意識して引きつってしまった。
おう、これってセクハラ? ごめん、そんなつもりは無かった。
「……きつい」
「頑張れ」
不快に思ってないかちらっと窺えば、彼は耐えるように言った。舞の姿勢は普段使わない筋肉を酷使するせいだろうか。ふるふるしている。
適度な運動に上気した頬、僅かに汗ばんだ首筋、身体から放たれる熱気、耐え忍ぶように引き結ばれた唇、そして、私のことをじっと覗き込む真摯な瞳。
がしっと、私は彼の腹筋を押さえた。何か今、危なかった。
「うっ」
「明日は筋肉痛かもね。はい、腹筋背筋に力入れて姿勢キープ」
彼の呻きが頭上で聞こえる。
さっきまでは気にならなかったのに、それさえも落ち着かない気持ちにさせる。彼が私の動きを追うその視線から逃れたくなって、私はその背後に回った。
触れないようになるべく口頭で指導する。
「こう? それともこうかな?」
「いや、もっと左にそるようにして、あ、剣はもっと引き寄せて……そうじゃなくって」
だが微妙な肘の曲げ具合や手の傾け方、剣の向きなど、やっぱり見て覚えてもらうか直接彼の身体を動かして教えたほうが伝わりやすい。そのもどかしさで私は、結局恥ずかしさなんて忘れてしまって手が出る。一応、彼と向き合わないように後ろや横から。
「これで合ってる? 境木さん」
「っ!」
頬を掠る、柔らかな感触。
急に振り向いた風峰くんの唇が、頬に当たった。
事故! これは事故! 気にしない気にしない。
「う、ん。さっきより良いんじゃない?」
でも声に動揺が現れてしまった。スルーでお願いします。そう思ったのに、風峰くんはくすっとその口元を緩めた。
「たまんないな。可愛い」
甘く、甘く、砂糖菓子が蕩けるような笑み。まるで愛しさが溢れ出したように響く優しい声に、想われているような錯覚を覚えて胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
「真っ赤だよ」
「それは、風峰くんのせいでしょ」
俺のせいかと嬉しそうにする風峰くんが恨めしい。しかも手を取って、くるっとターンするように引き寄せられた。うわぁ。近い近い近い。
「あの、前も思ったんだけど、風峰くんって意外にスキンシップ多いよね」
「……そうでも無いと思うけど」
皆にイイ顔ばかりするけど、こういうタイプじゃなかったと思うんだけどなぁ。なのに彼は、異論があるように眉を寄せた。
「それって女の子に誤解させやすいと思うよ」
私の言葉に、風峰くんは背筋を伸ばして神妙に顔を引き締めた。
「誤解って、何? 俺、美琴には誤解されたくない」
うん。その反応もどうかと思うよ。急に名前呼ぶのもね。
これからは学校だけじゃなくって新嘗祭まで舞手として付き合いもふえるので、私はびしっと言うことにする。
その言動は相手に好きだと勘違いさせてしまうと。
だが私の注意をうけた彼は「なんだ、そんなこと事か」と胸をなで下ろした。
「大丈夫、美琴にしかしないから」
その返答からして大丈夫じゃありません。
「いくら私が誤解しないからって、それは無いでしょ」
それとも何、誤解させたいのか!? 悪魔! いや『魔王』なのか? 風峰くんって優等生だと思ってたけど、全然話が通じない。今までのイメージとだいぶ違う。
「……そっか、そういえばここでは俺まだ言ってなかったね、好きだって」
何かさらっと聞き逃せないことが……って、はいぃぃぃぃ!? 何だって!? もう一度言って!? いや、やっぱ言わなくていいです。ここでも、どこでも、聞いたことありません!!
よって、これは気のせい。
「好きだよ、美琴。俺、君のことが本当に大好きだ」
臆面もなくそう言ってのける彼。
ぎゅっと抱きつかれ、耳元をくすぐるように囁かれた。
「愛してる」
私の顔はきっと熟れた林檎のように真っ赤になっているだろう。
頬と頬を寄せ合うようにして頭を撫ぜられる。
そして、手繰り寄せた髪に唇を落とされた。
思慕の、キス。