94.昔話
テラから邪悪な力は感じられない。
しかし、それ以上に強い意志を感じる。
俺の身体を使い、テラは赤黒く光った魔法陣に文字を刻み込んでいった。
――“表の干渉者たちの記憶から来澄凌の存在を抹消させよ”
なんてことを。
テラは、俺と契約を結んだ従順なる“僕”じゃなかったのか。
刻まれていくレグルの文字。その一つ一つが光を帯び始める。
廃墟と化したビルの谷間で、見たことのない色の魔法陣を固唾を呑んで見つめる人々。その誰もが、記述の内容におののいていた。市民部隊の面々も、隊長のウィルも、モニカ、ノエル、美桜、ジーク、シバ、須川、そして俺も。
「ダメ……ダメよ……」
涙を蓄えながら、美桜が必死に首を横に振る。
「忘れたりしない。忘れるもんですか。あんなに必死に戦ってくれた凌を、私たちの大切な仲間を、忘れたりするもんですか」
声だけは力強くて。それだけで胸がいっぱいになる。
やめてくれ、テラ。一体どうしてそんなことを。
内側から必死に訴えかけても、テラは一向に反応しない。
「止めるしかない。最後の文字が光ったらお終いだ」
とジーク。
「来澄を止めるのは……私の、仕事だ」
項垂れていたシバが力強く言った。ザックリと斬られた左肩から下は、力が入らないのかぶらんぶらんだった。ジークの手を振り解き、サーベルを抜く。それだけでも傷口が痛むのだろう、シバの顔が歪んだ。
痛みに耐えるように歯を食いしばり、シバがサーベルを片手に向かってくる。いつもより足取りが重い。
シバにつられるようにして反応したのはノエルだった。
小さな身体で何度も脇に体当たりし、テラの集中力を切らそうとするが、体格差からかびくともしない。
「おい、悪人面! 悪人面を操ってるヤツ! アイツら仲間じゃないのかよ。何でそんなこと」
ノエルはまるで俺の気持ちを代弁するかのように叫んだ。
しかし、テラに乗っ取られた俺は素知らぬフリをして、魔法陣だけを見つめている。
「止めろぉぉお! 来澄ィ!!」
サーベルの切っ先を向け、シバが迫る。そこに、空いていた左手を向ける俺。バンと空気が弾ける。シバの身体が宙に舞う、転がる。
「シバ!」
駆け寄るジーク。呻くシバ。
「小さいころ、サーシャに聞いたことがあった。レグルノーラに伝わる昔話」
涙ながらに、美桜は淡々と話し始める。
「『むかしむかし、とても悪い竜がいて、その竜と戦うためにリアレイトからやってきた勇敢な若者がいた。彼は竜と身体を一つにし、赤い石を持って悪い竜に立ち向かった。悪い竜は世界を呑み込むほど強い力を持っていたが、若者の世界を救おうという心には勝てなかった。遂に悪い竜は砂漠の果てへと逃げ、レグルノーラには平和が訪れた。しかし、その後若者の姿を見たものは誰も居ない』――あなたが竜と同化しながら戦うのだと知ったとき、私はこの昔話を思い出していた。こんな話、ずっと忘れてたのに。あなたがもしその若者で、彼と同化した竜がシンなのだとしたら。そして私たちがあなたのことを全部忘れてしまったとしたら、この昔話のまんまになってしまうじゃない。そんなの嫌。絶対に……、嫌……!」
急激に膨れあがった美桜の感情が巨大な波動を生み出していたのに気付いたのは、それがテラの魔法陣に到達したときだった。
赤黒の魔法陣はその殆どの文字を光らせていたのに、彼女から発せられた強力な波動に押しやられ粉々に砕け散った。
あまりの衝撃に流石のテラも驚いたのか、手を止めて顔を覆い、両足で必死に踏ん張っている。腕と腕の隙間から、風圧に押され飛ばされる人、飛ばされぬよう堪える人、地面に伏す人々の姿が目に入った。
嵐、と表現するのが妥当なのだろうか。
彼女を中心に、様々なものが吹き飛ばされた。
風が止み、ゆっくりと腕を下ろしたとき、美桜は俺の真ん前に立っていた。自分が何をしたのかも理解していないような無垢な顔で、じっと俺の顔を見つめている。俺の顔に手を伸ばし、頬を撫でる。
「何……、コレ。どうして“救世主”なんて呼ばれてるのよ。私が望んだのは、こんなんじゃない。私はあなたと二人で世界を救いたかったのに」
手が、冷たい。そして、微かに震えている。
「不器用で、無鉄砲で、真っ直ぐで。そういうところに惹かれていた。凌を返して。返してよ……」
久々に見る美桜は、なんだかとても小さい。
「それはできない相談だな」
と、俺の声でテラが言う。
「君が全力で阻止するなら、私は君を全力で倒さなければならなくる」
「シンなんでしょ……? 凌の中に入ってるのは。どうしてそんなこと言うの? あんなに優しかったのに……」
俺の胸元をギュッと掴み、美桜はまた涙を落とした。
心なしか、それまで張りつめていた空気が少し緩んだ。
「場所を……変えよう。ここでは話しにくい」
俺の声に反応し、モニカが、
「はい」
と立ち上がった。
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転移魔法で橙の館のリビングに戻った俺たちは、まだ緊張の中にいた。
昨晩ノエルがめちゃめちゃに壊した掃き出し窓や室内の装飾品は、魔法でどうにかしたのか修復され定位置に戻っていた。
日没が迫り、辺りは薄暗くなってきていた。
初めての転移魔法に面食らい、須川が軽い吐き気を催した以外は脱落者もなく、関係者が一通り館に集う事態になった。俺、美桜、ジーク、シバ、須川、そしてモニカとノエル。俺を操るテラも入れれば八人が顔を合わせるのは初めてのことだった。
モニカは不安を前面に出して俺と美桜を交互に見つめながら、ソファの上で具合の悪い須川の頭を膝に乗せ、濡れタオルで彼女の肌を優しく拭いていた。
俺と美桜はリビングの中央で見つめ合うようにして距離を取り、互いの気持ちを探っていた。
壁に寄りかかり、こちらの様子をうかがうジーク。
やはり傷が深く、自立の難しいシバは、ソファの空いているスペースに身体を預け、青白い顔で天井を見ている。
ノエルは落ち着かず、窓際で外を眺めてみたり、かと思えば室内を右往左往したりしている。
最初に声を上げたのはノエルだった。
「いつになったら元に戻るつもりだよ。複雑過ぎるだろ。中身と身体がちぐはぐだなんて」
ノエルはかなり苛立っていた。昨日あんなにやり合って、協会やその帰り道に更にいろいろあって、混乱しているに違いない。頭を搔きむしり、身振り手振りで自分の感情を周囲に伝えようとしていた。
「さっきも話したが、私はこの身体を手放すわけにはいかないのだ。君の気持ちもわからなくはないが、 付き合いも浅い、最初からこういう人物だったと諦めてはくれないか」
テラはノエルの納得とは程遠い考えを示した。
本当にこのまま、俺として過ごすつもりなのだろうか。
「そこの二人にはそれで済むかもしれないが、僕たちは納得しないよ。凌の中にいるのがあのときの彼だとしても、だ」
そう言ったのはジークだった。
テラとは一度面識があった。ジークの家に美桜や芝山と飛んだときだ。
「だからこそ、魔法で記憶を消そうと思ったのだ。君たちが私の考えに納得するとは到底思えないからな。残念ながら私単体では魔法を操れない。凌の身体を使えば魔法も武器も出したい放題なのだから利用しているまで」
テラが俺の声で言うと、美桜はギリリと奥歯を鳴らして俺を睨みつけた。
「美桜、残念だが私の考えは簡単には変わらない。今は身体の中で必死に抵抗しようとしているようだが、いずれ凌も私の考えを受け入れるだろう。これは、君の語った昔話と深く関わりのあることなのだ」
「どういうこと……? まさか、悪い竜と戦うつもりだってこと……?」
美桜の眉がピクリと動いた。
「全ての元凶はかの竜、ドレグ・ルゴラにある。魔物が凶暴化しているのも、悪魔が多く干渉してくるのも、この世界が雲に覆われているのも、だ。そのためには力が必要だ。竜と同化して戦える干渉者の力が」
「だけど、それはあくまで昔話で」
「違うんだ、美桜。昔話じゃない」
俺はゆっくりと首を横に振る。
「凌と同化して二つの世界の間を通ったとき、私の封印されていた記憶が蘇った。遥か昔、私はある若者と共に、かの竜と戦ったのだ。つまり、昔話に登場する竜は私。他所の世界の人間と同化しようだなんて竜はそうそう存在しないのだよ」
やっぱり。
やっぱりそうなのか。
どうしてそれを教えてくれなかった。
「封印された記憶は、同時にある魔法を発動させる鍵となっていた。何代か前の塔の魔女が面倒な魔法をかけていたのだ。私と同化した干渉者の存在を“表”から消し去る魔法だ。不可抗力ではあったものの、私にはその魔女の意図が読み取れた。強大な力を持ってかの竜を倒せと、そのときが来たということだ。完全な同化を果たせば二度と元には戻れない。私は凌になり、凌は私となる。そうしたら、“表”にはまず戻れないだろう。ディアナもそれを知っていて凌の額に竜石を埋め込んだ。全ては二度と“表”に戻らない前提。私を完全に受け入れた時点で、凌はこうなる運命だったのだ」
な……んだって……?
おい、テラ。今、なんて。
『すまない、凌』
今更のようにテラが俺の内なる声に反応する。
『記憶を封印されていたとはいえ、君を巻き込んでしまったことを謝りたい。そして、こうなってしまったからにはドレグ・ルゴラを倒す以外私たちに道がないということも理解して欲しい。“表”の人間から記憶を消そうとしたのも、彼らとの絆をこれ以上強くして欲しくないからだ。あの凶悪な竜と戦うということは、死ぬかもしれないということ。君は“表”の全てと縁を切ってかの竜に立ち向かわなければならない。ディアナも言ったはずだ。“命を懸けてレグルノーラを守って欲しい”と。まぁ、こうなったのは様々な偶然が重なったからでもあるのだが、受け入れざるを得ないだろう?』
なんてことだ。
なんて、無茶苦茶なんだ。
俺の意思なんてどこにもない。勝手に決めて、勝手に進めて。
『君が怒るのはもっともだ。けれど、君の意思でどうこうできるような状態ではないことも理解してくれ』
理解してる。
理解してるからこそ、どうしてもっと早く、教えてくれなかったって思うわけで。
何が救世主だ。何が伝説だ。
無理やり巻き込んでおいて、やりたい放題やっておいて、理解しろ? 了承しろ? 俺は単なる操り人形だったってことじゃないか。
『操り人形ではない。君は君の意思でここに辿り着いた。これからも君は自分の意思でドレグ・ルゴラに立ち向かわなければならない』
けど。
「帆船から見えた白い竜がドレグ・ルゴラなのだとしたら、私はやはり、砂漠の果てまで行こうと思う」
シバだ。
なんて、恐ろしいことを。あのとき、あんなに止めたのに。
モニカの治癒魔法で応急処置をされているとはいえまだまだ痛む傷を庇うようにして身体を持ち上げ、シバは力強く言った。
「来澄だけに全部押しつけて、自分は何が起きていたか知りませんでしたってのは絶対に嫌だ。行方不明になったとばかり思っていたお前が全てを失う覚悟で異世界で奮闘していたなら尚更、私たちは彼を支援しなければならない。来澄の竜には悪いが、記憶を消そうとしたところで私たちは絶対に忘れたりはしない。それどころか、執着してどこまでも追いかけていく覚悟だ」
金髪美形はニヤリと不敵に笑った。本当は笑えるような気力すらないだろうに。格好付けやがって。
「僕も同意だな」
とジーク。
「テラ……だったかな。君が言ったように、凌の記憶や痕跡を全部消してしまえば、彼の命がなくなっても“表”へのダメージは少ないだろう。知らないところで知らない人が戦って死んだというのと、知り合いがどうにかなったのとでは意味合いが変わってくる。失うものが何もなければ命を賭して戦えるのではないかという気持ちもわからなくはない。けど、人間の感情ってのはそんなに単純なものじゃない。忘れたくても忘れられないことも沢山ある。苦しみや悲しみは乗り越えるためにあるんだ。現実から目を背けるのは逃げること。魔法でどうにかしようとしても、僕たちは絶対に忘れたりはしないだろう」
厳しい顔をこちらに向け、ジークは淡々と語った。
悔しいかな、感情が表せればこの気持ちを伝えられるのに。
フンッとテラは鼻で息をして、クスクスと笑い出した。
「何がおかしい」
とジークが返す。
「とんだ愚か者だな。どいつもこいつも。かの竜の恐ろしさとこれから起きる本当の恐怖がどんなものか理解していない証拠だ。中途半端な強さで立ち向かっても、かの竜には通じない。必要なのは、文字通り命懸けて戦えるのかということだ。レグルノーラの人間ならいざ知らず、“表”のガキどもがいくら喚いても意味がない。この世界に足を突っ込んだ程度の覚悟は不要なのだ」
その場にいる全員を見下すようにして、俺の声は言った。
「じゃあ、どうすればその覚悟を信じてもらえる?」
シバが息苦しそうに言うと、テラは少し思案して、
「そうだな」
と言った後、
「ならば私をこの身体から引きずり出して見せろ。それが無理なら、私を倒してみせたのなら、君たちの覚悟を本物だと信じよう」
無茶だ。そんな無理難題。
しかし、ジークとシバはそうは思っていないらしい。
二人とも身体を起こして腕を鳴らし、肩を回して、
「いいんだな」
「望むところだ」
完全に判断を誤っている。
「馬鹿かお前ら!」
止めに入ったのはノエル。
「この悪人面の強さがわかってないからそんな軽々しいことを言えるんだ! しかも竜が乗っ取ったこの状態は最強だ。普通の人間じゃ絶対に勝てない。要するに諦めろと言ってるんだよ、コイツは! それぐらいちゃんとわかれよ、大人だろ!」
一番冷静なのが一番年下のノエルだなんて。
みんな、どうにかしてる。
「いいか、表の干渉者共。そういう口先だけの覚悟なんてオレたちは必要としていない。だから、悔しいけど悪人面を乗っ取ったこの竜の言い分もわからなくはない。逃げ道や隠れ場所があるならこんなに追い込まれてない。そういうことだろ?」
頭をクシャクシャと掻きむしるノエル。
テラはその通りだと俺の身体で何度かうなずき、その上でグルッと周囲を見渡した。
「私が内側に引っ込んだところで、状況は変わらない。ここに居る全ての人間が目的を同じくしたとして、果たして、かの竜に敵うかどうか。今日のところはその友情とやらに免じて身体を返してやろう。だが、凌の力だけでは対処できなくなった場合、私はいつでもこうして表に出て凌に成り代わる。……いいな?」
固唾を呑んでそれぞれうなずくと、テラはニヤリと俺の顔で笑った。
目を閉じる。
次に目を開けたとき――、俺は自分の意思で身体が動いていることに気が付いた。手を握る、開く。瞬きをする。全体を見渡す。息を吐く。
「戻った……のか?」
とシバ。
「あ、ああ」
軽くうなずいてみせると、皆ホッとしたように表情を緩めた。
モニカの膝の上で須川が泣いている。モニカも、両手で顔を覆い、背中を丸めて震えている。
美桜は……、強く握りしめた拳を肩の高さまで振り上げ、それを俺の方に……突き出そうとして、力尽きた。俺の胸に頭を押しつけ、そのまま背中に両手を回した。
「馬鹿」
声が、濁っていた。
「馬鹿。馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿。……最低。そして、おかえり」
華奢な肩が震えていた。
俺はそっと、美桜の頭を撫でた。
「ごめん。そして、ただいま」