85.地下牢の孤独
「む、無理……? どういう意味だよ。この世界にはディアナの右に出るようなヤツは居ないんだろ。となれば、その強大な力で俺とテラを引き剥がすことだって」
「――できないものはできない。私は嘘は言わない」
ディアナの声が牢屋に響く。
それはまるで、幼子に言い聞かせるような優しい言い方だったが、とても重々しく俺の心臓に突き刺さった。
「人間と竜の同化だなんて初めて見たと言った。どのような方法なのか想像も付かない事象について解決できるような力を、私は持ち合わせていない。もし仮に失敗でもしたら、お前は二度と元には戻れないだろうし、それによってこの世界がどうなってしまうのか、“表”にどんな影響を与えるのかもわからない状態で、簡単に引き受けることはできない」
“二度と、元には”――。
ゾクゾクッと、悪寒が走った。
つまり、このままずっと。それは困る。
「もうひとつ。どういうわけか、お前の身体は今完全にレグルノーラにある。通常干渉者は意識を飛ばして別世界で身体を実体化させる方法で干渉を行うのだが、今回は本体ごと転移してしまったようだ。つまり、“表”から完全に消滅してしまった、といえばわかるか? 要するに、お前は今、“表”では“行方不明の状態”ということになる」
……行方、不明。
ニュースでしか聞かないような言葉。
あの転移魔法で、俺は自分の身体ごと全部レグルノーラへ飛ばしてしまったって、そういうこと……?
「転移魔法の失敗? 俺はあのとき、リザードマンだけ送るつもりで。でも、巻き込まれたとして、本体は“表”に残るんじゃないかと」
「それはお前の呪文の刻み方にも寄るだろうが、原因があるとすれば“同化”の方かもしれない。大体、竜を“表”に召喚して同化するだなんて、そんな無茶、今まで誰もやったことがなかったに違いない。何が起こるか想像も付かないのだぞ。どうしてお前はそれを躊躇なくやってのける」
「それは――」
言葉に詰まる。
後先考えていたら、あのリザードマンをどうにかできていただろうか。結局逃してしまったが、あの場でどうにかしなかったら、俺たちは完全に負けていた。確か、古賀は俺たちみんなをあそこに集めて、かの竜の方へ取り込もうとしていたはずだ。俺と美桜、陣はともかくとして、古賀を先生と慕っていた芝山や何も知らない須川はどうなっていたか。そう思えばこそ、あんな無茶をした。
「ひとつ、聞く。何故お前は半竜人を庇った」
人差し指を立て、ディアナは眉間にシワを寄せた。
「中身が……、“表”の人間だったから」
「それで?」
「“表”の人間にリザードマンが入り込んで変身しているだけだって知らされたから。ヤツが死ねば、乗っ取られた人間も死ぬ。そうしたら“表”で大変なことが起きる。それだけは避けなければいけないと、そう……思って」
「心臓は、痛まなかったのだな」
「ああ」
当たり前だ。レグルノーラを裏切る行為をしただけで死に至るような呪いをかけられておきながら、そんな恐ろしいことできるわけがない。
ふぅんとディアナは深く息を吐き、ゆっくりと人差し指を下ろした。それから豊満な胸の前でいつものように腕を組む。
「悪いが、少しだけ時間をもらおうか。私も経験したことがない状況に、対策方法が思い浮かばない。色々文献を漁ってみよう。竜と同化なんていう無茶な戦い方をした先の干渉者について何かわかれば、引き剥がし方も自ずと出てくるだろう」
「す……少しってどれくらい? せめてここからは出してもらえるんだろ?」
鉄格子にしがみついたまま訴える。しかし、
「ダメだな。しばらくはそこに居ろ」
「え……」
「外に出たらまたあらぬ疑いをかけられるぞ。これは私の優しさだ。飯は運んでやる。排泄にはそこの桶でも使っていろ。嫌ならさっさと分離するなりして元の人間の姿に戻るのだな。あ、そうそう。この地下牢は許可された者以外魔法を使えない仕様だから、余計なことは考えないように」
「え、ちょ、ちょっと待って。え? ええ?!」
ランタンの明かりが動いた。
ディアナは赤いドレスを翻し、そのままクルッときびすを返した。同行の数人も一緒に闇の中へと消えていく。
突き放された。
お手上げだと突き放された。
ランタンの明かりが完全に消え、また薄暗い空間に取り残される。
冗談にしてはキツすぎる。
なんだよ『排泄にはそこの桶でも』って。完全に囚人扱いかよ。
どうにかできるなら、どうにかしている。
最悪だ。
なんでこう、色々とどうしようもない方向にばかり動いていくんだ……。
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薄暗く冷たい空間にまた一人取り残されてしまった。
窓のない四角い牢は、只そこに居るだけで体力も精神力も奪っていく。
目が慣れ、辺りをゆっくり見まわすが、ディアナの言った排泄用の木桶が一つ隅っこにあるくらいで、後は何も見当たらない。ゴザの一つすら敷かれていない、
長い間閉じ込められていると気がおかしくなることもあると聞くし、確かにどうにかしなくてはならない。このままではいつまでも家畜以下の扱いのままだ。
けど、どうやって分離させる。普段はテラが勝手に離れるだけなのに、意識的に追い出すようにでもしなきゃダメだってこと?
地べたに胡座を掻いて、ああでもないこうでもない考えてみる。
金色の竜を自分の身体から後ろに向けて引っ張るようイメージしてみたり、眠ってるだろうテラを往復ビンタでたたき起こしているところをイメージしてみたり。
しかし、効果がない。
分離自体を諦めるべきなのか。となれば、諦めて自分の容姿だけ変えてみるとか。
頭の先から足の先まで竜化したのはこれが初めてだ。いつもは身体の一部だけだが、リザードマンを止めるのに、どうしても力が必要だった。竜化して体力の底上げを図ったわけだ。今は戦闘も終わり、竜化の必要性はなくなっている。むしろ人間の姿に戻らないと、ヤツらの仲間だと思われてしまう。
これだって、テラと意思疎通できれば簡単なのに。一体どうして声が聞こえない。
考えても考えても、事態は一向に変わらなかった。
言いようのない不安に襲われる。
ディアナに言われた言葉が、更に不安を煽る。
――『お前は今、“表”では“行方不明の状態”』
あのあと、どうなっているんだろうか。
リザードマンを羽交い締めにしたまま魔法陣で消えてしまった俺のことを、美桜や芝山、須川は探しているのだろうか。
まんまと逃げたリザードマンは、再び古賀明の姿になって公民館に戻り、昼飯を奢ったりパフェを奢ったりしているのだろうか。
――『止めて! 凌! そんなことしたら……!』
転移間際に美桜が叫んだ。彼女はもしかして、こうなると知っていたのか。知っていて、必死に俺を止めていたのか。
だとしたら、ものすごく悪いことをした。もっと話をきちんと聞くべきだったし、きちんと話し合うべきだった。
けど、あのときはもう、とにかく暴走するリザードマンを止めなければとそればっかりで、俺には周囲が全く見えていなかった。
帰れるのだろうか。
分離できるのだろうか。
時間だけが過ぎていく。
今は何時? 昼か、夜か。
飯は運ばれてくるが、味気ない。こんな所で美味そうに食えるはずもない。
頼むぜ、ディアナ。どうにかして方法を、探ってくれ。
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吉報はなかなか来なかった。
その代わり、余計な輩も全然来なかった。
飯と便所の世話に男が一人、交替で来るくらいで、ディアナさえ姿を現さない。
偶に表れる数人さえ、俺のことを憐れんだ目で見て、用事を済ませたらさっさと去って行く。会話なんてこっちからは絶対にしないし、目も合わせない。その方が、お互い変な気を遣わなくて済むんじゃないかとも思うくらいだ。
テラの声も、相変わらず聞こえない。
孤独で長い時間が更に続いた。
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事態が動いたのは、何日目かの食事時だった。
今まで一向に口を聞かなかった男が、飯をかき込む俺にこう言ったのだ。
「ディアナ様が、後で来るそうです。何やら朗報のようですよ」
思わず顔を上げ男の顔を見ると、彼は安心したような顔でこちらを見つめている。
「ここを出られるかもしれないって話していたのを聞きました。囚人でもないのに、辛かったでしょう」
目頭が熱くなった。そんな、言われるまでもない。なのに、我慢していたものがこみ上げてきてしまった。
飯は、しょっぱかった。レグルノーラの食事は日本食よりずっと塩分が控えめなのに、何故かしっかりしょっぱくて、俺はいつもより早く飯を平らげてしまった。
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飯を更に一回挟み腹も落ち着いた頃、ようやくカツンカツンとヒールの音が地下牢に響いた。待ちに待ったディアナの足音だ。
彼女はいつも高いヒールの靴を好んで履く。元々スレンダーな足が更に長く見えて目のやり場に困りそうなものだが、大抵は裾の長いドレスに隠れて殆ど見えない。スリットの部分から偶に覗く足は、胸の谷間を誇張した赤いドレスと相まって、塔の魔女の妖艶さを引き立てるのだ。
ヒールの他に、やはり何人かの革靴の足音。ランタンの明かりが近づいてくると、地下牢がほんのり明るくなった。
牢屋の真ん中に胡座を掻いて、俺はディアナを待った。
部下らしき四人の男を従え、ディアナは揚々と現れた。気に入りの赤いドレスと黒い髪、黒い肌がランタンの白い明かりに照らされ、艶っぽく光って見える。
「待たせたね」
言って彼女はニコッと笑う。
「待ちくたびれた」
それこそ、人間だったことさえ忘れてしまうほど長い時間が経過したような錯覚に陥っていた。
「待った分、良い知らせがある。私たちレグルノーラの住人にとっても願ってもみないくらいの朗報だ。それを調べるために長く時間がかかってしまったことは謝りたい」
鉄格子の向こうで、ディアナはえらく勿体ぶった。
こういう前置きのあと、期待したほどの言葉が返ってこないというのが常だ。果たして、今回はどうか。
俺は胡座のまま腕組みして、首を何度か回し、凝りをほぐした。
「そんな前置きより、さっさと答えが欲しい。要するに、テラを引き剥がす方法が見つかったかどうか。牢屋の中で何度も試したけど、やっぱり何の進展もない。テラとは同化したままだし、声も聞こえない。お手上げなんだ」
「まぁ、そう急くな」
ディアナは男の一人から分厚い本を受け取り、膝を折って鉄格子の直ぐ真ん前の床に置き、栞を挟んだページを開いて見せた。別の男がランタンをかざすと、そこにはレグルの文字がびっしりと並んでいる。挿絵もあった。金色の竜と男の絵。それから、魔法陣の絵もある。
「遙か昔、竜と同化して戦う干渉者が存在していたらしいという話は、確かに聞いたことがあった。小型の竜が人化した半竜人とはまた違う、人間と竜の融合体の様な姿をしていて、魔力も戦闘力もずば抜けていたのだそうだ。また、その干渉者は同化したまま二つの世界を自由に行き来する力を持っていたという。実際、記録として残っているのは、かの竜が何度目かの破壊を尽くした三百年ほど前。“表”から召喚された干渉者の一人が竜と同化する方法で、かの竜を撃退したという記述がある。その後つい最近まで、かの竜は大人しくなりを潜めた。一説では、あまりの痛手に回復に時間を要してしまったのだということ。我々は、この話の一部をずっと伝説として語り継いできた。“異界からの干渉者が世界を救う”というのはすなわち、“表”の干渉者がかの竜を撃退するという意味。“悪魔”と呼ばれる存在も、結局はかの竜の力が膨れあがり、それにつられてマイナスの感情が形となって現れているのだから、そのように断言してさし支えない。この“異界の干渉者”に当てはまる人物が誰なのか、我々は長らく探し続けてきた。様々な力を持った干渉者が現れては消えていったが、あくまで一般的な干渉をするにとどまっていた。事態が一変したのは、二十年ほど前。ある一人の少女が干渉者としてこの世界へ現れるようになってからだ」
俺はハッと息を飲んだ。
「芳野美幸……」
「そう。美幸。彼女は無垢で清廉だった。眠りから覚めたかの竜は美幸に興味を持った。人間の姿に化け、巧みに取り入った。レグルノーラに衝撃が走り、混乱が起きた。あとはお前も知るところだろうが、そうして一度砂漠の果てへと逃れたかのように見えたかの竜は、最近になって頻繁に現れるようになってしまった。しかし今度は、美幸のときとは全く違う方法でアプローチしてきている。何を考えてそんな行動に出ているのか、私たちにはさっぱり想像が付かない。言えるのは、新たなる破壊が直ぐそこまで迫っているということ。それを阻止するためには、かつてかの竜を追い詰めたという伝説の干渉者と同等か、それ以上の存在となり得る人物を探し出すこと。つまりは凌、お前こそが、我々の探していた干渉者そのものだったということだ」
ディアナは力強く結論を口にした。
が……、到底受け入れられるものではない。
俺は目を左右に振って、精一杯の拒絶反応を示した。
「じょ……冗談じゃない。俺はただ、テラと引き剥がして欲しいって頼んだだけだ。そんな突拍子もないことを言って欲しくて頼んだわけじゃない。どうにかしてる。それより、引き剥がす方法を見つけてくれたんだろ」
ディアナは首を横に振る。
「残念なことに、どんなに文献を漁っても、同化した干渉者と竜を引き剥がす方法など載ってはいなかった。引き剥がす必要がないのでは、と考えたらどうだ。引き剥がす必要がないから方法がないのだとしたら? お前には秘めた力がある。美幸に初めて紹介されたあの日、私は自分の胸が異様に高鳴るのを感じていた。それはこれまで経験したどの感情よりも激しく、印象的なものだった。過去の私はお前の力を感じて未来に託した。そして今の私は、あのときの感覚を信じてお前に全てを託す。あの竜の卵を託したのはきっと偶然ではない。お前が美幸の竜を引き継ぎ、その竜がお前の中に入ることで最強の力を得るのだとしたら、これほど素晴らしいことはないではないか。かの竜に立ち向かう光明が差してきた。これは喜ばしいことなのだぞ」
迷惑な話だと、少し前の俺なら完全に突っぱねていた。救世主だの何だの、妙なことばかり言いやがってって思い切り反抗していた。
けど、けど今は――。
言われている意味がわからなくはない。つまりは、期せずして俺はそういう力を身につけていたということらしい。
レグルノーラに命を捧げる覚悟をし、美桜を守り抜く覚悟をし、それから自分の意思で竜化したまま“こっち”に飛んだ。
受動的だった過去の自分と比べれば幾分も成長しているに違いない。――それは、自分では殆どわからないし、評価しがたいものではあるが、だとしたら、そろそろこの受け入れ難い運命とやらを受け入れなければならないのではないかとさえ思い始めている。
なぜテラが出会って直ぐ同化という方法を選んだのかはわからない。彼にとってはそういう戦い方が普通なのではと思っていたのに、美幸のときはやらなかったという。
実際、深紅だったとき、ヤツはただただ美幸の側に寄り添っていた。俺と彼女、絶対的な差は性別だと信じて疑わなかったのに、テラは何か感じていたのだろうか。感じていたからこそ、主に成り立ての俺と同化したのだろうか。
主が亡くなる度に卵に還り、新たな主の出現を待つ。テラは俺にそう言った。
俺が考えるよりもきっと、ずっとずっと昔からアイツはそれを繰り返してきた。その中でまさか、かの竜を――。
いや。
考えすぎかもしれない。
まさか、この文献の挿絵にある竜がテラとそっくり、瓜二つだなんて。
金色のプテラノドン型の竜なんて、きっとこの世界にはたくさん居る。だからきっと、気のせいなのだとは思うんだけど。もし仮に――……なんてことが万が一にも。
額に手を当て、歯を食いしばった。
どうなってんだ。何がどうしてこんなことに。
混乱する。
「引……き、剥がせないのは、確定? って、ことだな」
顔が引きつる。
「代わりに、竜化を押さえる方法は見つけた。必要なときだけ竜化して戦うのが理想だろう」
「わ……かった。頼む」
じゃらんと、金属のかち合うような音がした。男の一人が持っていた鍵束を使い、牢の扉を開ける。背の低い入り口を潜り、ディアナがゆっくりと牢の中へと足を踏み入れてきた。
決して清潔とは言えない牢の床にドレスの裾を引きずって、ディアナは俺の真ん前までやってきた。そうして、俺の額にそっと手をかざす。
「痛いが少し我慢するように」
赤い魔法陣が目の前に浮かんだ。鮮烈な赤に目がくらみ、ギュッと目をつむる。
コツッと、額に何かが当たった。と同時に、激痛。まるで額にドリルで穴を開けられているような――。ディアナの手を無意識に両手で掴んで引き剥がそうとしている自分に気が付く。しかし、ディアナは止めない。
「我慢しろ」
男たちが数人、俺の手を振り解いた。動かないよう身体も腕も無理やり固定される。本能から逃れようとする俺に負けまいと、必死で止めてくる。
「もう少し」
あまりの痛みに、俺は獣のような声で叫んでいた。
「堪えろ」
わかってる。わかってるけどこの痛み、どう考えても普通じゃない。
パキッと、何かが噛み合う音がして、俺はハッと目を開けた。
息が、苦しい。身体が、痛む。
「終わったぞ」
ディアナはそう言って、胸元から小さな手鏡を取り出し、俺に投げて寄越した。
なんだよと拾い上げ、サッと自分の顔を見る。男の一人がスッと向けたランタンの光で、俺はようやく自分の姿を確認する。
肌色だ。久方ぶりの肌色。牙も角もない。
身体全体が軽い。背中の羽の感触も、尾の感触もない。戦い始めてから少しだけ筋肉の付いた胸板がチラッと鏡に映った。
「よかった……ありがとう」
言ってからふと気になった。額に何かある。
縦長の赤いもの。
触ろうと手を伸ばすと、ビクッと額が反応して、慌てて手を離した。
「竜石だ。お前の竜の瞳と同じ赤い石。お前の脳と繋がっているから、第三の目として役に立つはず」
「は……?」
アーモンド大の縦長の石はピッタリと張り付いて、とても自力で取れる状態ではなくなっていた。それどころか、あたかもも最初からそこにあったかのように、しっくりと額の真ん中に収まっていた。