73.補助魔法の効果
切羽詰まっていた。
アレはどんな場面でも有効なのか?
補助、と言うからには、それ単体では殆ど機能を発揮しない。戦おうとする能力者にかければ戦闘力を、防御しようとする能力者にかければ防御力が上がる。とすれば、空間を塞ごうとしている時に補助魔法をかけてやれば効率が良くなる……? その程度の考えだった。
濃い緑色の光を纏った魔法陣の中心から、ヌッと何かが顔を出す。竜だ。緑色の光に縁取られた透明な小型の首長竜が勢いよく飛び出し、美桜に向かう。
「キャッ……!」
短く悲鳴を上げ、美桜が一瞬怯むと、塞がりかけていた空間が一瞬広がったように見えた。
透明な竜はガバッと口を開け、そのまま美桜の胴体へと突っ込んでいく。魔法陣から美桜へ、竜の身体を通り抜けて力が注がれる。その勢いは半端なく、俺の残された体力全てを奪ってしまうほど――あの“キス”のように、強烈なものだった。
竜の尾が最後にスルッと美桜の中に吸い込まれて消えた。
俺はもうグッタリして、立っているのがやっと。
美桜を見る。ああ、やっと気が付いてくれた。俺が彼女に力を分け与えたことに。
美桜の魔法陣の光が強くなる。勢いづいた魔法の力で、どんどん空間が塞がれていく。
度肝を抜かれたような顔をしているのはジーク。後で追求されるんだろうな。アレは何だと。どう、釈明すべきか。
やがて真っ黒い空間は完全に塞がれた。
魔法を解き、満身創痍の俺たちは、各々床にへたり込んだ。
「やったな」
ジークはそう言って、美桜の肩をトンと叩いた。
「でも、まだ。もう一踏ん張り」
グルッと部屋を見まわすが、言うに及ばず悲惨な状況だ。
床には黒いベタベタしたあの空間の残骸が残っている。骸骨兵の骨や、傷ついた家具、魔法戦で焼け焦げた壁紙なんかも、どうにかする必要がある。
「手伝って」
美桜に言われたが、俺にはそんな力、全然残ってない。軽く手は上げたものの、それ以上身動きすら取れない始末だ。
汚れた床にごろんと転がり、薄目を開けた状態で二人を見ていた。
再び立ち上がった美桜が魔法陣を描く。ジークがそこに杖をかざして、一緒に魔法陣を発動させる。まばゆい光を放つ魔法陣、様々な物が、一つずつ確実に元に戻ってゆく。壁紙も、家具も、床も、どんどん、どんどん。
あの補助魔法が効いたのか、美桜にはまだ余力があったらしい。
凄い。
確実に、効果はある魔法だったんだ。出所が不穏だが、物は試しと思ってやってみたのが上手くいったようだ。
「鎧くらい脱ぎなさいよ」
パンと弾けるように鎧が消え、視界が広がった。ドシリと床に落ちたような感覚があって、初めて、そういや慣れない鋼の重たい鎧を着ていたんだということに気付いた。
俺には、自分の装備を解く力すら残っていなかった。
立ちなさいと言われて無理やり身体を起こすが、身体中ギシギシいうし、倦怠感が酷くてクラクラする。最近、戦闘というと限界を超えた状態になるような気がしてならない。
そんな俺を見かねたのか、美桜は屈んで手のひらで軽く俺の腹に触れた。桃色の淡い光が広がって、身体の隅まで血液が行き渡るようなイメージが頭に浮かんだ。どうやら、少しだけ体力が回復したらしい。心なしか、身体が軽くなった。
「あり……がと」
今までどんな窮地に陥っても、俺に気遣いなんて殆どしてくれたことはなかったのに。
美桜は俺のお礼には無反応で、すっくと立ち上がった。ジークもそれに続き、俺も家具に手をかけながら何とか立ち上がる。
可愛い花柄が印象的な少女趣味の部屋に、俺たちは居た。
私服のワンピースを着た美桜、ジーンズ姿のジーク、それに、制服の俺。ま、若干一名場にそぐわぬ気もするが、何もかも、すっかり元通りだ。
ここはマンションだし、あれだけ騒いで階下や両隣への影響はなかったんだろうかとか、そういう余計なことにばかり気が行く。けど、そんなことより本当に気にするべきなのは、もっと別のこと。
この世が終わったような顔で、美桜はフラフラと廊下へ進んだ。
待っていたのは家政婦の飯田さん。ジークの言いつけを守って、じっと結界の外で様子を覗っていたのだ。
「ごめんなさい」
美桜は飯田さんの前でゆっくりと頭を垂れた。
飯田さんは何も言わない。
言わないで、ただそっと、美桜に手を伸ばす。そうして、両手でギュッと美桜を抱き寄せ、そのまま背中をトントンと軽く叩いた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
消え入りそうな声。泣いているのか、途中から声が詰まる。
それでも、飯田さんは何も言わない。
美桜より少し背の小さな飯田さんは、赤子をあやすように、何度も何度も背中を擦っていた。
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余計なことは言わない方がいいだろう。俺にだってそのくらいわかった。
だから、ジークが口出ししようとするのを無理やり止めて、美桜の部屋を後にした。
美桜は、飯田さんに自分のことをある程度喋らなきゃならないところまで来ていたんだ。今日のことがあって、実は内心ホッとしているかもしれない。今までずっと隠し通してきたことをようやく話せるんだから。
自分のことじゃないだけに無責任な発言になるのは承知の上で、俺はそんなことを考えた。
「とはいえ、部外者に喋る必要は無いと思うけど」
エレベーターの中で陣郁馬の姿に戻ったジークがぼやいた。
「部外者じゃないよ、飯田さんは」
だけど彼には、きっとこの意味が理解できない。
美桜がどれだけ飯田さんを頼り、飯田さんを信頼して生きてきたのか考えたら、寧ろ今まで何故喋らなかったんだって思ってしまう。
わかるよ。心配、かけたくなかったんだよな。
俺もだけど、家族には言いたくない。自分がこんなにも妙なことに巻き込まれ、逃げ場のない状態で戦っているだなんて口が裂けても言えないし、言うつもりもない。普通の高校生活を送っている、そう思わせたい気持ちが先行する。だから、美桜の気持ちも痛いほどわかる。
それでも、いずれ話さなくちゃならなかった。
美桜の母・美幸のことだって――、きっと親身に支えていただろう飯田さんには辛すぎる、理解しかねることかもしれないけれど。あの母子の側に居続けた飯田さんだからこそ、知るべきなんじゃないだろうか。
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エレベーターから降りてエントランスホールまで戻ってくると、外はすっかり真っ暗になってしまっていた。どれくらいの時間が経過していたのか、確認する余裕すらなかった。勢いは収まってきたようだが、雨もまだ降り続いていて、何となく陰鬱な気分になる。
「この後は直帰?」
ふいに陣が言った。
「天気も天気だし、どこにも寄らずに帰るよ。陣もそろそろ“向こう”に戻るんだろ。結構疲れたし、早めに休むのが吉だよな」
俺は傘立てから傘を抜いて何気なく答えた。
まだ乾ききっていない傘から、数滴雨粒が垂れた。
「例えばさ、この自動ドアを抜けたら自分の家だって考えてみたら、凌は現実になると思う?」
「ハァ?」
陣はガラス製の自動ドアの前、自分の身体がセンサーに反応しないギリギリ手前で俺に尋ねた。
「魔法陣もなく武装したり、濡れた服を乾かしてみたり。最近急激に力を使いこなせるようになっただろ。もしかして、そんなことができたりするのかなって。どう? 試してみる価値はあると思うけど」
つまりは俺に瞬間移動しろと。転移魔法を魔法陣使わずにやってみろよと言ってるわけだ。しかも“表”で。魔法を“表”で使えること自体、不自然だし、あり得ないことだってのに、わけのわからないことを。
喋っている内容は突拍子もないが、陣はつとめて冷静だ。いつになく真剣な眼差しを向けてくる。
「もし成功できたら、雨に濡れず帰れる」
それもそうか。
俺はできる確証もないのに、何故か納得してしまった。
確かに。ゼロタイムで帰れれば天気なんか気にしなくてもいいわけで。行きたい場所をイメージするだけでパッとたどり着けるなら、例えば遅刻しそうなとき教室をイメージしたら間に合っちゃうとか、行かなきゃいけない場所がものすごく遠かったときに交通費なしで行けたりとか、そういうことが可能になる……? ま、実際に魔法陣を使って移動魔法を発動したら、美桜のマンションまでひとっ飛びできた。これを魔法陣なしでできるようになれば、日常生活でも役に立ちそうな予感がしなくもない。
けど、いくら干渉者でもそんな風に簡単に魔法が使えるのか? あんな立ち回りした後で、心身共にぐったりだってのに。
「やる? やらない?」
「ん~、気は進まないけど、やるだけやってみるか?」
陣の口車にまんまと乗せられてしまったような気がするが、成り行きだ、致し方あるまい。
「じゃ、掴まってるからやってみて」
馴れ馴れしく左肩に手を乗せ、早くしろと急かしてくる。
渋々と俺は自動ドアに向かって歩き始めた。傘の柄を握る手にも力が入る。
自宅の玄関先を強くイメージする。自動ドアを抜けた先には、雨の降りしきる外ではなく、俺んちの玄関。こぢんまりとした小さな下駄箱の上には季節の造花。花は好きだけど時間がなくて生けられないからと、母親が百円ショップで買ったのを剣山に刺して飾ったのだ。いつも外履き用の婦人サンダルが玄関の隅にちょこんとあって、それは近所に回覧板を届けに行ったり、庭先を掃除したりするときの母専用のもの。くたびれたゴルフバッグが玄関の隅に立てかけられているのは、確か昔、景気の良かった頃に父が接待で使ってたヤツ。今はゴルフクラブを握ることもなくなって、存在を忘れたようになってしまってる。玄関マットはしばらく新調してなくて、ちょっと色がくすんだ花模様で、玄関から見える台所の入り口には色褪せたレースののれんがかけてある。壁には押し花が額に入れて飾られているけれど、それは死んだばあちゃんの趣味の産物で、父が形見分けでもらった物。
“イメージを具現化できる”なんて、初めこそ絵空事だと思っていたが、最近は何でも思い浮かべた通りに物を出現させたり、消したりできるようになった。“表”でさえ、様々なトラブルが起きるようになって、力の必要性がぐんと増した。
そんな中、もし仮に、思い浮かべた場所に魔法陣なしで瞬時に飛ぶことができたなら、どれだけ役に立つか。
一歩一歩自動ドアに近づく。
さあ、そこをくぐり抜けたならば――。
□■━━━━━・・・・・‥‥‥………
「あれ? 今玄関開いた?」
母親の声がした。
よりによって玄関の上がり口で、母と遭遇した。
俺と同じで傘を忘れてしまっていたんだろうか、上から下までびちょびちょだった。パートに行くときにいつも持ち歩いているバッグは、胸に抱えていたのかそれほど濡れた様子はなかったが、気に入りの靴は雨で色が変わってしまっていた。
不幸中の幸いか、母は玄関扉を背にして荷物を置いていたところで、俺たちはその背後に現れてしまったようだ。ハンカチで気になる部分の雨粒を拭き取って、上着を脱いでいたため、玄関ドアの音を聞き逃したと勘違いしてくれたらしい。
「あ、うん、ただいま」
「あら珍しい。お友達?」
「じ、陣です、陣郁馬。初めまして」
当たり障りのない挨拶をして誤魔化す。このタイミングには流石の陣も焦ったか、少し声にどもりがあった。
「天気予報見とけば良かった。あんたは傘ちゃんと持ってったのね。あ~あ、失敗した。凌、ちょっと先に上がってタオル持ってきてくれない?」
濡れてないことに対してどう思われるか心配したが、そこは何とかクリアしたようだ。
狭い玄関口、母親の隣を通り過ぎて洗面所へ行き、タオルを持ってくる。
「はい」
と渡して、そのまま二階へ上がろうとすると、陣も、
「おじゃまします」
と上がってきて、俺はそこで初めて陣にしてやられたと後悔した。
コイツは最初から俺の家に上がり込もうとしてあんな提案をしたのだ。恐らくは俺に色々根掘り葉掘り聞くつもりで。
しまった……。疲れていたからとはいえ、少し考えればわかることだったのに。
渋々部屋に入れ、陣の顔を見ると、予想通り凄まじく気持ちの悪い笑い方をしてこっちを見ていた。
「いやぁ~、やっぱりすごいね。できちゃうんだもんな。ディアナ様が認めただけある」
腕組みをして俺の部屋の中グルッと見まわして。
最悪だ。
「お母さん綺麗な人だね。凌は母親似?」
「――そんなのはどうだっていい。どういうつもりだよ、ここまで付いて来て」
「どういうもこういうも、君が移動魔法を使いこなせるのかどうか確認したまでじゃないか。あんなに戦った後でもちゃんと力が使えるなんて、君の成長っぷりは見ていて楽しいよ」
ドカッと椅子に腰を下ろし、足まで組んで。癪に障る。
「協会にきちんと査定してもらえば、結構高いランクが付与されるんじゃないかと思うよ。ま、“こっち”じゃ殆ど価値がないし、“向こう”でも気にしてる人は少ないけど。自分の力を知る意味で査定してもらう人が多いかな。こっちで言う何とか検定みたいなヤツなんだけど、凌は興味ある?」
「ない。そんなことより、何が目的だ。用事がないならさっさと帰れよな」
「つれないなぁ。これだけの力があるんだから、もっとレグルノーラに興味を持ってもいいのに、君はいつまでも自分の立場を崩さない。仕方ない。本題だ。……あの魔法、誰から教わった」
声のトーンが変わった。
やっぱり、そうきたな。
当然、言われると思っていた。だから答えはある程度用意している。
「“向こう”で出会った干渉者の一人に聞いた。相手の力を増幅させる補助魔法、だとか。それを、試してみた」
半分本当で、半分嘘だ。
かの竜はあのとき、“キース”と名乗り、干渉者としてキャンプに合流していた。俺は最初からその正体がかの竜である前提で接触していたわけだが。
「教わった……? だから君の魔法らしくないと感じたのか。今はあまり主流じゃないが、旧時代には、ある程度魔法陣に書き込む文字は固定されていたと聞く。同じ言葉を書き込むことで、確実に魔法を発動させる効果と、魔法効果をブレさせない意味があったらしい。だから過去の文献には今は使用されていない魔法陣の図がたくさん載っていて、それを専門に研究している学者もいるんだ。ディアナ様に僕が魔法を教わったときは、既に自分のイメージを確実にするための魔法陣という、新しい方法が主流になっていたから、使ったことはないんだけど……、あれ、本当にただの補助魔法、なんだよね?」
「ど、どうして?」
「いや……、補助魔法の色に違いはなかったんだけど、今まで見てきた魔法効果とは全く異なるというかなんと言うべきか。普通じゃない気がした、と言えば良いのかな。……その“干渉者”は、信頼すべき人物だったのかい」
陣が首を傾げた。
『信頼すべき』? そんなわけない。信頼なんかしてはいけない、寧ろ接触すらすべきではない相手。
ただ、美桜に近い、美桜のことをよく分かっているだろう相手でもある。
だから、あの魔法が頭をよぎったりしなければ、決して使おうとは思わなかった。
「実力においては……、右に出る者はいない、と思った」
陣から目を逸らした。
これ以上見ていたら、言いたくないことまで喋らされそうな気がしたから。
「臭いな」
苦笑いせざるを得ない。
俺は口を噤んだ。
「君が“向こう”でどう動こうと勝手だが、きちんと相手を見る目を持たないと、えらい目に遭うよ」
陣の言葉は、グサグサと俺の心に突き刺さった。