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65.キス

 桃色のカーテンを通して注ぐ夕日が幻想を見せているのだろうか。小さな花柄の溢れる美桜の部屋は、ただでさえいい香りがして、ロマンチックで。ベッドに横たわる彼女の顔はまだ苦しそうなのに、俺はいけないことばかり考えてしまう。


「いい……のか」


 顔が強張る。

 うなずく代わりに、眼鏡の向こうで瞬きして意思を伝えてくる美桜。

 短い吐息の漏れる唇が、妙に潤って見える。

 渇いた喉に思いっきり唾を流し込んで、俺はゆっくりベッドの縁に両手を付いた。

 美桜の顔が、近い。

 ど、どうすりゃいいんだ。

 この後。目は、閉じる? それとも重なる直前まで開いてていいの? 距離感がわからない。

 徐々に顔を近づける。俺の心臓が耳の奥で激しくドラムを叩いている。

 唇を唾で潤して、もう一度唾を飲み込んだ。

 いい、んだよな。本当に。

 ――美桜の左手が俺の後頭部までグイッと伸びて、俺は思いっきり前のめりになった。美桜の胸の真上に体が覆い被さる。目を瞑る。唇に柔らかい物が押し当たる。鼻に当たるのは……美桜の、眼鏡?

 え? これがキ……。

 閉じていた唇を、美桜が無理やり舌でこじ開けてくる。え? え?

 あれ? 思っていたのと違う。

 美桜は俺の首根っこに両手で思いっきり力をかけた。唇と唇は確かに重なっているし、舌まで使ってくるというのに、アレ? 何故か全然エロい気持ちにならない。どちらかというと、無理やり唇と唇を合わせているというか。何コレ。どんなプレイ。

 急激に魂が掃除機に吸い取られるようなイメージが頭に浮かんだ。俺の体がどんどん削られて、美桜に取り込まれていくような、そんなイメージだ。俺の中の魔力が互いの口を通して美桜に吸い込まれていく。そして心なしか、美桜の力が徐々に増しているような。


「……って、離し……。ええいっ!」


 俺は慌てて美桜から体を引き剥がした。

 口に付いた唾液を袖で拭いながらベッドから飛び降りると、美桜が半身を起こして不機嫌そうな顔を向けているのが見えた。


「何してんだよ。キスって……、こんなの全然キスじゃないだろ」


「……そうかしら」


 何がそうかしらだ。

 美桜のヤツめ、いつものツンツンに戻ってやがる。それどころか体力まで回復しているらしく、さっきまでの息苦しそうな顔はすっかり消えていた。


「唇と唇を合わせたんだもの。キス、したってことじゃないの」


「いや、そうじゃなくて」


「物足りなかった? こういうの慣れてないから、どうやったらすんなりキスさせてもらえるのかわからなくて。もうちょっと我慢してくれたら、もっとしっかり吸い取れたのに」


 ……吸い取れたのに。

 美桜は面白くなさそうな顔をして肩の力を抜き、眼鏡の位置を直してふぅと長めに息を吐いた。


「俺から、力、吸ってたのか」


「そうよ。瀕死のときにしかやらない方がいいらしいけど、魔力の強い人から力を分けてもらうの。口移しでね。知識として知ってただけだったから、試したのは初めて。凌の力、案外底なしだからもっと吸い取ろうと思えば吸い取れたんだけど。……どうして嫌がったの」


 つまりは、そういうことだ。やっぱり恋愛感情なんか抜きで、単に俺のことを利用して。

 期待して損した。

 確かに色々と妄想したし、唇は柔らかくて押し当てられた胸も……ブラウスは血だらけだったけど、温かくて気持ちよかった。その後のことまで妄想膨らませ、一人で舞い上がっていた自分に腹が立つ。こんなの、キスのカウントに入るわけない。人工呼吸と同レベルじゃないか。


「俺は美桜が……、普通にキスをねだったんだと思って。――ああァ! 男心のわからないヤツだな。なんだ結局、そういうことじゃないか。俺は美桜にとって便利な存在ってわけだろ。……なんか、心配して損した。案外丈夫なんだな。俺はてっきり、このまま息絶えてしまうのかと、そう思って……、気が気じゃなかったってのに!」


 頭を抱えて床にへたり込んだ。

 ホント、俺だけ馬鹿で間抜けで鈍感で。

 どれだけ美桜が孤独で我慢強いか知ってるだけに、しなくてもいいことまで心配して。

 過去の世界で美幸に言われた『美桜のこと、頼むね』のひと言が頭の中をグルグル巡って、俺はとにかく美桜のことをどうにか守らなくちゃと必死だったってのに。

 ドレグ・ルゴラのことだってそうだ。アイツの不吉な言葉がどうにも引っかかってた。 ――『いずれ影は実体化し、この世界と同様に人々を襲うこととなる』

 今回の須川の件も、もしかしたらそれと何らかの関係があるんじゃないかって、こっちは胸を掻きむしられる思いだったってのに。

 ……待てよ。

 そういえば、ドレグ・ルゴラが何か言ってた。

 補助、魔法……? だったかな。要するに、美桜の力を増幅させる魔法ってことだと思うんだが、本当にアレは有効なんだろうか。試されてるだけだとは思いたいけど、もし仮にあの魔法が有効なのだとしたら、戦い方も変わってくる。俺一人で突っ走っても力不足で空回りすることが多いことを考えると、例えば美桜にその魔法をかけてやった方が効率よく敵を倒せるようになるんじゃないのか。彼女の力は安定しているし、何より俺と違って無駄なく使いこなせている。そうしたら、今回のような悲劇も免れるのでは。

 実際使えるかどうかも怪しいし、ヤツの言うとおりの効果が出る魔法かどうかも怪しいが、試してみないことには結論は出せない。次に何かあったときに一度機会を覗って使ってみるのも悪くないんじゃないか。情報提供者がヤツなのが癪に障るが……。


「凌だから、頼んだんだけどなぁ」


 思考が遮られた。

 ハッと顔を上げる。

 ベッドの中に潜り込んでいく美桜の口から出た思いがけない言葉は、俺の頭の中を真っ白にした。


「え……。今、何て」


 美桜は頭までタオルケットを被って、俺に背を向ける。


「だって、他に頼める人、いないじゃない」


 俺には確かにそう聞こえた。


「……ありがと」


「あ、ああ」


 美桜はそれっきり、何も喋らなかった。

 すっかり疲れてしまったらしく、気が付くと小さな寝息を立てていた。

 俺はそっと寝顔を確認しようとしたが、長い髪の毛に隠れてよく見えない。ただ、眼鏡だけはかけっぱなしで寝るなよとそっと外して、ベッドサイドのチェストの上に置いてやった。


「じゃ、帰るわ」


 どうせ聞いていないとわかっていつつ、ベッド下の上履きを持って部屋を出る。廊下を数歩進んだところで、俺はキッチンから物音がするのに気付いた。

 飯田さんだ。


「あら、来澄様」


 カフェカーテンだけで仕切られた廊下に俺の姿を見つけ、飯田さんは目を丸くした。


「もしかして、お嬢様も帰ってらっしゃってる? 履き物がなかったものだから、てっきりまだお帰りになってないとばっかり」


 洗い物の手を止めて、飯田さんはカウンターキッチンの奥から出てきた。白いエプロン姿の小柄な老婆は、申し訳なさそうに頭を下げた。


「わかっていたら、お茶ぐらい出しましたのに」


「あ……いえ。お気になさらず。もう帰りますから」


 あらと残念そうな顔をされ、申し訳ない気持ちになる。

 困ったわねと小さく言うのが聞こえて、それから飯田さんの足が美桜の部屋に向いたのに気が付いた。


「あの。美桜は、寝てますから」


「え?」


「疲れて寝てますから、しばらく、起こさないでやってください」


「――来澄様、もしかして怪我してらっしゃる? シャツに血が」


 言われてハッとした。

 そういえば、左の二の腕。蛇に噛まれた。自分が出血してるかなんて考えてもみなかった。やたらと血がにじんで、垂れてきてる。

 よく見たら腹だって。血だらけの美桜を抱きかかえてすっかり汚れてしまっていた。

 こ……こんなところで飯田さんに心配をかけるわけにはいかない。シャツが汚れてるなんて気のせいだ。そう、思わせなくちゃ。

 そうだ。

 今着てるのは血だらけのシャツじゃなくて、アイロンかけたてのシャツで。廊下が薄暗くてそう見えてしまっただけ。飯田さんに、そう思わせないと。

 強く、強くイメージするんだ。汚れなんてどこにもない。血なんかどこにも付いてない。

 しゅ……集中力さえ高めれば、“表”だろうが“裏”だろうが力を発揮できるはずだ。確か誰かがそう言っていた。飯田さんに悟られぬよう、すり替えるんだ。


「だ、大丈夫です。ちょっと汚しただけで」


 シャツが替わったかどうか確認する余裕なんてない。ただ、さっきより少しだけサラッとした肌触りになったような気がする。

 玄関に急ぎ、そこで俺はまた動きを止める。

 しまった。下足。

 いや。ないなんて気のせいで、今俺のスニーカーは下足箱じゃなくてちゃんとこの部屋の玄関に置いてある。そうだ。寧ろ、俺の手に持ってるのは上履きじゃなくて、下足用のスニーカーで。黒地に白い線の入った、かかとがだらしなく潰れたスニーカーを、俺は右手の指二本に引っかけて持ってる。

 トンと、右手から玄関のたたきに物を離す。

 ホラ、大丈夫だ。いつものスニーカー。

 何ごともなかったかのように履いて、外に出るだけ。

 履き終えた後クルッと向き直って飯田さんに深々と頭を下げる。


「お邪魔、しました」


 頭を上げたときの、飯田さんの狐につままれた様な顔が、忘れられない。


「また、いらしてくださいね」


 小さく手を振ってくれたが、何か合点のいかないような顔をして、首を傾げていた。





□━□━□━□━□━□━□━□





 色々、やり過ぎてしまった。

 “表”なのにたくさん“力”を使った。

 剣も出したし、鎖は出したし、それから教室中メチャクチャになるくらい動き回った。

 魔法陣なしに魔法を発動させた。他人の魔法に手を貸して、魔力を増幅させた。移動魔法、そして、飯田さんの前でシャツとスニーカーをすり替えた。


 これは……“現実”なのか。


 こんな風に“表”で“力”を使う日が来るなんて、思ってもみなかった。

 美桜に“レグルノーラ”の存在を知らされ、行き来するようになって数ヶ月。周囲で起きているいろんなことに押し流されて、どんどん自分の中の“常識”が覆っていく。

 そもそも、“常識”って何だ。

 科学で証明できることか。物理的に不可思議のない状態のことか。

 美桜が半分“向こう”の世界の人間で竜の血を引いてるって時点で、もう常識は十分に崩れている。彼女が俺のことを“見つけた”ことも、俺が“干渉者”の“能力”を持っていたことも、いわゆる“常識”で考えればあり得ないこと。

 並行して存在すると思われる二つの世界を行ったり来たりしているウチに、その“あり得ないこと”の方が“常識”になってきているような気がしないでもない。

 少し前なら鼻で笑っていた。“表”だの“裏”だの、そういうのは脳内で完結してくれと馬鹿にしていた。信じる信じないじゃなくて、“常識的”に考えて“あり得ない”、つまり信じる必要のない事象だと、相手にもしなかった。

 それが、俺の中で確実に“現実”にすり替わってしまった。



――『凌の力、案外底なしだから』



 その通りかもしれない。

 限界まで力を使い切ったはずなのに、次の瞬間にはもう、別の魔法が使える状態になっている。

 これが、“能力の解放”を果たした成果だというのか。身体への負担がなくなり、一気に使いこなせるようになってしまった?

 あまり歓迎される状態じゃない。これがかえって、いろんなトラブルを引き起こしてる原因になってやしないか。

 ともかく、だ。

 美桜の力の影響を受けて、須川の他にも同じように悪魔の力を得てしまった人間がいるのは確実だ。

 毎度毎度こんな大騒ぎされるんじゃ身体がもたないし、どうにかして事態を収拾させる方向に動かなきゃならない。そのためにも、俺はもっと強くならなきゃいけないし、頭を回転させ続けなきゃならない。

 美桜のマンションから続く下り坂を歩きながら、俺はブツブツと独りごちた。

 考えることが多すぎて、相当酷い顔をしていたらしく、通り過ぎる小学生が怯えて避けてったり、住宅街の庭先で気品のあるマダムたちがヒソヒソとこっちを向いて何か喋っていたりした。

 長く、長く伸びていく影を見ながら、今後の身の振り方を考えた。

 蝉が低い位置で鳴き続けるのが延々と耳の奥に響いていた。

 何もない肩に手をやって、ギュッと紐を握る仕草をする。次の瞬間、背中にはズッシリと重さを感じて、教室に置きっぱなしだったリュックを無意識に引き寄せたことを知った。

 もう、“常識”もへったくれもない。

 まさか、瞬きしたら自宅の玄関でしたなんて状態になるのも時間の問題か。

 そう思うと、何だか薄ら寒いような気がした。


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黄昏のレグルノーラ~災厄の神の子と復活の破壊竜~
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