64.毒
ゴムを焦がしたような不快な臭いが教室中に漂っていた。それでも身体は酸素を欲していて、肺の奥まで吸い込んでしまう。上がったままの息がまだ落ち着かない。汗はだくだくと全身から流れ出るし、頭は妙に冴えていて、自分の心臓の音がやけにハッキリと耳に入った。
「わかっていたとして、何なの」
須川はギリリと奥歯を噛んで、芝山を睨み付けた。
「私は目障りな芳野さんが消えてなくなりそうなことに、寧ろ満足感を覚えているわ」
反省どころか開き直った……。
俺は剣の柄を思いっきり握り直していた。クラスメイトでなけりゃ、“こっち”の人間でなけりゃ、“こっち”でなけりゃ、叩っ切っていたかもしれない。わき上がる怒りを必死に押さえ、肩を震わした。
「最低だな」
思わず俺の口から出た言葉に、須川は顔を歪ました。
「それ、本心?」
だとしたら、俺は。
そこから先は、怖くて喋ることができない。
「おい、美桜! 目を開けろ!」
ふいに陣が背後で叫んだ。
振り向くと、なぎ倒された机の隙間で美桜を抱えようとする陣の姿が。床の上、仰向けになった美桜はグッタリとしていて、血の気がない。
まさか。
俺は剣を握りしめたまま机と椅子の山を抜け、美桜の側へ駆け寄った。
「脈が……呼吸が弱くなってきてる。マズい」
陣は美桜の胸に耳を当て、顔を青くしていた。
美桜のブラウスは血で染まり、どこが傷口なのか、ぱっと見では判別できないまでに汚れていた。早急に手当しなければ命が危ない。そんなのは、素人の俺にだって直ぐにわかる。
「きゅ、救急車を」
「いや、必要なのは治癒魔法。注入された毒素を抜いて傷口を塞ぐんだ」
「ハァ?」
「美桜の身体に、毒素が巡っている。これは、“こっち”の医学じゃ抜き取れない」
言って陣はおもむろに美桜のブラウスのボタンを外し始めた。
「手伝って」
血で濡れたボタンは外しにくいらしく、時間がかかる。
握りっぱなしだった剣を床に置き、美桜の横に屈んで、陣の指示通りにブラウスの裾をスカートから引っこ抜き、下から順にボタンを外していく。こんな状況でなかったら下半身が過敏に反応するはずなのに、嘘のように何も感じない。それくらい、不測の事態が起きている。
はだけたブラウスの下から美桜の桃色のブラジャーが現れた。膨らんだ胸が静かに上下している。
左腕と脇腹に傷。二の腕から脇腹に向かって牙の一つが貫通したのか、傷が一続きになっている。深い。こんなの、魔法でどうにかなるわけない。
「『蛇の毒で死ねばいい』――なんて、考えたりした?」
陣はもっていたハンカチで傷口の血を拭いながら顔を上げ、須川に問いただした。
クククッと須川は含み笑いし、
「思わなかったと思う?」
最悪の返しだ。
蛇の毒を彼女はイメージした。何故かしら高まっていた彼女の“力”が、黒大蛇に毒をもたせ、その毒が傷口を介して美桜の身体に注入されてしまった。こんなことって――なんて、深く考える余裕がない。多分、そういうことなんだ。
美桜の身体の中に黒いモノが巡っている。それは俺にも何となくわかった。血液に乗って全身に行き渡り、徐々に美桜の命を奪おうとしているのだ。
「……正直に言うと、治癒魔法はあまり得意じゃない」
突然に、陣はとんでもないことを告白する。額に脂汗が滾っているところを見ると、それは真実らしい。陣郁馬の、見たこともない憔悴した顔に、俺はある意味覚悟を決めなければいけないのだろうかと思い始めていた。
「シバ、こっちに。手伝って」
呼ばれた芝山はオロオロとしながらも、へたり込む須川を放ってこちらへと足を向けた。
その間に陣は傷口が上になるよう、美桜の身体を傾けて、その10センチ程上の空間に空っぽの魔法陣を描き始めた。
「毒を抜く。力を貸して」
陣は険しい顔で俺と芝山を交互に見た。
俺は強くうなずいたが、芝山は戸惑い、
「“こっち”で“力”を使ったことなんか」
と言うが、
「安心しろ。俺もまともに“こっち”で“力”使ったの、初めてだから」
何とか納得させ、二人、手を差し出した。
直径30センチの小さな魔法陣に、レグルの文字が刻まれていく。相変わらずまともには読めないが……“毒”それから“消し去る”くらいは何となくわかる。全ての文字が埋まるのが合図、せーのと声には出さないが思い切り、力を注ぐ。魔法陣が桃色に光る。
美桜の身体が桃色の淡い光に包まれ、身体の奥底にまで入り込もうとしていた黒いモノが、徐々に抜けていくのが見えた。黒いモノは湯気のように空気に溶け込み消えていく。
深かった傷口も徐々に塞がれて、ほんの少しだが、血色も戻ったような気がする。
「あと少し。シバ、もう少し踏ん張って」
芝山は無言でうなずいて、ギリと奥歯を噛んだ。
俺も残っている全ての力を注ぐ。
美桜がゆっくりと目を開いた。頭を動かして、俺の顔を見つけると何か呟く。
――ゴメンね。
気のせいか、そんな風に唇が動いたような。
「先生、こっち」
ふいに声がした。足音、ざわめき。
教室で騒ぎに巻き込まれた誰かが人を呼んだのか。廊下に突き抜けた黒大蛇でも目撃したのか。
こんなところ、誰かに見られたら。
芝山が廊下を覗く。
「どうした? 何かあったのか」
あれは担任の。
「あ、いえ。何も」
声の響きから察するに、まだ近くにまでは来ていない。それでも、廊下の長さなんてたかがしれてる。こんな状況、説明のしようがない。
「凌、悪いけど、美桜のこと頼む」
陣が突然、肩を叩いた。
「部屋に連れてって。僕とシバはここを大急ぎで元に戻す」
「まさか、魔法で?」
「他に何だよ。まさか怪我人担いで連れてくの? 傷口は軽く塞いだだけだから気をつけて。転移魔法くらいお手の物だろ?」
「ば……買い被りすぎだ」
大体、魔法発動自体があり得ない状態なんだ。物理法則を無視したような“向こうの世界”と一緒にされちゃ困る。“こっち”は現実。人間がひょいひょいと魔法で移動できるわけ。
「四の五の言ってる場合じゃない。さっさと頼む。――シバ、こっちも急がないとマズい。補助頼む」
「だけどボクは二次干渉者で、一次干渉者の影響がなくなると力が」
「だったら、消えていなくなる前に力を使ったらいいんだよ」
陣のヤツ、言いたい放題言いやがる。
が、彼の言うことには一理ある。仕方ない。あらぬ疑いかけられ、これ以上面倒に巻き込まれるのはゴメンだ。
転移魔法――以前、過去の世界でディアナに森に連れてって貰ったときに体感した。あのときは目を瞑っただけで何にもしちゃいなかったが、あんな感じで飛べばいいのは何となくわかる。
“こっち”と“あっち”、二つの世界の間で物を移動させる魔法ってのも見た。美桜が隠し持っていた銃器を森の小屋に持ってったときのアレだ。たくさんの物を移動させるときは魔法陣を描かないとうまく発動しないんだとか。
俺にできるのだろうか。明らかに実力を超えた課題を押しつけられ、正直なところ身体の震えが止まらない。失敗したら美桜の命が危ないってのに、俺はなんて肝の小さい男なんだ。
陣が立ち上がり、大きめの魔法陣を教室の中心に描き出す。
俺は美桜の首と膝の裏に腕を入れて、美桜の身体をゆっくりと抱え上げた。力の抜けた身体は思っていたよりもずっと重くて、体力を使い果たした膝にズッシリくる。右腕に乗った美桜の頭が少し動く。直後に、彼女の右手が首を支える俺の手に触れた。
――大丈夫。
彼女の唇がそう話す。
立ち膝のまま、教室の床、自分の真下に魔法陣を描く。直径一メートルほどのそれに刻むのは移動魔法の命令文。
――“美桜の自室へ二人を運べ”
こんなので果たして飛べるのか。いや、イメージしたことをそのまま力に変えるのが“干渉者”。どんな陳腐な命令文だって、イメージさえしっかり整っていれば発動する。美桜のあの、女の子らしい可愛い部屋へ。家政婦の飯田さんが待っているマンションへ。
魔法陣が光る。俺と美桜を光が包み込んでいく。
陣の描いた魔法陣が発動し、教室の机や椅子が自動で元に戻っていくのが傍目に見えた。
目を瞑る。イメージを加速させる。
イメージの上に、更にくっきりとしたイメージが重なる。
美桜か。彼女の力が重なって、魔法陣は確実に俺たちを運ぶ――。
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恐る恐る目を開ける。
淡い桃色と小さな花柄が、目に入る。
何とも言えぬ優しい香りは、さっきまで息をするのさえ憚られた教室の中とは雲泥の差だ。
間違いなく、俺たち二人は美桜の部屋にいた。
美桜を抱え、立ち上がり損ねたそのままの格好で。
うっすらと目を開けた美桜は安心したように小さく笑う。
――よかった。
声が出ないのか、出すほどの体力がないのか、彼女は唇だけを動かした。
「大丈夫か? ベッドに行く?」
美桜はほんの少しだけ、首を前に動かした。
「動くよ」
言ってから俺は、彼女の身体を持ち上げた。さっきより少し軽い気がする。
傷が痛むのか、彼女は顔を歪め、ギュッと目を瞑った。
数歩進んで彼女の腰をベッドの端に置き、寝かせようとしたところで、俺はようやく上履きの存在に気が付いた。彼女の頭をそっと枕の上に載せて上履きを脱がす。俺の上履きも、今更のように脱いでベッドの手前に置く。
腰を浮かせて足もきちんとベッドの上に乗せてやると、彼女はホッとしたように長く息を吐いた。
「痛む?」
――少し。
「あ、ゴメン……。シーツに血が。着替えも、した方がいいんじゃないか」
――大丈夫。
何に気を遣ってるんだと首を傾げたが、直後、俺は己の無神経さに赤面した。美桜は力の入らない右手で胸元を隠そうとしていたのだ。
「あ、ゴメン。ホント、ゴメン」
慌ててタオルケットを掛けてやると、また彼女はありがとうと口を動かした。
美桜の体力は確実に失われていて、できれば医者に診察でもして貰った方がいいのはわかってるんだけど、俺は即座にそれが判断できなくて……不甲斐ない。
彼女は半分竜の血を引いている。見た目普通の人間だし、“こっち”でも医者にかかったことくらいあるはずだってわかってるんだけど、血液の成分が普通じゃなかったり、身体の組織がどこか違ったりしたら、説明のしようがない。そもそも、彼女自身が二つの世界でどんな存在なのか考えると、“こっち”の医学には頼れないような気がして、陣が言ったように魔法で治癒させるのが一番いい方法なのかもしれないとか、竜の血を引いているならば俺たちの知らない治し方みたいなものがあるのかもしれないだとか、余計なことばかりが頭を巡る。
そもそも、彼女は自分の身体や出生が普通じゃないってことを知っているのかどうか。
そんなこと、こんなときに聞けるはずもないし。だとしたら、やっぱり魔法で癒やすなり食事で癒やすなりして、ここで寝かせておくのが一番じゃないのだろうかとか。
「難しい、顔、してる」
美桜がようやく声を出した。
ベッドの横でどこを見でもなくぼんやりとしていた俺は、そんなに難しそうな顔をしていたのだろうか。そんなことはないと首を振るが、彼女は小さく笑って、
「心配、いらないのに」
こんな心配以外何をしたら良いんだって状態で、何を言う。
「キス、して」
……疲れすぎているのだろうか。
ついに幻聴が。
「キス、して」
画像を思い描くことはできるようになってきたが、そんなハッキリと妄想を音にして再生させるような能力はない……はず。
俺は首を傾げ、両耳をさすった。
音はちゃんと聞こえてる。頭の声と実際の音くらい、区別はできる。
「お願い。キス、して」
左手で俺のズボンの裾を掴んで、美桜は今度こそハッキリとそう言った。
真っ直ぐ、俺を見ている。
喉が急激に渇いて、俺は思いっきり唾を飲み込んだ。
「き……す」
天ぷらの方じゃないよな。
頭が混乱する。
瀕死の女の子のセリフじゃないぞ。
それともあれか、俺は移動魔法を失敗して、己の妄想の世界へと辿り着いてしまったのか。俺が常日頃妄想してた世界。美桜と……な関係になってしまう世界。
「じょ……冗談、だろ」
一歩、二歩。後退る。
美桜は笑わない。
真剣に、こちらを見ている。
「お願い。凌。キス……して」
柔らかい彼女の唇が、何度も“キス”と言う。
青白い顔。後生の訴えか。それともホントに俺の妄想か。
「お願いって、言われてもだな」
顔が引きつる。
どうしよう。なんか俺、おかしい。
右手で自分の頬をぶってみた。パチンと音がして、ヒリヒリと痛みが走った。