41.過去
男は長く伸ばした前髪を軽く掻き上げ、ゆっくりと歩み寄ってきた。身体が縮み、幼児になってしまっていた俺にとって、彼はまるで巨人のようだった。
ジリジリと後ろに下がり、壁に引っ付いてうろたえていると、男は腕を伸ばし大きな手で俺の首根っこを掴んだ。そうして無理やり自分の方に俺の顔を向け、まじまじと観察を始める。赤い瞳でジロジロと隅から隅まで舐めるように確認すると、男はパッと手を離し、ニヤリと笑った。
「時空嵐の中で必死に追いかけた。この時間軸に落っこちたことはわかっていたが、まさかこんな可愛い坊主になっていたとは。難儀だな」
凌なのかと聞かれて、直ぐに気が付くべきだった。
「テ……テラ?」
俺の知っているテラとは全く違う外見にすっかり惑わされた。
銀髪に赤目は一緒だが、目つき悪く、短髪でピアスに刺青、ガラの悪そうな服装で威圧感のあるテラではなく、そこにいたのは優しげな色男だったのだから。
“竜の性格は主に左右される”と、そういえば初めて出会ったときに言っていた。
外見もさることながら、中身もすさんでいた俺の僕ではなく、今は美桜の母、芳野美幸の僕――。だから俺のときとは全然違う風貌になっていたのだ。
正体がわかると、テラは跪き俺と目線を同じにした。
「とりあえず、無事で安心した。この時代、私は“深紅”と呼ばれていた。彼女が、芳野美幸がそう名付けた。私の瞳の色がその由縁。君とは全くセンスが違う……だろう」
「深紅……、大丈夫なの。その子。誰かが美桜を狙って送り込んだ刺客、というわけではないの」
芳野美幸は恐る恐る尋ねるが、テラはククッと小さく笑って大丈夫と手で合図する。
「彼は未来の私の主、来澄凌。臆することはない」
「未来の? どういうこと?」
「時空嵐に呑み込まれ、戻ってくる時間軸を誤ったのだ。私も後を追い、気が付くと美幸の側にいた。どうやら“深紅”だった頃の身体に入り込んでしまったらしい。同じ時間軸に同じ人間は――私は竜だが――二人存在することはできないからな。彼も同じように、入り込んでしまったようだ。美桜と出会っていた、幼い自分に」
こんなこと、にわかには信じられないだろう。どう考えたって無理のある説明だ。
だが、美幸はテラの言葉を聞いて納得したらしくホッと胸を撫で下ろし、幼い美桜の手を握って、ゆっくりと俺の側へ寄ってきた。
「ごめんなさいね。変な勘違いして。未来の深紅の主さん、初めまして。私は、芳野美幸。この子は娘の美桜よ」
俺の前に屈み込み、彼女はよろしくねと柔らかな手で優しく俺の頭を撫でた。くすぐったい感触に背筋がぞぞっとして、俺は思わず身震いしていた。
美桜はそんな母親の様子にパッと表情を明るくし、
「ねぇママ、りょうとはお友達になってもいいの」と聞く。
「そうね」と美幸は答えたが、それ以上の言葉は続けなかった。
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美桜がやりたい放題散らかした部屋をサッと片付けたあと、お詫びのしるしにと、芳野美幸は菓子を振る舞ってくれた。四人がけの小さなダイニングテーブルには、焼き菓子やプリン、ミルクが用意された。
大人用の椅子に厚めのクッションを二つ重ねて敷き、その上に座って、俺と美桜は隣同士で菓子をむさぼった。美幸の手作りらしい菓子類は、頬がこぼれ落ちるほど甘く、空腹だった腹をすっかりと満たしていった。
小さな美桜はほっぺに菓子のクズを沢山くっつけながら、リスのように口いっぱいにお菓子を詰め込んでいる。本当に小さな、可愛い女の子だ。コレがいずれ、あの心の読めぬ氷のような女になるなんて、到底思えない。
何が彼女を変えたのか。ここに、ヒントはあるのだろうか。
そして幼い娘を残し、この後命を落とすことになる母親。“向こう”で俺が聞いた話だと、美桜は四つのとき母親を事故で亡くしている。正にこの直後、何かが起きる。それが“向こう”でなのか、“こちら”でなのか。見当は付かないが、とにかく何かが起きる。そうして美桜は、心を閉ざしていくことになるらしい。
この状況から察するに、テラは“深紅”としてこの頃ずっと、美桜たちと一緒にいたようだ。ということは、彼女らに何が起きたのか、テラは全部知っている。知ってて言葉を濁した。濁さざるを得なかったようだ。
――『とにかく、悲しいことが起こったのだ』
――『あれ以来、“表”と“裏”、二つに分かれていた世界の距離がグッと縮まり、たくさんの“ゲート”が生まれた。引きずられるようにして多くの“二次干渉者”が発生し、レグルノーラは混沌とした。森が急激に消え始めたのもその頃からだ』
――『世界の秩序が乱れだし、“悪魔”と呼ばれる存在がこの世界に頻繁に“干渉”するようになる』
レグルノーラを巻き込む、重大な何かが起きる。そうとしか思えない。
優しく微笑み、美桜を温かく見守るこの若い母親が、その何かに巻き込まれるのは間違いない。
となると、今はいわゆる“嵐の前の静けさ”であって、それをテラも知っているということになる。
考えていくうちに、どんどん闇は深くなっているような気がした。テラさえ口に出すことを憚るような、あまりよろしくないところに足を突っ込んでしまったような、そんな、気が。
「子供がそんなまずそうな顔をしてモノを食べるな」
向かいの席でテラが言った。大人たちは、珈琲のような香りの、温かい飲み物を飲んでいた。
「俺、そんな顔してる?」
「してる。美幸の菓子がそんなに気に入らないか」
「気に入らなくなんかないよ。おいしい。すんごく」
「なら、もっと美味しそうに食べればいいだろう。子供らしく」
「中身は高校生だよ。……にしても、なんでこんなことに」
「それは君が、時空嵐の中で余計なことを考えたからだ。お陰で私まで“こっち”に来てしまった。いい迷惑だ」
突然、芳野美幸が噴き出すようにして笑う。
テラは美幸の様子に慌てふためき、どうしたと顔を覗き込んだ。
「可笑しい。深紅、私といるときと違うわね。とっても……、なんていうか、楽しそう」
「なにを言い出すんだ。美幸、私は君に従っていたときの方が、ずっと幸せだった。穏やかに過ごせたし、愛情を感じた。私は、君と居たとき、自分が竜であることさえ忘れてしまうほどに――。いや、よそう。凌の前だ。余計なことを言って、戻ってから弄られても困る」
んんっと咳払いし、テラは姿勢を戻した。俺の視線が気になったのか、眉間にシワ寄せて睨み返してくる。
やっぱり、俺と居るときとは何か違う。そう思うと、色々と一人で考えて悶々としていたのが馬鹿らしくなり、ふと、思ったことをそのまま口にしてしまった。
「主従関係と言うよりは、恋人みたいに見える」
困らせるつもりはなかった。
が、テラは口に含ませていた飲み物を詰まらせ、ゲフゲフと咳き込み始めた。
「ば……、馬鹿言うな。私は竜だぞ。いくら美幸が美しく聡明でも、そういう対象にも、関係にもならない。今こうして人間の姿で側にいるのも、きちんとした理由があってだな。彼女と美桜を守るためには、どうしても必要だったのだ。――そういう君こそ、何故ここに迷い込んだ。いくら美桜のことが愛おしくても、こんな過去に現れるなんて不自然ではないか。一体何が原因で、過去の君はここに来たのだ。まさか、幼かった君が自分の意思でレグルノーラに入り込むことなど、できなかったろうに」
強烈なカウンターパンチに、一瞬たじろいだ。
チラッと幼い美桜を横目に見て、それから美桜の母、その後にテラの顔を順番で見ると、それぞれ別の表情をしていて、俺に興味が集中しているのがわかる。美桜はお菓子を食べる手を止め、首を傾げて不思議そうな顔。その母親は『美桜のことが愛おしくても』に反応して両手で顔を覆い、顔を赤くし、テラはしてやったりと口角を上げている。
居心地が悪いったらありゃしない……。
しかも、テラが投げかけた疑問の答えを皆、今か今かと待っている。
「か……川に落ちたんだ」
俺はカップに注がれた白いミルクを眺めながら、小さく呟いた。
「川?」と、テラ。
「農業用の用水路だよ。堰……って言って、わかるかな。田んぼに水を送るため、田舎では広めの堰があっちこっちに伸びてるんだ。あー……、ここには田んぼ自体、あるのかどうかわからないけど、主食用の作物を植える場所って言ったらいいのかな。じいちゃん家の裏に田んぼが広がってて、その直ぐそばに堰があった。堰の周りには草が生い茂っていて、小さい頃、じいちゃんとこに遊びに行くと、そこでよく虫を捕ったり、草を弄ったりした。俺が住んでいた住宅街じゃなかなか見ることのできない小さな虫がたくさんいたし、草を引っこ抜いたり、花を千切ったり、とりとめない遊びを一人でするのが楽しくてさ。多分俺はその日も、一人で遊んでいたんだよ。何でじいちゃんとこ行ったのかな……、祭り、だったかな。農繁期で川が増水してたし、半袖だったところを見ると、初夏だったろうから、それで間違いなかったと思う。あの日、どこを探しても俺が居ないもんで、あっちこっち探し回ったんだと、今でもたまに聞かされる。村中大騒ぎになって、家々回って尋ねたり、消防団が草むら捜索したり、とにかく大変だったらしい。流された俺は、葉っぱや枝と一緒に堰の隅っこに引っかかって、冷たくなりかけてたのを救われた。そのときだ、俺が“ここ”に来ていたのは。聞き慣れない言葉を喋る親子がいて、一緒に遊んだ記憶がある。ただ、本当にぼんやりとしか覚えていなくて、『川の底に女の子が棲んでいる』と、誰に言っても信じて貰えなかった。その女の子が美桜で――、俺はその事実を、さっき知った。美桜とは高校で一緒になるまで面識がないとばかり思っていたんだから」
「四歳の……頃、か。川が“ここ”に繋がっていたと言うよりは、意識を失ったとき、偶然“ここ”に迷い込んだと言うのが妥当か。記憶が曖昧なのは、未来から迷い込んだ君の意思で身体が動いていたからかもしれない。身体を貸している状態だったから、おぼろげな記憶になってしまったのではないか。言葉がわからなかったというのも、四歳の君はまだ干渉者として未熟で、異世界の言葉を理解するまでに至っていなかったと考えれば、納得できる」
テラは腕を組んだまま、低く唸った。
「とすると、凌は潜在的にかなりの力を持っていたということになる。下手したら、かなり小さな頃から常態的にレグルノーラを訪れていた可能性だってある。その辺、どうなんだ」
「いや。美桜に干渉者でしょと言われても、俺には何が何だかわからなかった。『夢を介して何度か来ているはず』って、言われたんだったかな。それだって、俺には全く覚えが」
「“無意識下での干渉”ね」
俺とテラの話を黙って聞いていた美幸が、ふと声を上げた。
「干渉者の中には、意識せずにもう一つの世界に入り込むことのできる人がいるというのを聞いたことがあるわ。息を吸うのと同じように、簡単に行き来してしまうから、本人には行ったという実感が湧かない。夢の中で見た光景が実は現実で、その記憶を夢として処理してしまうから、忘れてしまう。繰り返し同じ景色が出てきたとしても、夢だデジャヴだと思ってしまえば、記憶として残しておくことを止めてしまう。意識的にではなく、無意識に他世界へ干渉していたのだとしたら、記憶がなくてもおかしくないわ」
無意識に――。そんな話、確か前にも。
“悪魔”の正体を美桜と推測し合ったときに、話題に上ったような気がする。
「ディアナが私を凌にあてがったことも、それなりに納得できる、と?」
テラはあごを擦りながら、チラッと横目に美幸を見た。
「ええ」と美幸は小さく頷き、
「私が居なくなったあと、美桜と接点のある干渉者に、あなたを譲ることにしたのね。彼なら……安心だわ。ディアナが選んだんだもの」
彼女は寂しそうに小さく微笑んだ。
――『竜は主が死ぬと、卵に還る』
出会ったばかりのテラが話していた。卵に還り、次の主が見つかるまで待つのだと。
芳野美幸は、自分にこれから起こりうることを知ったのか、それとも以前から知っていたのか、目を細めて小さな美桜をじっと見つめていた。そのもの悲しげな表情は、かける言葉すら見つからないほどに、深く、深く沈んでいた。
彼女の気持ちをわかってか、テラはそれ以上話題に触れず、
「ところで、小さな君が“ここ”に来てから、どれくらい経つ?」
と、話題を切り替える。
「えっと……」
言われて少し考えるが、そういえば時計など見ておらず、時間感覚も曖昧なことに気付いた。
「二人が部屋に入ってくる、10分以上前にはここに来ていたと思うんだけど」
「なら、早く戻った方がいいな」
ガタリと立ち上がり、テラは幼くなった俺の身体をヒョイと抱え上げ、床に立たせた。
美幸も何か察したのか、美桜にはそのままでいるように話して、何かの準備を始める。家具を退かし、広くなった床にチョークで二重丸を描く。ダビデの星と、レグル文字をサラサラと書き込んで魔法陣を完成させると、彼女は俺に、その中央に立つよう促した。
「あの……、何する気?」
「小さい凌君を、“向こう”に戻してあげるのよ」
「言っただろう、同じ人間が同時に存在することはできない。だから、今みたいにおかしなことが起こってしまった。片方を戻してやれば、もう片方と分離することができるはずだ。あくまで、臆測だがな。それに、早いとこ帰してやらないと、幼い君の意識は戻らない。冷たい水の中で助けを待っているんだろうから、急ぐに越したことはないだろう」
言いながらテラは、お菓子を片手に握りしめた小さな美桜を魔法陣の側まで運んできた。
「何が始まるの?」
美桜はワクワク顔で尋ねたが、
「お友達との、お別れの時間よ」
美幸が言うと、ポトンと菓子を床に落として、一気に顔を歪ませた。
「どうして? せっかくお友達になったのに。どうしてお別れしなくちゃいけないの?」
小さな美桜には、なかなか理解できないらしい。大粒の涙をポロポロこぼし、鼻の頭を赤くして必死に母に訴えかける。
「もっと遊びたい。みお、いい子にしてるから。りょうともっと、遊びたかった」
母親の服の裾を引っ張ってお願いする姿は、彼女の意外な一面を見るようで新鮮だ。だが、彼女は当然、そんな風に俺が見ているなんてつゆ知らず、わんわんと声を上げて泣く。
「大丈夫だよ。また、遊ぼう」
魔法陣の真ん中で、俺は美桜に言った。
「期待は持たせるな、凌。美桜は――君が思っているのより、ずっと重い立場にいるんだ」
テラはキッと俺を睨み、それから幼い美桜の側に屈み込んで、ギュッと抱き寄せた。
「美桜。君はいずれ、凌とまた出会う。そのときまで、さようならだ。おうちに、帰してあげなくちゃならない。大丈夫、凌は君のことを嫌いにはならないよ。未来でも君を好きでいてくれる。友達でいてくれる。だから、泣かないで、さようならしよう」
「やだ。みお、さよならしないもん」
美桜は首を横に振った。
「みお、りょうのこと好きだもん。さよならしないもん」
必死に抵抗する美桜を、テラは優しくなだめた。幼い彼女にとって、友達は作らないよう諭されてきた彼女にとって、幼い俺との出会いは大きな出来事だったに違いなかった。
足元の魔法陣が光を帯び始めた。
目を閉じ、両手を胸の前で組んで祈るように呪文を詠唱する美幸。徐々に光が肥大し、魔法陣から文字列が離れて俺の周りを囲っていく。
「美桜。小さい凌君と、さよならして」
「やだ。みお、やだ」
美幸はやりきれぬ顔をして、ゆっくりと首を横に振った。
「美桜、わかって。お願い……!」
発動した魔法陣は、完全に俺の身体を光で包んだ。
小さな手が、足が、光に変わっていく。視界が白くなり、音が遠くなり――。
ふと、身体が浮いて、それからグッと、身体が沈んでいった。
視界が徐々に暗くなり、元に戻っていく。
手足に感触が宿り、ズッシリとした重さを感じる。
目を擦り、慣らしていくと、右腕のいつもの刻印が目に入った。
“我は干渉者なり”――美桜が刻んだそれは、身体が元に戻った証だった。