3.足りないもの
平日の夕方、人目につかない時間。
俺と芳野の、二人だけの時間。
入学と同時に芳野美桜を知った俺にとってそれは、ある意味憧れの時間だった。
心臓の高鳴りを自然と覚えてしまうほどに彼女は美しく、多くの男子の心を射貫いていた。当然のように彼女へ好意を寄せる男子は数多く存在したが、彼女はそれを拒むかの如く、常にクールだった。
“裏の世界・レグルノーラ”が、繋いでくれた縁とはいえ、彼女とこうして二人でいられること自体が光栄なことなのであると胸を張って言いたいところなのだが、現実は違う。彼女はクールというよりは冷徹で、人使いが荒く、何より融通の利かない魔女だった。
幾度となくレグルノーラへ飛び、徐々に滞在時間が延びてきたところで、彼女は俺にとんでもないことを言い出した。
「武器、出してみようか」
意味がわからなかった。
俺はまともな反応ができずに、目を点にして彼女の顔を見返した。
「武器、出してみようか」
彼女は重ねて言い、俺はやはりどうしたら良いかわからず、首を傾げた。
「武器。何が好き? 剣? 槍? 弓矢? 斧? それとも銃? 棍棒とかナイフとか。飛び道具の方が良い?」
いつもの小路から少し離れた廃ビルの中で、彼女はそんな物騒なことを言い始めた。しかも、普段通りの冷静な顔でだ。
「物騒すぎない? てか、どういう趣味してんの?」
口答えはしない主義だったが、我慢できなかった。
空っぽのそのビルはかなり前に店が撤退したらしく、くくり付けの商品棚やレジカウンターがそのままに残っていた。壁も柱もあちこち崩れていて、まともな人間が出入りするような場所ではないとわかっていたのだが、それにしてもこのセリフ、何だかとても嫌な予感がする。
「趣味じゃないわ。必要だから聞いてるのよ。言わなかった? “干渉者”は“悪魔”を倒すために存在している。この世界を滅ぼそうとしている“悪魔”を倒すためには、“イメージを具現化”して武器を手にしなければならない。必要なときに必要なものを手にして戦う。誰かが武器を調達してくれるかもだなんて甘いことは考えないで。突然として目の前に敵が現れたとき、丸腰だからと逃亡することは許されない。なければ“具現化”させればいい。夢を介してレグルノーラに来ていたあなただもの、きっとそれ相応の力を持っているはず。コツさえ掴めばきっと簡単に“イメージを具現化できる”ようになると思うわ」
通りに面した汚れたショウウインドウからはレグルノーラの街並みが見え、建て付けの悪い扉は壊れている上に半開き。こんな物騒な会話が、もしかしたら周囲に漏れているかもしれないと思うと気が気でない。
俺は思わず彼女の口を塞ぎそうになったが、寸でのところで思いとどまった。そんなことをしたら、彼女を襲っている悪漢に見えなくもないのではないかと思ってしまったからだ。
周囲を警戒しつつ、俺は小声で聞き返した。
「そういう物騒な話は、もっと別なところでした方が」
「別のところって? あなたが一度に移動できる距離がもう少し伸びたらどうにかできると思うけど、今はこれ以上の場所を用意できないわ」
彼女は声の大きさを変えずに言い返してきた。
芳野の言うことには一理ある。が、だからといって、こんな人目に付くようなところでする会話じゃないことは確かなはずだ。
まず座りなさいよと、芳野は俺に埃だらけの丸椅子を寄越した。芳野も同じデザインの丸椅子を室内から物色し、埃を払って俺の真ん前に座る。
「いい? あなたを“見つけた”のは、何も面白半分で異世界への往復を堪能するためじゃない。私は“干渉者”としてあなたに働いて欲しいと思っているの。私だけじゃない、この世界に住む殆どの人間が、“表”からの“干渉者”を欲している。当然、ただ“こっち”に来れるだけの人間じゃなくて、必要なのは“悪魔”と戦える“干渉者”。才能があると見込んでいるから聞いてるの。何でも良い、武器を出してみて」
彼女は苛立っていた。
腕を組み足を組んで、厳しい顔を向けてくる。
「出してって急に言われてもだな」
しかし、俺の話など聞く様子はない。
「何なら出せるの? 簡単なものでも構わないわ。最初は鉛筆でもボールペンでも。頭に思い描くだけで良いのよ。強く思い描くことで形になる。それが私たち“干渉者”の“力”。何でも良い。あなたの手のひらに、何かを出現させてみて」
芳野は真剣だ。
けど、俺は彼女が何を言っているのかよくわからない。
思い描けばって、どういうこと。何がどうなれば、突然に物を出せるっていうんだ。
「て、手本……見せてよ」
苦し紛れに言った。
「手本を見せればできるわけね。じゃあ……、ちょっと待って」
彼女は組んでいた腕をほどき、すっと右手を差し出した。そのとき、彼女はまだ手には何も持っていなかった……はず、だった。
胸の下に隠れていた右手が弧を描くようにして動いていく、その途中で何かが起きた。
彼女の手の中に突如として黒い物体が現れ、カチャリという音と共に実体化したのだ。
その禍々しい形に驚き、俺はひっくり返って椅子から転げ落ちた。
「うわっ、うわあっ!!」
自分の声にさえ驚いて、俺は更に数メートルほど後ろに逃げた。
銃だ。
小型の銃が、芳野の手の中に。
「な、なんだよそれ! どっから!」
おののく俺を、彼女はかえって面白がった。
「凄いリアクション。凌ってば、案外楽しい人なのね」
「ば、バカヤロウ! そんなの誰だって驚くし。ってか、こっち向けんな!」
銃口を向けてせせら笑う芳野に、俺は両手を挙げて必死に降参の意を示したが、彼女はことの重大さに気付いていない。
「弾なんて入れてないわよ。大げさなんだから」
ゴメンゴメンと笑いながら、彼女は銃を下ろした。攻撃しない意思を示すかのように床に銃を置き、両手の平をこちらに向けて子供のように笑っている。その顔の可愛いったらないんだが、状況が状況だけに素直に喜べない。
と、とんでもない女だ。
俺は息を整えながら立ち上がり、ゆっくりと椅子に座り直した。
「て、手本にしては刺激的すぎない?」
「極端すぎるくらいがいいかと思って。さあ、凌もやってみて。目をつむって意識を集中させるの。手の中にものがある感触を想像する。そのものの形をしっかりと思い描けば、形として現れるはず」
「簡単に言うよな……」
いつから“干渉者”として“レグルノーラ”に来ているのか知らないが、芳野は凄いことを難なくこなす。まさか俺にも自分と同程度のことをのぞんでいたりはしないよな。
それはさておき。
咳払いして背筋を正し、右手の平を上に向けて力を集中させてみる。
何が……いいだろうか。確かに鉛筆くらいなら形や材質、重さも全部頭の中にたたき込まれているわけで。もし本当に“具現化”できる力があるというなら、もしかしたらもしかしてってこともあり得るかもしれない。
目を閉じ、鉛筆の形を思い描く。六角形の鉛筆。そこの書いてある文字。書きすぎて丸みを帯びた芯。深い緑色の軸をイメージする。
やり方自体があっているのかどうか、疑問ではあるが、とりあえず彼女に従うしかない。この“レグルノーラ”という不思議な世界に迷い込んでいるとき、俺は彼女の言うがまま。もしかしたらこれは夢なんじゃないかという変な錯覚と戦いながら、俺は黙々と鉛筆のイメージを頭に思い描く。
何分か経過した。
まだハッキリとした感覚がない。
どうやったら“具現化”なんてできるんだ。
芳野が目の前で髪の毛をいじり始めた音がする。完全に、待ち飽きたらしい。
「……どうして、出せないの」
芳野の声が廃屋に響く。
目を開け、恐る恐る手を見る。彼女の言うように、何も変化がない。
「あなたからは確実に“干渉者”の“臭い”がした。もしかして、からかってるの……?」
「からかってるなんて!」
両手を挙げ、全力で顔を左右に振る。
「真面目にやっててもできないんだよ。コツ、とかないの? コツとか」
「コツ……? 確実なイメージを思い描くだけで良いのよ? ……ちょ、ちょっと待って。まさか」
芳野は何かに気が付き、青ざめた顔をして立ち上がった。
「“具現化”に必要なのは“想像力”。つまり、“イメージする力”。まさか凌、あなた、頭にハッキリとしたイメージを描くのが苦手……なんてこと、ないわよね」
絶望、という言葉がしっくりくる。そんな表情。
彼女は俺に、どんな答えを欲しているというのか。
胃がキリキリする。
「苦手……です」
「苦手? まさか。“干渉者”よ? “イメージを具現化する”能力を持っているのよ?」
「苦手……です。と、しか」
滝のように汗が流れ出ているのがわかる。脇の下がぐちょぐちょだ。
「想像とか、空想とか、……あんまり。妄想ならするけど。……いや、でもほんと、あんまりこう、頭で何かを思い描いてそれを形にするってのは」
「日常生活において全く何かを想像しないなんてことはないでしょ? ものを作ったり、計算したり、行動したりするときには常に想像力は必要だわ。人間たるもの、生きるためには最低限の想像力というものが備わっているはずだと信じて疑わないのだけれど、まさか本当に、想像力が欠如しているだなんて言ったり……しないわよね?」
我慢ならないのか、芳野は一歩、また一歩と近づいてくる。その度に、俺は椅子を後ろにずらしていく。
顔が引きつる。ただでさえ不細工な顔が、彼女の目にはより一層滑稽に見えているだろうか。
「ものを作るのは?」
「苦手、です」
「絵を描くのはどう?」
「苦手……、です」
「聞きたくはないけど、手先は器用よね?」
「それ、想像力と関係ある?」
「良いから答えて」
「どうかな……。どっちかっていうと、こう、細かい作業は苦手というか」
「嘘。こんなことありえる? 想像力が欠如している、しかも不器用だから“干渉者”としての能力も発揮できない? そんな言い訳通用しないわ。鍛えてもらうわよ。何が何でも、あなたを一人前の“干渉者”に仕立て上げる。――それにしても想像力にも鍛錬が必要だなんて聞いたこともない。私の……勘が鈍ったとでも言うの? いいえ。あのとき感じた“臭い”は本物。今だって微かに臭っている。まだ本当の力を出していない、出し切れていない程度だと推測するわ。こうなったら一から鍛えるつもりで頑張るしかないわね」
芳野は、怒りに震えると言葉数が増すらしかった。普段の物静かさからは想像もできぬ位の勢いでまくし立てられるだけまくし立てて、ふぅと長く息を吐いた。
「こんな場所でゆっくり“力”を確認するのじゃなくて、もっと色々考えなきゃダメだってことがよくわかったわ」
申し訳ない、という言葉しか出てこない。
足の遅い人に対して何故遅いと突っかかったり、計算の苦手な人にどうして頭で計算できないのかと怒鳴ったりするのと同じレベルで、想像力のなさを否定された。およそ創造的なものと無縁な生活をしていた普通の男子に、突然高レベルを求められてもどうしようもないのだ。
「身体を動かすのは、得意……よね? 体育祭ではそれなりに活躍していたイメージ、あるんだけど」
「え? ま、まぁ。人並み、には」
質問の傾向ががらりと変わった。
「じゃあ、自分がどういう風に動いたら相手を効率よく倒せるかをしっかりと想像し、それに合わせて自分の身体を動かしていくイメージを描くことはできそうね。とにかく、戦えないんじゃ意味がないの。もう少し慣れてからにしようかと思ってたけど、こうなったら」
………‥‥‥・・・・・━━━━━■□
また、途中で意識が戻ってきた。
机に伏して荒く息をしていると、上から芳野のため息が降ってくるのがわかった。
「いい加減、慣れてよね」
“表”に戻ってくると、芳野は言葉少なだ。
俺の手をほどき、立ち上がって椅子の向きを戻す。それからバッグを肩に引っかけ、
「また、明日」
彼女は颯爽と去った。
なかなか目を開けることができなかった。
まぶたの裏に西日が差して、視界を赤くする。
「明日、か」
何のためにこんなこと、続けなくちゃならないんだ。
“干渉者”ってのが何なのか、イマイチよく分からない。
俺に何をさせようとしてる?
『必要なのは“悪魔”と戦える“干渉者”』だと彼女は言った。
もしかして、もしかしてだけど。目の前にモンスターが現れて、それをぶった切るような事態に遭遇する危険性があるとでもいうのか。あんな、平和そうな世界で。
――『“干渉者”は“悪魔”を倒すために存在している』
――『この世界を滅ぼそうとしている“悪魔”を倒すためには、“イメージを具現化”し
て武器を手にしなければならない』
聞き流していた言葉が今になって染みこんできた。