28.予期せぬ訪問者
美桜が俺のことをどう思っているのか、未だわからない。
優しくしてみたり、かと思えば突き放してみたり。コロコロ変わる態度に振り回され、いい加減しんどくなってくる。彼女につきまとわれたここ数か月、むしろよく我慢していたと自分を褒めたいくらいだ。
誘うだけ誘っておいて、何が『レグルノーラに行かない方がいいと思うわ』だ。本当は、そのことについてもっと話がしたかったんじゃないのか。
強がったってすぐにわかる。
ここしばらく、“向こう”には飛んでいない。目が覚めてからも、変な頭痛と吐き気に悩まされていて、それどころではなかったからだ。
だが、あんな言い方をされたんじゃ、かえって気になるというモノだ。
家に帰ったら一度、“レグルノーラ”に飛んでみよう。俺はそう自分の心に誓って、美桜のマンションから自宅までの、緩い下り坂を進んだ。
高い夏の日差しが肌を刺す。夕暮れの時間帯になっても小学生や中学生が楽しそうにチャリで行き交うのを、道中多く目にした。自分にも、何の迷いも悩みもなくああやって遊びほうけていた時期が少なからずともあったのだと思うと、自然に溜め息が漏れる。
あれもこれも、全て美桜のせいだ。
畜生。あの美貌に惚れていたのは嘘じゃないが、あんなに面倒な女だったなんて思いもしなかった。
芝山や北河は、ある意味救われている。
ただ、本人たちにそう告げたところで、新たな誤解を生むだけだろう。
美桜は、遠くから見ている分には、とてもいい女なのだ。
彼女と深く絡んでしまったからこそ、はっきりと実感できる。
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玄関の鍵を開け、ただいまと小さく一声、中に入った。
坂の下にある住宅街、両親が中古で買った生活感の溢れまくる小さな一軒家。以前は十も離れた兄と俺、両親の四人で住んでいたが、五年前兄が独立して家を出てからは、三人暮らし。元々年が離れていたこともあり、殆ど一人っ子同然で過ごしてきた俺にとって、兄の存在はないのと同じ。この前入院したときだって見舞いにも来なかったらしいが、別に寂しくもない。
横幅の狭い階段を上がり、自室へ。向かい側には以前、兄の使っていた部屋がある。今は開かずの間だ。
誰もいない家は、締め切っていたせいもあって生温い。いや、生温いを超え暑苦しいが妥当かもしれない。早く部屋に入って、エアコンを付けて涼もう。そうすれば、少しは気が晴れるかもしれない。
リュックの肩ひもを左にずらし、よいしょと右手で自室のドアノブを開けようとしたとき、ふいに背後でギィと妙な音がした。
――なんだ。
まだ誰も帰ってこない時間。猫や犬もいないのに、まさか床を踏みしめるような音、聞こえるはずがない。とうとう耳までおかしくなったのかと、肩をすくませ、ゆっくり振り返る。そこには。
「兄貴。いつ帰ったんだよ」
玄関に靴など、あっただろうか。見落としたのか。
向かいの部屋から顔を出したのは、兄、浩基だった。襟元のネクタイを緩め、よぉと右手で小さく合図している。
「可愛い弟が入院してたのに、全然見舞いに行けなかったからさ。仕事が偶に早く終わったんで、様子を見に来たんだよ。悪いか」
軽いノリ。俺と違って爽やか風のイケメンは、社会人になって更に格好良くなっていた。スーツ姿なんて全然見たことはなかったが、妙に決まっている。細身にピッタリと合ったシルエット。如何にも“仕事のできる男”に見えた。
「悪いとは言わないけど、連絡くらい寄こせよ。第一、父さんや母さんのいない時間に来たって、俺は相手にできないぜ」
兄が構ってくるのを無視して自室に入り、机の上に荷物を下ろす。
エアコンのリモコンスイッチを押して、グィーと起動するのを確認し、涼しい風が降りてくるのを待った。
俺はどうも、この“兄”という存在が苦手だ。
だのに彼は、許可なく俺の部屋に入り込み、勝手にベッドの真ん中に腰を下ろした。
「かなり長い間昏睡してたらしいって聞いてさ。大丈夫なのかよ」
本気で心配していたのかは不明だが、兄は社交辞令のように訊いてくる。
ワックスで整えた髪と、ベッドの上で組んだ長い足が気に障り、俺はイラッとして突き放すように答えた。
「それなりに大丈夫だから、今日は学校行ったんだよ」
フフンと、兄は面白くなさそうに笑う。
「それなりに、ねぇ……。十代だからって余裕ぶっこいてるとさ、痛い目に遭うよ? ……なんて、お前に言ってもわかんないと思うけど。ところでさ、彼女できたって? かなりの美少女らしいじゃん。どうやって口説いたんだよ」
俺の体調よりも、そっちが気になって現れたんじゃないだろうな。さっきとは打って変わって口元を緩ませ、目尻を下げてこっちを見ている。
美桜のマンションで機嫌を悪くしてから、あまり人と絡みたい気分じゃないってのに。
なるべく兄の方を見ないようにリュックの中をガサゴソ漁り、課題やら提出物やらをチェックするフリをする。
「口説いた……ってわけじゃないし。成り行きというか」
「成り行きで美少女と出会えるなら、俺も高校生に戻りたいけどな」
「そういう関係じゃないし」
「じゃあ、どういう関係だよ。お前、女には興味ないみたいな顔してるけど、本当はやることやってんだろ」
「違うし」
しつこい。本当にしつこい。
こういうところが大嫌いだ。
やっぱり、心配だったからじゃなくて、面白半分で来たんじゃないか。
「――あのさ、用がないなら、帰ってもらってもいいかな。俺も、それほど暇じゃないんだけど」
「私も、それほど暇じゃないんだがね」
目を、疑った。
今まで兄の座っていたベッドの上に、見覚えのある黒人女性。赤いドレスが印象的だったレグルノーラの……。
「ディアナ。なに、して」
ドクンと、大きく心臓が鳴る。
よろけ、椅子に当たって尻餅をつく。
燃えるような赤と野性的な黒が、大きく目を見開き、腕を組んで俺を監視していた。
「あれしきのことで、随分と長い間意識を失っていたようじゃないか。お前がどっちの世界にいるのか、不安になってあちこち走り回ってしまった。よりによって本当に生死をさまよっていたとは。もう少し、精神を鍛えた方が良さそうだな」
胸が……、締め付けられる。
彼女の右手に心臓を掴まれていたのを、思い出していた。
脂汗が滴り、頬を伝ってぼたぼた落ちてくるのがわかった。
「兄……貴は。あれ、さっきまで」
「お前の兄は、今頃まだ会社にいるはずだ」
「え、じゃあ」
「私が化けていたのにも気付かず、本当の兄だと思って喋り続けていたわけか。愚かしいことだ。目の前に見えるものだけを信じているウチは、たとえ力を持っていたとしても、意味がない。常に物事の本質を見抜こうとする努力と、注意力が必要だ。これでは、なんのために“能力を解放”させたのか、わからないではないか」
ギュギュッと、見えない力が心臓に負荷をかける。
“干渉者はイメージを具現化できる”のだということを、俺はすっかり忘れかけていた。
“力”も“武器”も“容姿”も、出そうと思えばヒョイと出せるし、変えようと思えばなんにだって変えられる。高い能力を持ったディアナなら、俺の兄に姿を変えていてもおかしくない。
が……。突然見抜けなんて、無茶だ。
「お前が気を失っている間、こっちは気が気じゃなかった。魔物が溢れ、“ダークアイ”も時折姿を見せる。市民部隊の力で食い止めてきたが、そろそろ限界も近い。早く対処しなければ、取り返しの付かないことになる」
息が、苦しい。
頭痛も同時に襲ってくる。
身体を丸め、床にうずくまって必死に痛みを堪える俺の直ぐそばまで、ディアナが歩み寄ってきた。
「身体が痛むのは、二つの世界で能力を発揮することができるようになったことに、肉体が対応できていないからだ。自在に力を操れるようになれば、自然と痛みは和らぐ。要は、“慣れ”、だ」
「そんな、簡単に、言われ……も……」
こっちは声を振り絞るだけでやっとなのに、何を言い出す。
嫌な……、予感がする。
「また、美桜の所にいただろう」
ボソッと、ディアナが呟く。
俺はハッとして、顔の向きを変えた。
以前、美桜には近寄らないよう警告されていたのを思い出した。が、俺に拒否権などない。どれをどう説明すれば信じてもらえるのか、とっさに考えようとしたが、言葉が出てこなかった。
「美桜も相当お前に惚れ込んでいるようだったからな。『凌に何かしたでしょう』と、凄い剣幕で怒鳴り込んできた。アレを振り切るのは、お前には難いだろう。距離を置こうとしても、向こうが近づいてくるのでは、どうにもできない。それはそれで、よしとしよう」
フゥと、彼女は少し、息を吐いた。
「それより、だ。――いつまでも、ゆるゆると身体を休めているわけにはいかないな。“解放した力”をコントロールできれば、心にも余裕が出る。そうすれば、今日お前が見た“黒いもや”の正体も、それが“二つの世界”にどう影響を及ぼしているのかも、よりしっかり分析できるようになる」
床に伏した顔の真ん前に、ディアナの素足が迫っていた。小指の爪までしっかりと、赤いペディキュアが塗ってある。
と、不意に赤いスカートの裾がフワッと降り、足を隠した。
彼女は屈み、半袖ワイシャツからはみ出した、俺の右手の刻印を、ゆっくりと撫ぜ始める。黒い手に嵌まった赤い指輪が、視界を右往左往した。“我は干渉者なり”とレグル文字で刻まれた刻印は、ジリジリと熱を帯び、俺に更なる苦痛を与えてきていた。
「お前のことはある程度“向こう”で観察していたのだがね。隙が多すぎる。“兄”の存在も、お前の自己否定的な人格を形作ったものの一つらしいじゃないか。苦手なモノを克服しようとせず、逃げてばかりいてはなにも変わらない。……そうだろう」
「だからって、なにも兄貴に化けること」
「――敵が、お前の弱点を知っていながら放置すると思うか。お前の隙や弱点を突いて、更に卑怯な手で襲ってくるとも限らない。苦しみに耐えている今こそ、お前は次の段階に進むべきだと言っている」
細めた目で、恐る恐るディアナの顔を見た。
やっぱりだ。笑って……いる。
行かなきゃと思ってはいたが、これは、完全に強制連こ……。
「わかってるじゃないか。目を閉じろ。今からお前を、“砂漠”に連れて行く」
「さ、さば……って、あそこは人の行く所じゃ」
「だから行くのさ。そこでしばらく、自分自身と戦うがいい」
ガバッと、彼女の柔らかい手が、無理やり視界を塞ぐ。
俺は慌てて、強く目を閉じた。
□■━━━━━・・・・・‥‥‥………
ディアナは、乱暴だ。美桜より、ずっと。
しかも力が強すぎて、全く抵抗できない。
俺はただ、為す術もないまま、意識を失う。
そして、目が覚めたとき、俺は――。
………‥‥‥・・・・・━━━━━□■
広大な砂漠の真ん中に、落っことされた。
ジャリッと、口の中に入り込んだ砂を誤って噛み、ブルッと背筋を振るわせて口から吐き出す。細かい砂は鼻からも入ってきそうで、俺は息を止めて立ち上がり、全身の砂を払った。
立ち上がると少し沈むが、足を取られて進めないほど歩きにくくはない。
こんなときにも、俺の頭のどこかは冷静に働いていたらしく、格好は半袖ワイシャツにスラックスという高校の制服のままだったが、無意識のうちに足にはスニーカーを履いていた。が、正直なところ、縫い目から砂が入ってきそうでなんだか頼りない。
「目が、覚めて早々なんだがね」
振り向くと、赤いドレス姿から少し身軽になったディアナがいた。やはり赤を基調とした薄い布地を上半身にまとい、赤いショートパンツ、素足に編み上げのサンダル。長い髪は緩い三つ編みに結ってある。ここまでくると、ああ、確かにあのサーシャの母親だと納得する。森で見かけた彼女に、ディアナはそっくりだった。
「お前の力を最大限に発揮する方法を、いろいろ考えた。“表”では周囲に迷惑がかかるだろうし、街中にはダークアイ始め、様々な魔物も出没する。むしろこの砂漠の方が、自由にやれていいんじゃないかと」
「自由にって、言われても」
ハァとため息を一緒に吐いた、そのとき。
ディアナの背中越しに、遠くで砂煙が上がっているのが見えた。ザバッと、砂嵐が時間差でゆっくりと近づいてくる。あれは、なんだろうか。
「腹を空かせたサンドワーム、砂蟲だ」
「サ、サンドワーム?!」
思わずディアナの表情を確認した。
涼しげな様子で、なにかおかしいことでもと首を傾げてくる。
「餌が極端に少ないからね、ここは。生命反応に気付くと、一心不乱に向かってくる。ヤツらを倒しながら、うまいこと砂漠から脱出する……ってのはどうだろう。なかなか面白いとは思わないか」
耳を、疑った。
しばらくの間全く反応できず、砂嵐を呆けて見ていた。
サンドワームは、この世界に飛んでくるとき何度か目にした。かなりの巨体で、砂の中を自在に動き回るくねくねした大ミミズだ。ディアナのいた塔の展望室からも微かに見えたのを、何となく覚えている。
――アレと、戦えと。
「で、でも俺には、なんの装備も。っていうか、どうやってあんなの倒せばいいんだよ」
喋っている間にも、喉はどんどんと渇いてきていた。
空はすっかり雲で覆われていて、暑さもそうだが、変な湿っぽさが辺り一面漂っている。所々に草の枯れたような跡や、大きな岩、骨のようなモノが見え隠れしていて、俺の想像していたような砂漠とは、ひと味もふた味も違った、妙な場所だ。
こんなところで、一人にするつもりか。
まだ、頭痛で頭はフラフラしてるってのに。
身体の底からも、怠さが抜けてないってのに。
「お前は、“干渉者”だ。ならば、どうしたらいいか、わかるだろう」
また、無茶振りか。
「わからないから、困ってるから聞いてるんであって」
「“干渉者はイメージを具現化できる”。忘れたか」
「忘れは、しないけど」
「ならば問題ない」
ニヤッとディアナは楽しそうに笑い、何も持っていなかったはずの手のひらから、大きなモノをドサッと投げ落とした。
茶色い布袋が、二つ。
片方からは、落ちるときにポトンと液体の音が。
「水と、食料を、少しだけ与えよう。私からの餞別だ。――それから、大事なことを言い忘れていた」
屈んで布袋を拾おうとしている俺の真上で、ディアナが言う。
「集中力が途切れて一旦“表”に戻る……なんて、砂漠の中じゃできないからね」
――え?
拾いかけた布袋が、手の中からずり落ちた。
待って。じゃ、場合によっては何日も、何か月もここに。
「脱出する方法は、二つ。一つは、砂漠を抜けて、森へたどり着くこと。上手くいけば市民部隊のキャンプに合流できる。あと一つは」
そこまで言って、ディアナは少しだけ間を置き、
「帆船と出会うこと」
「帆船?」
「この広い砂漠とレグルノーラの謎を解こうとする大馬鹿野郎どもが、徒党を組んで海賊まがいのことをやっている。彼らと無事に出会えれば、或いは助けてもらえるかもしれない」
“上手くいけば”。
“かも、しれない”。
言葉の端々に怪しいモノを感じて、俺はディアナに飛びかかりそうになった。
「知っているとは思うが、“二つの世界”で、命は繋がっている。蟲に喰われ、命を落とすなんて無様な最後、迎えたくはないだろう」
ニヤリと、さも楽しそうに。
そんなに長い間、俺の精神が“レグルノーラ”に居続けられるわけがない。
現実を見ろ。
どう考えても、おかしいじゃないか。
「悪い冗談だろ。俺、長くても“裏”にいるの、半日が精一杯なんだけど」
手に掻いた汗を、ギュッと握る。
焦るな。こんなところで水分を無駄に消費して、どうするんだ。
「本気だよ。短期間で力を操れるようになるには、多少無理も必要ってもんさ」
スッとディアナは右手を挙げ、ピィと左手で指笛を吹く。
「安心しな。街と砂漠とじゃ、時間の流れが全然違う。お前が心配するほど長い時間拘束するつもりは毛頭ない。が、早く脱出するに越したことはないだろうよ」
くるんと、掲げた指で宙に円を描くと、大きな赤い影がディアナの頭上に現れた。
竜だ。
真っ赤な竜が大きな翼を広げて、羽ばたいていた。
ブワブワッと、羽を震わせるたびに砂煙が立つ。
煙から逃れようととっさに腕で口元を塞いだが、細かい砂埃は容赦なく気管まで入り込んでくる。
むせて苦しんで倒れ込む俺に、ディアナは明るく最後の言葉をかけた。
「健闘を祈る。どのくらいの早さで脱出できるか、楽しみにしているよ」
ヒョイと身軽に竜の背に乗った彼女は、にこやかに手を振っていた。
再度の、指笛。
竜は空高く上がり、バサバサと合図のようにわざとらしく羽ばたいた後、街へ向かって消えていった。