24.抵抗は、許されない
「お……、おっしゃる意味が、よく、わからない、んですけ、ど……」
見知らぬ熟女と二人っきりで、ただでさえ緊張していた俺の口からは、スラスラとセリフが出てこない。
美桜と一緒にいるなと、そう聞こえたんだが、気のせいか。
「美桜は危険だ。お前はあの娘のことを、何も知らなさすぎる。違うか?」
――いや、やっぱり気のせいなんかじゃない。そう言ってたんだ。
ディアナの厳しい視線に耐えきれず、俺はスッと目を逸らす。言われなくても、そんなことは自分でだってわかっているのだ。
彼女は俺の嫌がる顔を見て何か思ったことがあるらしく、ふぅとまた長く息を吐いて、ゆっくり腰をソファに戻した。
「あの娘がこの世界に浸りすぎているのには理由がある。あの娘の母親も“干渉者”だったからだ。物心つくずっと前から“二つの世界”を行き来してきたのだから、ここを第二の故郷とでも思っているのだろう。今は息をするのと同じ感覚で、簡単に“こっち”に飛んでこられるようになった。潜在的なモノもあるだろうが、あの娘の場合、いろいろと特別だからね。自然と“力”が身についたわけだ。そういう意味で、凌、お前とあの娘は根本的に全く別の種類の“干渉者”なのだよ」
一息に喋った後、ディアナはまたキセルを口にした。
桃色がかった煙が室内に拡散していく。
「“力”を手に入れたばかりでその扱いに困っている“駆け出し干渉者”は、自分の“力”を操ろうと必死になる。今お前は、身の回りで起きている様々なことに対応するので精一杯なはずだ」
そう……ですねと、俺は肩をすくめたまま軽くうなずいた。
何が言いたいんだろう。
俺はさっきの言葉が気がかりで、冷静に話を聞く気分ではなかった。
「“力”は“トゲ”だからね。使えば何かを傷つける。残念ながらあの娘には、そうした意識が欠けている。意図的にしようと思わなくても、ほんのちょっと場の空気が乱れただけで大変なことになることもあるってのに、私の忠告など聞きもしない。おごり高ぶっている。それがどれほど危険なことか理解しようともしないのだ。そんな娘と一緒にいるのを、私は決して良くは思わないね」
大事なことを言われている。
頭ではわかっているのに、その内容が中に入ってこない。
もしかしたら、意識の限界なのかもしれない。
もう長いこと“こっち”にいる。今までで最高記録。……いや、この前サーシャと料理したときも、それなりに長かった覚えが。でも、あのときはある程度リラックスできていたし、飯の美味さもあってそこそこ我慢できた。
だが今は……。
情報量が多すぎて変な熱が出そうだ。
まぶたが、重い。
視界が、ぼやけてきた。
まだ、大事な話の途中だってのに。
「残念だ。時間のようだな。本当はもっと話しておきたいことがたくさんあるのに」
ディアナの姿が、二重三重にダブって見える。
「続きは、“向こう”で」
そこまで聞くと、一気に視界が暗転した。
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ふと我に返る。
今どこにいるのか確認しようと身体を起こす。
机。俺の部屋。
……戻ってきたんだ。
集中力が途切れると、もう“向こう”にはいられない。レグルノーラの白い塔の上から、俺は一気に現実に戻された。
何故、あの場面で。
後悔の念がどっと押し寄せ、自分のふがいなさに呆れる。
これからが本番ってところで戻ってくるなんて、最低過ぎるだろ。ディアナは何を言いたかった。俺は、どうするべきだった。今考えたところで、もう一度自分の力で“向こう”に飛べるかどうか自信もない。
一度頭の中をリセットして体力の回復に努めないと、“向こう”に戻るのは無理だ。いや、一日に何度も飛ぶこと自体できるのかどうか。それに、戻ったところで、塔の上にピンポイントで飛べるわけがない。もう一度塔に向かうところからやり直し。
……ほんの、ほんの少し気が緩んだだけで、戻ってきてしまうなんて。
「焦るな。お前の力には、伸びしろがあるのだから」
え?
幻聴か。
グッタリして丸めていた背中をピッと伸ばし、思わず辺りを見回す。――と、赤と黒の何かが視界に入る。丁度俺のベッドに腰かけ……て。
「ディアナ!」
赤いドレスをまとった黒人女性が、足を組んで俺を見ている。
キセルを咥えた彼女がぷぅっと息を吐き出すと、“向こう”で嗅いだのと同じ花の香りが部屋中に広がった。
「お前の方は時間切れらしいが、私はお前にまだ、伝えたいことがあるんでね。悪いけど、“こっち”に来させてもらったよ」
ニヤッと口角を上げ、ウインク。大人の魅力にドキッとしたが、今はそれどころではない。
ディアナときたら、土足の、ブーツのままだ。大体、俺の部屋まで飛んで来て、こんな花の匂いプンプンされたんじゃたまったもんじゃない。
壁かけの時計をチラッと見る。俺が電話で美桜に起こされ、“向こう”に飛んでから随分経っている。もう昼だ。“裏”にいた時間はどれくらいだったのか。この分だと、“あっち”から戻ってきて直ぐに目を覚ましたわけじゃなさそうだ。それだけ精神力を消耗したってことなんだろう。
「駆け出しにしては踏ん張った方だと思うがね。私たちレグルノーラの人間は、お前が思うよりもずっと多くのことを、お前に望んでいるのだ。私はそれをお前に伝えなければならないし、お前にはこれから更に力を付けてもらわなくてはならない」
ディアナはそう言って、すっくと立ち上がった。ブーツのヒールがカツンとフローリングに当たる。
「あ、あの……。言い出しにくいんだけど、土足はちょっと……」
恐る恐る、上目遣いにお願いすると、
「ああ、そういう文化だったね。失敬。それなら」
ディアナはほんの少し天井を見上げ、うんうんとうなずいた。
キセルを咥えてパチンと指を鳴らした途端、彼女の足からブーツが消え、長い足があらわになる。ガーターベルトで留められた網タイツが、やたら色っぽい。
「これでよかろう」
いや、良いかと言われると、あまり同意はできないが仕方ない。
場にそぐわないドレスもどうにかして欲しいと心の中では思っても、言葉にすることはできなかった。開きっぱなしのカーテンをチラッと見る。向かいのアパートには人気なし。とりあえず、ここから出ない限り気にする必要がなさそうなのがせめてもの救い。
「で、話を戻すが……、凌、お前は、自分の“本当の力”について、興味はないか」
「そ、そりゃ、なくはない、です、けど」
言葉を濁す俺。
突然、何を言い出すんだこの人は。
「人間は、持って生まれた全ての能力を、常に発揮できているわけではない。それは、“表”であろうが“裏”であろうが同じこと。身体の奥底に隠された能力を、如何に引き出すか。――切っかけが必要だ」
ディアナはそう言って、にやりと笑いを浮かべる。それからゆっくり歩み寄り、椅子の上で固まっている俺の真ん前にグッと顔を近づけた。
「切っかけさえあれば、鍵のかけられた能力の扉も簡単に開く。鍵さえ開いてしまえば、後はその使い方を覚えるだけ。何、難しいことはない。ほんの少し苦しいだけだ。その苦しみに耐えられれば、第二関門突破。そしたらお前はもっと強くなるし、上手く行けば“表”でも“裏”でもある程度の“力”を使えるようになる。……どうだ。面白そうだとは思わないか」
ドレスの胸元から、谷間がくっきりと見える。艶やかな黒い肌に、窓からの日差しが当たって丸みを更に強調させていた。
俺は必死に後ろ手で身体を支え、豊満な胸と唇の攻撃に耐える。
「思……い……、ます」
違う意味で妙に興奮してしまう。
理性を保て。内容を飲み込むんだ。
「本来発揮されるべき“力”を、お前がどれほど隠し持っているか、私はさっき垣間見た。いろんな“干渉者”を見てきたが、お前は実に面白い。美桜が興味を持つのもわかる。が、あの娘には、お前の“力”を引き出すことはできないだろう。お前が自分と違う種類の“干渉者”であることに、あの娘は気付いてないからね。……私なら、お前の“能力の解放”の手助けをすることができる。やってみる価値があるとは思わないか」
ディアナは机の縁に腰かけて、キセルの先をクイクイ押し上げる。俺に同意を求めているようだ。柔らかい煙の匂いが、鼻の奥まで届く。
彼女の言うことが気にならないわけではない。
ジークも言っていた。“能力の解放”とやらが実現すれば、俺はもっと強くなれるのだろう。が、まだ“干渉者”として“裏の世界・レグルノーラ”に飛ぶようになってから数ヶ月。俺のような駆け出しが、そこまで期待される必要はないはずだ。
ジークといいディアナといい、レグルの連中は一体何を焦っているんだ。
冷や汗がたらりと、あごを伝う。
ギリッと奥歯を噛んで答えに窮していると、ディアナは皆まで言うなと小さく笑った。
「私たちレグルノーラの人間が、どうしてお前なんぞに頼らなければならないのか。なるほど。その疑問、わからなくはない。“裏”のことは本来“裏”のみで解決するべきなのだからな」
俺の気持ちを見透かして、ディアナはそう続けた。
「忘れて欲しくないのは、“表”と“裏”は一体であること。片方だけで解決できる問題ではないのだ。特に、“悪魔”に関しては。その脅威が“表”からのモノである以上、私たち“裏の人間”にはどうすることもできないことが出てくる。同時に、“裏”が関係している“表”での異常は、“表の人間”だけではどうにもならない。お前が知っている範囲だけで異常が起きているわけではないのだ。様々な事柄が積み重なり、簡単には解決できない状態になってしまっている。“表”と“裏”で協力し合うためには、互いの事情をよく知り、きちんと物事の善悪を判別できる優秀な“干渉者”が必要だ。お前はその、候補だ」
彼女の鋭い目が、更に細く光った。
候補。候補って何だよ。急にそんなこと言われても。どれだけ俺のことを担ぎ上げれば気が済むんだ。
ディアナは、俺の胸ぐらをむんずと掴み、ベッドの上に放り投げた。力が抜け、抵抗できない俺は、いつのまにかディアナに押し倒されていた。左手で身体を支え馬乗りになった彼女の下で、俺は仰向けのまま身動きひとつできないでいる。彼女の長い緩やかなウェーブの髪の毛が、俺の顔の直ぐ近くに垂れていた。
獲物を捕まえたら離さない。そんな確固たる信念でここに飛んで来たのだと、彼女は全身で訴えてくる。
つまり、俺にはもうYESの選択肢しかない。
思い返せば今までだってずっとそうだ。
“レグルノーラ”の存在を知ってから先、俺には何の主導権もなくて、拒否権もなくて、ただひたすらに周囲に従っていただけ。
俺は本当にただ巻き込まれただけなのか。まさか、最初から決まっていたなんてことは、ない、んだよ、な……?
「確かに、“表の世界の干渉者”はお前と美桜だけではない。他に何人も存在する。――だが、求めている人物像にピタリと重なることは稀だ。お前ならば、“レグルノーラ”を“悪魔”から救える。私の与える試練に耐えることができれば、だがな」
また。
また美桜と同じことを。
「“美桜と同じこと”。そりゃ当然だ。あの娘も、同じことを願っているのだから」
――心を、読んでる。
美桜もそうだった。俺が思っていることを全部見透かしているかのように、答えを返してくる。
「ただ、最終目的は一緒でも、私たちレグルノーラの人間と美桜とは、相容れることはない。そこに、いずれお前自身も気付いていくだろう。答えは自分で探すものだ。全て与えられるモノではない」
近い。
ディアナの顔まで、ほんの十数センチ。
息が、花の香りでいっぱいだった。葉たばこの匂い。麻薬を含んでいるような、幻覚症状を誘う甘ったるい匂い。
ニタッとまた彼女は笑って、口の横でキセルを吸った。
そして長く息を吐き出し、俺にめいっぱい煙を浴びせる。
「覚悟は、できているのだろう」
スッと、彼女の右手からキセルが消えた。
何をするのだろう。思った矢先。
ディアナは大きく身体を反らし、俺の胸めがけて右手を突っ込んだ。
――ま、さか。
突っ込めるはずなんてない。ないのに。
彼女の手はTシャツをすり抜け、皮膚を通り抜け、肋骨を抜け、その先にある心臓へ。
痛みなど、感じている暇はない。
ヌチャッと、黒い手が心臓を掴む。掴まれている。はっきり、そう感じ取れる。
俺は息をするのもまばたきするのも忘れて、呆けたようにディアナの目を見ていた。表情のない、冷たい目。
ギュッと、更にディアナは、強く心臓を握った。
鼓動が乱れる。血圧が上がっていく。頭がぼうっとして、物事を冷静に考えることができない。
無意識に、俺は彼女の腕を抜き取ろうと足掻いていた。両手で彼女の右腕を掴み、なんとか自分の身体から引きはがそうと。それは本能的で、自分でそうしようと思っていたわけではないのだけれど、
「抵抗は止めろ」
ディアナは低い声で言った。
心臓を掴む右手の力が、また増した。彼女の長い爪が心臓に食い込んでいく。
死んで、しまうのか。
このままでは心臓が破裂する。そうしたら、“裏の世界”へ行くどころか、“こっち”でだって生きていけない。
視界が徐々に狭まってくる。暗く、真っ黒な世界に誘われていく。俺はまだしっかりと目を見開いているのに。どうして。どうしてこんなことに。
喉の奥から捻り出したような声を、自分自身が上げていることに気付く。
苦しい、嫌だ、死にたくない。
音も、感覚も、徐々に失われていく。
「しぶといな」
知らない。そんなの知ったこっちゃない。
俺はただ死にたくない一心で、最後の力を振り絞ろうとしていた。
心臓が、痛い。血の気が、どんどん引いていく。
助けて。
誰か。
「――チッ。仕方あるまい」
すっかり視覚を失った俺の眼前に、ディアナの顔が迫った。
唇が、ふさがれる。
まるで息をするなと言わんばかりに、彼女の唇が重なっている。
口の中に吹き込まれた彼女の息は、鼻を通り、肺に達し、身体の隅々まで広がっていった。
花の匂い。神経を麻痺させる麻薬のような危険な香り。
意識が、薄れていく。
いつも“裏の世界”へ飛ぶのとはまた、違った感覚。
俺は、俺という存在は、このまま消えてしまうのか。
全身から、力が抜ける。
俺の意識は少しずつ、身体から離れていった。