19.覚醒
ドンと、背中が塀に付いた。
俺は完全に退路を断たれていた。
体育館を囲う木々の間を抜け、高い塀のギリギリまで攻められて、これ以上後ろに下がることができない。冷たいコンクリート塀の感触が危機感を煽った。
北河は黒いもやを纏わせながら未だギラギラと目を光らせている。ペロンと舌なめずりしてナイフをちらつかせ、ニヤリと口角を上げる様子は獲物の追い詰めた肉食獣のようだ。
「もう逃げられないぜ?」
このまま塀伝いに逃げたところで、いずれ捕まって刺されるのは目に見えている。
どうする?
大人しく刺された方がすんなりが収拾する?
そんなのは嫌だ。
俺はスッと、壁に付けていた両腕を顔の前でクロスさせた。
目を瞑る。自分の吐息と心臓の音が、耳に響く。
「観念したか? そろそろ、お終いだな」
違う。まだ、終わってない。
力を、溜めろ。
次の攻撃と同時に、カウンターを仕掛けるんだ。
大丈夫。できる。
自分を信じろ。
気絶……させればいい。あのナイフをはじき飛ばせば。
簡単なことだ。武器を具現化させるより、ずっと単純で、容易なこと。
“レグルノーラ”にいると思えばいい。自分が今、“裏の世界”で、傷つけてはいけない何かと戦っていると思えば。
身体の奥底から力をひねり出す。湧き出たエネルギーを、両腕の交差部分に集中させる。ギリギリまで、できるだけ多く――!
ザザッと、草をこするような音がした。北河が動いた。
目を開ける。
北河の右腕が高く上がった。身体を大きく反らせ、勢い付けてナイフを振り落としてくる。迫る、迫る、迫る。
――今だ。
「行けえぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!」
両腕を思いっきり突き出した。
ブワッと、北河の身体が向かい風に煽られて宙に浮く。
――出た。風だ。
大きな風の塊が、北河の身体を吹き飛ばす。
エビ反りになったその手から、ポロリとナイフがこぼれた。
ズザザザザッと草の上を北河の身体が滑り、勢いよく転げていく。ようやく着地を終えた頃には、黒いもやはすっかり消えていた。
やった。
できた。
腕が、痛い。
指先まで、変に痺れている。
力を使い果たし、満身創痍の状態でフラフラと北河の意識を確かめに歩み寄った。死んでいるわけではなさそうだ。心臓も動いているし息もある。ただ、髪は乱れ、顔は擦り傷だらけで、せっかくのイケメン面が台無しだった。
少し離れたところに二つ折りのナイフが落ちていた。コレで俺を脅して、コイツは一体何を成し遂げたかったんだろう。美桜を奪われた腹いせ? 美桜のことが、好きで好きでたまらなかったって、そういうことなのだろうか。
よく……わからない。
息が、苦しい。
頭が、回らない。
駄目だ。
“裏”ならともかく、“表”でこんなに動いちゃ。
目が、目が開かない。
空が、木々が、クラクラと回って見える。
バタバタと、複数人の足音が遠くで聞こえた。口々に何か喋っている。騒ぎが知れたのか。せっかく人目の付かないところに来たってのに。
足に力が入らず、俺はべたりとうつぶせになって倒れ込んだ。
限界だ。
部外者が見たら、一体、この現場をどう思うのだろうか。
一本の、血の付いたナイフ。長袖シャツの袖を切られた俺。そこから垣間見える刻印。そして、なぎ倒された生徒たち。
変な入れ墨を見られて逆上した俺が、他の五人をぶっ倒したように見えなくもない。
――それでも構わない。
どうせ俺は嫌われている。今更、噂にどんなヒレが付こうとも、傷なんて付かない。
それよりも、こんな格好で見つかれば美桜に迷惑がかかる。俺の彼女だなんて変な嘘、吐かなければよかったのに。
馬鹿だな。
頭が良さそうに見えて、本当は全然、後先なんか考えてない。ただの、暴走女じゃないか。
「派手にやらかしたね、凌」
――誰だ。
「自分の世界で“力”を使うなんて、無茶が過ぎる。君はまだ経験が浅いってのに。それとも、美桜はこういうことも見越して、君を仲間に引き入れたのかな」
男の足が見える。革靴を履いた、男子生徒の足。
ゆっくりと体育館の横から、俺の方に近づいてくる。
逆光になって顔が全然わからない。
「心配しなくても大丈夫。刻印は誰にも見えない。“裏を知る者”以外にはね。もし、君の刻印のことを知るヤツがいたら、そいつは“干渉者”ってこと。わかる?」
わか……らない。何を言ってるんだ。コイツ。
聞き覚えのあるような、ないような声で、親しげに話しかけてくるなんて。
俺にそんな知り合い、いたか?
「美桜には上手く言っておく。君は何も心配することはない」
俺のすぐそばに屈んでそいつは言った。
誰だ。俺の秘密を知ってる、お前は一体……。
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目を覚ますと、白いベッドの上だった。
消毒の臭いがする。白いカーテン、青いパーティション。薬箱やファイルの入った白い棚。
保健室か。
あれから、かなり時間が経ったらしい。高かった日もすっかり落ちて、辺りは薄暗くなってしまっていた。冷たくなった風がゆっくりと窓から入ってくる。ぐったりした頭を冷やすのには、ちょうどいいくらいの温度だ。
枕の上で頭を左右に動かし、状況を確認する。
ふと、ベッドのすぐ横で椅子に腰かけこちらを見ている美桜の顔が目に入った。
「あ……」
言葉に詰まり目を逸らした俺に、美桜は優しく話しかけた。
「大丈夫? 大分うなされてたみたいだけど」
夢なんて見ている余裕もなかったけれど、もしかしたら、さっきの光景が無意識に繰り返されていたのかも知れない。
美桜はいつも通り表情を変えず、眼鏡越しにこちらを見ていた。
騒ぎを起こした俺のことを、彼女はどう思ったのだろうか。そう考えると、彼女の顔をまともに見ていることができなかった。
「来澄君、目を覚ました?」
パーティションの裏から、養護の島谷先生が顔を出した。小柄でほっそりした先生は、ニッコリと微笑んで、こちらを気遣うように小さな声で言った。
「北河君たちは大丈夫だったから。何があったか知らないけど、傷、浅く済んで良かったじゃない。もう少し酷かったら、警察沙汰だったわよ」
はいと小さく返事して、視線を美桜に戻す。
「御心配おかけしてます。彼には私から事情を説明しますから」
美桜は先生に対してそう言うと、身体の向きを直して俺の顔をじっと見つめた。
「一年の女子が数人、教室を出ようとしていた私の所に飛び込んできたのよ。『芳野先輩の彼氏が大変なことになってます』って。あなたが北河君たちに連れて行かれるところを見たって」
そういえば、囲まれた現場に見知らぬ女子が数人いた。彼女たちが美桜に教えてくれたのか。
「その子たちと一緒に生徒指導の片平先生を探して、あなたたちが向かったと思われる体育館の裏手に行ったら、既に周囲は人だかりになっていて。大騒ぎになってたわよ。体育館で練習中だったバレー部も、外から変な声が聞こえてたって」
ああ、そういえばそうだった。
体育館では女子バレー部が練習をしていた。あそこで何かがあったら、誰かに聞きつけられる要素は十分にあったのに。あのときはボールと練習の声が響いてて、そんなこと考えもしなかった。
「誰か、何か言ってた?」
「え?」
「俺が……何をしたか、誰か、何か言ってた?」
何のことかしらと、美桜は首を傾げる。
「俺がやったんだよ。北河たちをなぎ倒した。俺が全部悪い」
「……馬鹿ね。言ったじゃない。ちゃんと目撃者がいて、あなたは被害者だって先生たちもわかってくれたわよ。あのナイフに付いていた血だって、あなたのでしょう。切られた腕、痛まない?」
そう、腕。――腕!
俺はガバッと起き上がり、慌てて右腕を確認した。
包帯、包帯が巻かれてる。ってことは、島谷先生がコレを。
「どうしたの。何を慌ててるの」
「何って、そりゃ、腕のアレ」
「アレ?」
「アレだよ。“我は干しょ……”」
息を荒げて焦る俺を見て、美桜はプププッと肩で笑った。
「多分それ、私たちにしか見えていないわよ。“あっち”に用のある人にしか見えないって、私、言わなかった?」
「――ハァ?」
なんだそれ。早く言えよ。
っていうか、そういえばそんなこと、誰かにも言われたような。
「そうか、そうなのね。だから凌、六月に入ってもずっと長袖だったんだ。てっきり、そういう主義なのかと思ってたわ。夏でも半袖は着ない主義。この間ウチに来たときもそういえば長袖だったもんね。ごめんなさい。私、てっきり言ってたものだとばっかり」
笑いを必死に堪えて目に涙まで浮かべている。
もしかして俺、からかわれてたのか? 美桜のヤツ、ホント趣味が悪い。
「悪気はなかったのよ。でも、……ゴメン、本当に。凌ってば可笑しい」
身体を丸めて、美桜は本気で笑い出した。
こんなに可愛い笑い声を立てられると悪い気はしない。しない、けれども。
俺の、クソ暑いのにじっと我慢して長袖を着続けていた苦労は一体何だったのか。むしろ、真夏が来る前のこのタイミングでわかって良かったと思った方がいいのか。
力が抜ける。
さっきまで妙な緊迫感があったからか、身体の芯から力が抜ける。
でも、こういうのも悪くない。こういう場面だけ切り取ったら、本当に俺たち二人は付き合っているように見えるのかもしれない。
「んー……、ちょっと、ゴメンねぇ」
咳払いをした島谷先生が、俺たちを見ていた。照れくさそうに顔を赤らめて、まるで間の悪いところに来たみたいな顔をしている。
「片平先生が、来澄君のこと呼んでたわよ。具合が良くなったら、生徒指導室に寄ってから帰ってって」
「あ……はい。そうします」
居心地悪いのは俺も一緒だ。ぺこりと先生にお辞儀してふぅとため息を吐く。
体調は悪くない。
早めに切り上げて、家でゆっくり休んだ方がいいのかもしれない。
ゆっくりと布団をはがし、上履きを履いた。誰かが運んでくれたのだろうか、体育館裏に放り投げたリュックが、きちんとベッドの横に添えてあった。
「もし行くなら、そこまで付いてくわ。終わるまで待ってる」
美桜も、おもむろに荷物を持って立ち上がる。
「え……、いいのかよ」
早く帰らなきゃ、飯田さんが心配するじゃないか。
「あとで、ちょっと話したいことがあるから」
「お、おぅ」
多分、今日の騒ぎのことだ。わかっていつつも、ちょっとだけ“彼女っぽい”発言に、俺は無駄な期待を抱いてしまっていた。
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生徒指導室を出るなり、美桜は俺をひっ捕まえ、2-Cの教室まで引っ張った。そして無理やり手を繋ぎ、意識を“レグルノーラ”まで強引に引きずり込む。
しかも、教室と直接繋がっている小路の“ゲート”じゃなく、美桜の隠れ家、あの森の小屋へと引っ張っていかれた。完全に彼女の誘導で、俺は何となく拉致されたような気分になっていた。
生徒指導室での話は、思ったより簡単に終わった。
目撃者がいる。しかも、全く利害関係のない下級生だ。
相手が俺を脅すために持っていたナイフで、実際に俺の腕を傷つけたことも、俺に非がないという客観的な理由になったらしい。
相手側も、自分たちの方が仕かけたのだとあっさり認めたらしく、俺は事実確認と厳重注意ぐらいで済んだ。
当の北河はというと、途中から記憶がすっぽり抜けてしまっていて、気が付いたらあの場に倒れていたのだと証言したらしい。あの黒いもやもやが、もしかしたら北河の意思とは裏腹に肉体を操っていた……なんて、そんな漫画みたいな話はないだろうが、とにかく、何とか場は収拾した。
「その話が本当だとすると、あの場所が問題だったのかもしれないわよ」
美桜は言う。
「あの場所?」
「忘れたの? 体育館の裏は、“ゲート”の一つ。“表と裏を繋ぐ場所”よ。教室より不安定だけど、“裏”の影響が出やすいところ。もしかしたら北河君は、“ゲート”のせいで暴走したのかも」
事前通告もなく連れて行かれたことで、俺は頭がぼんやりし、彼女の話がすぐには理解できなかった。
「北河君自身があなたに敵意むき出しだったのは間違いないとして、彼に“干渉能力”があるとはとても思えない。そんな臭い、しなかったもの」
また、“臭い”か。
前にもそんなことを言っていた。そもそも、“干渉者の臭い”ってなんだ。そんな抽象的なもので、どうやって敵を見つける気だ。
「あいつ、美桜の彼氏が俺だってことに相当腹を立ててるみたいだったけど。何か、前にあったとか」
レグルノーラでも日が落ちて、辺りは薄暗くなっていた。
小屋には相変わらず電気はない。美桜が棚の上から引っ張ってきたロウソクをテーブルの上にのっけて、ほんの僅かな明かりを頼りに話し込んだ。どこからともなく、羽虫が光を求めて寄ってくる。薄闇の中で、小屋のテーブルだけがくっきりと浮かび上がっていた。
誰にも聞かれたくない話をするには確かにちょうどいい場所かもしれない。だが、虫の音や獣の声がはっきり聞こえる森の中に二人っきりっていうのは、いろんな意味で、あまりよろしくないような気がする。
ちょっとでも不純なことを考えれば、理性が吹っ飛んで彼女を押し倒したくなるだろう。だが当然、美桜は俺がそんな目で見ているだなんて、微塵も考えていない様子。神妙な顔でロウソクの炎の先を見つめている。
「高校に入ってすぐ、告白されたわよ。『付き合ってほしい』って。もちろん断ったけど」
やっぱり。そうかなと思った。
北河のことはあっさり振ったのに、俺と付き合っていると明言した。だから心底腹を立てていたってわけか。
「全く親しくもない人に突然告白されても、付き合おうなんて思わないでしょ、普通」
それはそうかもしれないが。
プライドの高い北河が激高するのも、わからなくはない。
美桜はいつも通り、冷たくあしらったんだろう。それをずっと根に持っていたからこそ、ああいう行動に出てしまったのだ。
「で……、『“ゲート”のせいで暴走した』ってのは」
「臆測だけどね」
グッと背筋を伸ばし、両肘をテーブルについて、美桜は眉間にしわを寄せた。
「“ゲート”は、一番“もうひとつの世界”に近いところだから、感受性の高い人や潜在的な能力がある人は、その影響を受けやすいのよ。教室でなら“こっち”に飛びやすいのと一緒で、体育館の裏も、教室ほどではないけど“ゲート”としての力のある場所だし、力を発揮しやすいのだと思うの。凌は……、凌自身は、何か変わったこと、なかった?」
「それは――」
ふと、頭の片隅に風のイメージが湧いた。
そうだ。北河を吹き飛ばした。
ついでに言えば、他の四人から殴りかかられたときだって、身体が軽くて勝手に動いていた。
「なんとなく、その」
しかし、あれをどう説明したらいいのか、はっきりとはわからない。
「変わったことがあったといえばあった、けど。それがそうだったとは」
あのとき、どうして“表”でも“力”が使えると思ってしまったのか。今考えれば、なんて無謀なことをしてしまったのだと反省するばかり。何も起こらなかったら、俺はもっと傷ついていたし、北河も注意じゃ済まなかった。完全に、傷害事件に発展していた。
「――ジークが、現場を見に行ったらしいけど」
「え?」
「あなたが“力”を使った形跡があったって」
今、今なんて言った? ジーク?
俺は思わず椅子から立ち上がり、身を乗り出して彼女の目を見た。嘘なんか吐いてない。いつものように澄んだ瞳で、眼鏡越しにこっちを見つめ返してくる。
「“力”を、使ったのね? 使えたのね?」
ジークのことを聞き返そうと思ったのに、できなかった。
彼女はただ、俺に事実の確認だけ迫っている。
うなずく。
「使……えた、んだと思う。あれが、そうだったとしたら」
歯切れが悪い。実感がないのだ。
自分の意思じゃなく、必要に迫られて発揮できたようなものだから。
「風の塊で北河をはじき飛ばした。だけど、あれは偶々」
「――偶々でも、“表”で“力”が使えたなら。凌、あなた」
美桜は、一旦セリフを区切って、大きく肩で息を吸った。
「“覚醒”したのかもしれない」
「かく……せい……?」
創作の中でしか聞かないような言葉に、困惑する。
なんだ、それ。
何を言ってるんだ。
「“干渉者”として、本格的に目覚めたのかもしれない。いいえ、かもしれない、じゃない。目覚めたのよ。やっぱり、私の感じた“臭い”は本物だったのね。凌……あなた本当に、この世界を救うことになるかもしれない……!」
興奮のあまり、美桜は立ち上がり、俺の両手をひっしと握りしめた。
何を、期待している。
何を、勘違いしている。
最初に“干渉者”だと言われたあの日以来の、妙な不安が俺を襲う。
二人の手の下、小さくなったロウソクの炎が、チラチラと頼りなく揺れていた。