17.悪意の片鱗
その日は昼前に早々と美桜のマンションから退散した。
“こっち”の世界でほんの数分間。あっちでは何時間だったのか正確には覚えていないが、今までになく長い“干渉”で、俺は身も心もグッタリと疲れ果ててしまっていた。
サーシャと一緒に作ったパンやスープの味がしばらく口の中に残っていて、家に戻っても昼飯を食う気にはなれなかった。腹が減っているような減っていないような変な感覚が続いて、俺の身体はあの数分間レグルノーラに飛んでいたのか、それとも意識だけが飛んでいたのか、説明の付かないような状態だった。
午後は泥のように眠り、次の日曜もグッタリしたまま殆ど身動きが取れずに終わる。
美桜は“二つの世界”を何度も行き来しているらしいが、疲れた素振りを見せないところを見ると、やはり“慣れ”なのだろうか。小さい頃から“レグルノーラ”に飛んでいたらしい。その頃も、今の俺みたいに疲れて眠り込んだり、倒れたりはしなかったのだろうか。
第一、“レグルノーラ”とは何なのか。
何度も飛んでおきながら、未だに理解できない。
特定の人間しか覗くことのできない不思議な世界の魅力に、俺は知らぬ間に引き込まれ、抜け出せなくなってしまっている。
最初は面倒臭いと思っていた“干渉者”の肩書きも、消えればいいと思っていた腕の刻印も、いつしか自分の中では当たり前になった。“芳野美桜”という美少女に初めて声をかけられたあの日、もしかしたらいい関係になれるかもと抱いていた期待も、妄想に過ぎなかったと納得できるようになった。
全て美桜の思惑通りなのかもしれない。
自分に興味がありそうで、決して手を出すことのないマイナス思考の男子。適度に体力があり、自分の指示通りに動く“干渉者”の卵。そういう都合のいい人間を見つけて、自分の目的を果たすために使う――それが、“干渉者・美桜”の手口なのかも。
わかっていても、一度突っ込んでしまった問題から簡単に手を引くことなんてできるわけがない。
いろいろと、わからないことが増えすぎた。
“レグルノーラ”のこと、“干渉能力”のこと、“ダークアイ”のこと、“悪魔”のこと、それから、“芳野美桜”のこと――。
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重すぎる頭を引きずりながら月曜日の朝を迎える。
元々月曜日という存在自体が好きではなかったが、この日は特に気が重かった。
何よりも、前の席の美桜とどんな風に顔を合わせたらいいのか。色々と余計なことを聞きすぎて、必要以上に迷ってしまう。サーシャの言葉など気にしなくとも良いはずなのに、『ミオはリョウのことを、もしかしたらそれ相応か、もしくはそれ以上のモノだと』なんて言うもんだから、変に意識してしまう。
あれほど何度も、期待してはいけない、彼女にとって俺はと自分に言い聞かせていたはずなのに。
学校までの道のりが異常に長く感じられた。
もしかしたら俺の中の時計が狂ってしまっているのではないかと思えるほどに、最近時間の流れがおかしい。“現実世界”と“レグルノーラ”、二つの世界を行き来しているからだとわかってはいるのだが。
“こっち”と“あっち”、完全に頭を切り替えなくては。
思いつつも、自分の意思とは裏腹に身体はずっしり重く、二倍の体力と精神力を使い続ける代償はかなり大きいモノなのだと痛感する。
校門を抜け、昇降口へ向かう頃になると、いい加減シャッキリしなくてはという思いに駆られ、一度大きく首を振った。眠気とも倦怠感とも付かぬ身体の気怠さで、周囲のことは殆ど視界に入らなかった。だから、まさかそこで俺自身が好奇の目に晒されていたなんて、美桜の一言がなければきっと気が付くことすらなかっただろう。
思い返せば、今日は不思議なくらい俺の周囲に誰も近づいてこなかった。普段から、滅多に声をかけてくるヤツなど居ないが、それ以上に意識的に距離を置いているような違和感はあった。遠くでコソコソと何やら呟くような声がしていたし、クスクスとこっちを見て笑っているヤツもいた。
だが、それらを含めていつものことだと変化に気付かなかった俺を、美桜は一喝した。
「噂に、余計なヒレが付いたみたいよ。気付かなかったの?」
昼休み、俺はまたしても屋上に呼ばれた。
この日は風もあり、校庭の木々がサワサワと爽やかな音を立てていた。
「ヒレ?」
「……呆れた。本当に、気が付かなかったのね」
とりあえず、前に呼ばれたときとは違って一緒に弁当を広げてくれてはいるようだが、その表情はかなり険しかった。
「やっぱり、一昨日公園で待ち合わせていたところを誰かに見られてたのよ」
それがどうしたんだと、俺は唐揚げをつまみつつ首を傾げた。
「その後、マンションに入るところまで目撃されていた。最悪ね。あそこしか、二人で話せる場所を思いつかなかった私も悪いんだけど」
ハァとため息をつきながら、美桜も自分の弁当に箸を伸ばした。
家政婦の飯田さん作だろう、綺麗な焦げ目のない卵焼き、ほうれん草ともやしおひたし、魚の佃煮が目に入った。作り手の性格を思わせるような弁当に、飯田さんの無償の愛を感じる。
「凌は知らないだろうけど、私たちの写真が、加工されて回されてるみたいよ」
「加工?」
「写真の加工なんて、ちょっと知識があれば、すぐに出来る時代じゃない。私たちがあらぬことをしているような画像が、学校中で回ってるみたい」
「ハァ」
あらぬ、こと。
全く覚えがない。
それどころか、他人の連絡先を全く知らない俺には、何の情報も入ってこない。噂なんかに気付くわけがないのだ。
「……って、美桜は何で知ってるんだよ。まさか、誰かからその画像見せて貰ったりとか」
「まさか」
美桜は、鼻で笑う。
“干渉能力”のなせる技とかいうヤツか?
俺がそんなことを思いながら、いぶかしげに美桜の顔を覗き込んでいると、彼女はスカートのポケットから、スッと一台の白いスマホを取り出した。薄い花の模様が描かれたケースに、キラキラした花飾りの付いたストラップ。どこまでも少女趣味な部屋の内装を思い出す。
「コレに送られてきたの。SNSアプリのタイムラインに貼られてたそうよ。酷い話」
弁当を膝に置いたまま、美桜は左手にスマホを持ち、右手の人差し指で操作する。こう見るとどこにでもいる普通の女子高生なのだが、どうも何かが間違っているような気がしてならない。
そんな俺の視線に気が付いたのか、美桜はピタッと話をやめた。
「どうしたの、変な顔して」
スマホの画面には、男女の顔が異常に迫っている様子が映し出されている。それどころか、しっかりと身体が絡まっているようにも見える。
「その画像、誰が美桜に」
確かに、俺と美桜に見えた。俺が変な角度で美桜の唇を奪っているような、妙な画像だ。場所は美桜のマンションの前。あそこでそんなことをした覚えは、もちろん全くない。
「もう一枚あるわよ。こっちの画像は、『絶倫の芳野美桜に迫られ、来澄がすっかりくたびれた様子でマンションを出てきたところ』だそうよ」
スライドさせて、もう一つの画像を呼び出す。確かにそっちは何となく覚えがあった。美桜の部屋からレグルノーラに飛んで、数時間分をあっちで過ごし、グッタリして出てきたところだ。別にやましいことをしていたわけじゃないのに、そういうセリフを入れられると、確かにそう見えてしまう。そのくらい俺の顔は疲れ切っていて、呆けていた。
「あんまりだな」
第一俺と美桜はそういう関係じゃないし、望んだとしてもそうはならないっていうのに。周囲は勝手に変なヒレを付けて喜んでるってわけか。
「美桜は、気分悪くならないの」
俺はともかく、美桜のプライドはかなり傷ついているはずだ。
だのに彼女は、
「日常茶飯事よ、こんなの」
と、小さく笑う。
「裸の写真や、AV画像と合成されることもしばしばだもの。汚い男に股を広げているような卑猥な画像もかなり飛び交っているらしいし。SM女王みたいな格好のコラージュもあったわね。結構傑作よ。私、そういう風に見られているのねって、笑ってやったわ」
目を細める美桜。
またその顔か。
胸が押しつぶされる。何でコイツは、辛いことをサラッと口にするんだろう。全てを悟っているような背伸びしたような顔は、飯時にはキツかった。
「馬鹿ね、凌がそんな顔する必要なんてないのに」
馬鹿なのはどっちだ。
辛いことは辛いと、止めて欲しいことは止めてと言えばいいのに。
なに一人で抱え込んで悲劇のヒロイン面してるんだ。
……芳野、美桜、ともあろう女が。
「誰が、だよ」
「え?」
「誰が美桜に、そんな写真送りつけるんだよ」
俺の声は僅かに震えていた。ギリギリと奥歯を無意識に噛み、ぐっと拳に力を入れる。
「勘違いしないで。これは、私が望んで手に入れたモノだから。『私に関する情報が飛び交っていたら遠慮なく教えて』って」
「『教えて』って。そんな、自分を貶めるようなこと、何でするんだよ」
知らず知らずのうちに声はデカくなってしまう。周囲には誰も居ないとわかっていつつも、この前はしっかりと誰かに聞かれていた。そう、美桜に聞かされていたというのに。
我慢がならなかった。
「“悪魔”の正体を探るためよ。悪意の出所がわかれば、もしかしたら正体にたどり着けるかもしれないじゃない。そのためなら、私が周囲にどういう風に思われているのかしっかり把握しておく必要があると思って」
美桜はまた淡々と答える。
飯田さん作の卵焼きを箸で上手に切って口に運びながら、さも当然ですよとばかりにこっちを見ている。
本当にコイツは“レグルノーラ”のためなら何でもするつもりなんだ。自分が傷つくことなど構っていられない、手段は選ばない、そういう覚悟があるんだ。
「情報収集は事件解決の第一歩でしょ。私自身はそのグループには入れないから、潜入捜査をお願いしていたのよ。……で、芋蔓式にいろんな情報が手に入ってきた、というわけ」
「誰に」
「誰にって?」
「潜入捜査頼めるようなヤツこの学校に居るのかって、さっきから聞いてるんだけど」
「……ああ、そういうこと」
何が『ああ』だよ。はぐらかして誤魔化そうとしていたクセに。
美桜は弁当と箸を一度膝の上に置いて水筒のお茶をゴクゴクと喉に流し込んでから、お待たせしましたと言わんばかりに、そいつの名を口にした。
「ジークよ。彼に頼んでたの」
ジーク。
レグルノーラでやたらと親しげに美桜と話していた、あの白人。美桜のことを昔から知っていて、確か……そう、“裏の世界の干渉者”と名乗っていた、彼だ。
「ちょっと待って。何でジークに。っていうか、ジークは学校と何の関係もないだろ」
「あるわよ。関係ならいくらでも。言わなかった? 彼、この学校に生徒として紛れ込んでるのよ。情報収集ならうってつけじゃない」
「ハァ?」
口の中からご飯粒がポロリとこぼれそうになり、慌てて手で防いだ。
あれ、おかしいぞ。確か俺の記憶では、ジークはかなりの年上で、どう見積もっても日本人の高校生には見えなかったような。彫りの深さといい、目の色といい、西洋人以外の何者でもなかったはず。
「紛れてるって、簡単に言うけどさ。め……目立たないか。あの容姿だろ」
「まさか“あっち”での姿のまま紛れ込んでるわけないじゃない。姿を変えているのよ」
口にモノを詰め込んだまま唸った。
意味がわからない。わからないことだらけだ。
つまりは一体どういう。
「忘れたの? “干渉者はイメージを具現化できる”のよ。彼はその能力を活かして、翠清学園の生徒になりきってるってわけ」
「てことは、変身してる……ってことか」
「平たく言えばそういうこと。上位の干渉者は、自分の容姿さえ自由に操れるのよ。私はあいにく服装止まりだけどね」
何てことだ。
ヒヨッコの俺と比べて、彼は明らかな実力者だとは思っていたが、そこまでとは。そういや“こっち”の電化製品を“あっち”に持ってって自在に使ってるくらいだから、確かにそれくらい容易いことなのかもしれないが。
「で、どいつがジークなんだよ。まさか、ウチのクラスの誰かだったりとか」
「誰かが聞き耳立てていたりしたら大変でしょ。いくら凌にだって、そんなこと教えるわけにはいかないわ」
「な……!」
そこまで話しておきながら、肝心のことは言わないのかよ。
俺はイラッとして思わず語気を強めた。
すると美桜はププッと堪えきれないように笑い、
「冗談よ。あんなことがあったから、そのジークに、屋上に誰も来ないよう見張りをお願いしておいたから。彼、あなたのことが気に入ったみたい。でも、“こっち”ではお互い知らないふりで居た方がいいんじゃないかってことで落ち着いてるから、決して話しかけることはないと思うわ。凌も、気が付いたとしても決して話しかけたりしないことね。せっかくの潜入捜査が台無しになっちゃうから」
いたずらっぽく言われると、悪い気はしない。
意地悪いと言えばその通りだが、少なくとも、多少は気を遣いながら話していることがわかるからだ。
「わかったよ。約束する。……で、せめてヒントとかないの」
一応俺だって“干渉者”なのだ。少しでも情報の共有を図りたい気持ちはある。
「仕方ないわね。じゃ、少しだけ。彼、捻りが足りないのよ。もう少し、名前、何とかならなかったのかしらって思えるくらいに」
「名前……か」
ならば、生徒の名簿を見れば何とか予想は付くかもしれない。同じ学年なら、中間テストの成績一覧なんかで確認できそうだ。
「了解。心に留めておくよ」
朝からモヤモヤしていた気持ちは、少しずつだが晴れていた。
青く澄み切った空はどこまでも高い。
何となくだけれど、美桜は徐々に心を開いてくれている。一方的だった会話がだんだん噛み合っていくのが、嬉しくてたまらなかった。