154.夕焼けの教室
夕焼けに照らされた橙の館は、疲れていた俺の心を十分に癒やした。
ローラから受け取った竜石で力を押さえ込むと、角や爪、羽根や尾など、竜の特徴的なものは何とか身体の中に引っ込んだ。けれど、髪の毛や肌の色は戻らなくて、相変わらず白いまま。その辺はまぁ、許容範囲で良いかと納得していると、ゼンの方が、
『こだわりはないのか』
と不安げに訴えてきた。残念だが、俺には何のこだわりもない。
竜石は魔法で小さく砕き、身体の中に取り込んだ。持ち歩くのも困難だからと、これはゼンが無理やりと言うべきか、薬のように飲み込んでしまったのだ。当然、俺は止めたし、ローラも止めた。けど、元々竜の死体が溶けてできた石ということもあって、竜と同化した俺の身体は、竜石の粉をしっかりと吸収してしまったのだった。
そんなこんなで「ただいま」と一声、橙の館に足を踏み入れたとき、ノエルは俺を俺だと認識できなかったらしい。咄嗟に魔犬を召喚して攻撃してきたときには少し驚いた。直ぐに誤解は解けたが、それくらい俺の外見はガラッと変わっていたらしかった。
モニカは直ぐに気付いてくれたようだが、それでも何かが違うらしく、一目見ては目を逸らし、一目見ては目を逸らしを繰り返した。
セラとルラも同様に困惑したようで、二人ヒソヒソと何かを話していた。
「前と、同じで良いから」
俺が言っても、しばらくは多分こんな調子。
以前ここで過ごしたとき、俺の中にはテラが居た。無謀にも“表”で同化し、そのまま“裏”へ転移したことで同化が解けなくなってしまったんだ。
ふとそんなことを思い出すと、ゼンは嫉妬するだろうなとなるべく考えないようにしていたが、ゼンは言う。
『金色竜とのことを妬むほど、私は愚かではない。あの竜が居なければ、私はお前と出会わなかった。あの竜を忘れることは、私とお前の関係を崩すのと同じこと』
過去は過去だとゼンは言った。
自分にも辛い過去があった。それはそれとして、受け止め続けなければいけないし、忘れてはいけないことなのだと言う。人間や竜が白い竜を嫌い、恐れ、追い詰められていった記憶がなくなることは決してないのだと。
『だからリョウ、お前も、リアレイトの人間であったことを忘れてはならない。一人の干渉者が強い意志で世界を救ったことを、お前は決して忘れてはならない』
ゼンはそう言って、俺の記憶を受け止めた。
俺が彼の辛い記憶を受けて止めてきたように。
彼も俺の記憶を受け止めていく。
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『“干渉する力”、そのものに衰えはないはずだ』
とゼンは言った。
『リアレイトに“干渉”すればいい』
目をつむり、身体を休める俺にゼンは語りかけた。
『本当は、戻りたいのだろう。私が過去を忘れることができないように、お前がリアレイトで過ごした日々を忘れるなど、絶対にできないはずだ。……好きに、戻れば良い。お前にはその力がある。私と戦っていたときも、リアレイトの人間が何人か混じっていたな。ミオも――あれ以来、レグルノーラで見かけない。リアレイトに居るのであれば、探してみるのも良いかもしれない。私と意識が別れているうちに、動くべきだ。私と意識が混ざり、元に戻らなくなればもう、それすら叶わない。躊躇する必要も、遠慮する必要もない。急げ。今なら未だ、間に合うはずだ……!』
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目を覚ますと、そこは自分の家だった。
朝の日差しがカーテンの隙間から差し込んで、俺は目を擦り、身体を起こす。頭を掻き上げたが、そこに長い銀髪はない。手の色は少し黄色がかっている。ベッドから降りて部屋を出ると、朝ご飯の支度をする音が耳に入った。階下で料理をしているのは母親に違いない。
「おはよう、凌。ホラ、さっさと支度する!」
毎朝聞いていた懐かしい声が耳に入ると、なんだか胸が苦しくなった。
洗面所で鏡を覗くと、そこには懐かしい俺の、冴えない男子高生“来澄凌”の顔があった。
ゼンの意識が身体にないのは直ぐにわかった。
俺の意識が独立して、リアレイトに干渉してきている。俺はこの世界に干渉することで、自分の生活を取り戻すことができる。
そうだ。
二つの世界を同時に体感できるのが、干渉者の力。
俺は未だ、自分で居てもいいんだ。
そう思うと、急に涙がこみ上げて、しばらく洗面台に貼り付いてしまった。
「時計見て行動しなさい! 全く、幾つになっても手がかかるんだから」
台所から聞こえる母の怒号が、寧ろ身に染みて、とても嬉しかった。
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制服を着込み、いつもの通学路を辿る。
当たり前すぎてどうでも良かったこの一連の動きが、今はなんて素晴らしい。静かに時を過ごしているだけなのに、そのありがたみが大きすぎて、俺は押し潰されそうだった。
竜化した美桜との戦いで滅茶滅茶になったはずの校舎が、以前のままそこに佇んでいるのを見たときにはもう、胸が締め付けられる想いで。そこの木はへし折れていた、そこには救急車と消防車が止まっていた、進入禁止のテープはこっからここまで引いてあった。そんなことばかり思い出して、変な気持ちになる。
教室に向かう途中で、あちこち寄り道した。美桜に呼び出された化学室は相変わらずかび臭かったし、そこから見える中庭は綺麗に手入れがしてあって、いろんな花が綺麗に咲き揃っていた。三階の奥まで行くと将棋部と華道部に挟まれた懐かしい部室。Rユニオンではなく、お笑い研究会と古びた紙が貼られたままになっている。あれは夏になってから立ち上げたんだったか。頬を緩ませながら戻っていくと、その途中で見慣れた顔に出会った。
「芝山」
この時間帯、用がなければ来ないような場所なのに、芝山哲弥は何故かしらそこにいた。 キノコ頭に丸い眼鏡の彼は、眼鏡の縁をクイッと上げて、俺の顔をまじまじと見ている。
「……来澄君?」
――プッと、思わず噴き出した。
「何だよその、『来澄“君”』って」
君付けで呼ばれるなんていつ以来だよ。あれだけ来澄来澄と連呼していたクセに。そう思った直後、ふと我に返った。
もしかして、アレか。芝山が俺のことを干渉者だと知るずっと前に戻って来てる。芝山は俺のことを、クラスにいる根暗な男子の一人くらいにしか思っていない。てことは、逆にアレか、俺がこんな態度じゃ不自然……。
そんなことを考えて窓の外に目を向けた隙に、芝山哲弥は俺の真ん前までズンズンと進み、思いっ切り俺の顔を。
――殴った。
不意打ちに俺はよろけ、そのまま廊下に尻を付く。
芝山はそんな俺の胸ぐらを掴み、また数発、俺の頬をぶん殴った。
「ちょ、おい! 何すんだ! 止めろ!」
しかし芝山は、小柄な身体からは想像も付かない力で何度も俺を殴り、最後に思い切り頭突きをかましてきた。あまりの石頭に俺は唸り、そのまま仰向けにぶっ倒れた。
芝山は肩で息をして、俺のことを仁王立ちで見下ろしている。
「心配……、させやがって」
「ハァ?」
「どれだけ心配したか、わからないだろう。好き勝手やり放題やって、何が契約だ。何が同化だ。馬鹿か。君は馬鹿か。自分が納得すれば、周囲がどんなに傷つこうが関係ないとでも思ってるのか。君が! どうなろうと! 確かにボクが知ったことではない。けれど、説明くらいしろ! 何がどうなってるのか、理解するのに何日要したかわかるか! 夏休みが終わりそうだと思ってた。補習にも塾にもまともに参加できないまま、騒ぎに巻き込まれて秋が訪れる。そういう時期だった。Rユニオンの仲間たちと共に戦い、傷つき、お前が全部背負っていなくなった。そこまでは理解できた。問題はその後だ! 戻って来たら春じゃないか! ゴールデンウィークの真っ只中! 何が起こってるのか理解できなくて、滅茶苦茶アタフタした。ボクの記憶はどこに消えたのか、皆の記憶はどうなっているのか、整理している間に休みが終わった。つまり、どういうこと? ボクだけ変な時間を生きてた? レグルノーラに行って確かめようと思っても、美桜も君も休みで向こうに飛べないし、とにかく記憶の中で“ゲート”だったり“ゲート”に近かったりする場所に行ってみたらどうかとあっちこっち――って、人の話を聞いてるのか!」
真剣に怒る芝山を見上げていた俺は、知らず知らずのうちに頬を緩めていた。肩を震わせ、顔を手で覆って、声を立てて笑ってしまっていた。それが芝山の癪に障ったらしい。
「聞いてる。ちゃんと聞いてる」
ゴメンゴメンと謝りながら俺は立ち上がり、埃を払った。
「悪かった。説明するから。切り取った時間がそういう風に作用してるなら、俺は少し救われたかもしれない」
言うと、芝山はまたムッとしていた。
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「……で、つまりアレは嘘でも夢でもなかったと」
「流石芝山。物わかりが早い」
長い廊下を辿りながら事の次第を掻い摘まんで説明すると、芝山はうんうんと何度も頷いた。
「となると、ユニオンのメンバーも大概のことは覚えているってことになる。……陣君はA組に在籍していたはずだけど、今回のことでもう、“こっち”に居る理由はなくなっただろうから、会うことはないかもしれないね。須川さんとはあれ以来喋ってないけど、色々と話せそうだ。美桜は昨日まで休みだった。今日はどうだろう。彼女が一番心配だ。レグルノーラに居ないってことは、多分こっちに居るんだろうね。ボクは彼女の連絡先、控えてないからなぁ」
俺が美桜に誘われてレグルノーラに干渉するようになったのは、ゴールデンウィークが終わって間もない頃だった。
それまで俺たちはただのクラスメイト。彼女は俺のことを気にかけていたらしいが、俺は彼女を単に綺麗で憧れの女子生徒程度にしか思っていなかった。彼女と話すことも、接触することも難しい。同じクラスで、しかも目の前の席の彼女に一言も話しかけることのできない日々を過ごしていたのを思い出す。
芝山と同じ状態なのだとしたら、彼女は俺のことをしっかりと覚えている。自分が何者で、どうやって力をコントロールしていかなければならないのかも、勿論全部知っているはずだ。
まさか、半竜状態から元に戻れなくなっているわけではないだろう。ローラが持っていた竜石は、俺にくれたのよりも余分に用意してあったようだし、俺よりも先に美桜が使ったのだとしてもおかしくはない。
彼女の気配はレグルノーラに居たときよりは少し強く感じる。
美桜は多分、こっちに居る。
ただ、怯えているのか、それらしき力は感じても、彼女らしい堂々とした力強さはまるで感じ取れなかった。
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教室へ行くと、隅っこで本を読んでいた須川がバッと立ち上がった。
俺と芝山が二人並んで入ってきたところを見て何か察したらしく、顔を手で覆って、目を潤ませた。
人目を気にするように身をかがめて俺たちに近寄り、目を輝かせた。
「嘘でしょ? もしかして二人とも……?」
「当たり。残念ながら、俺の本体は“あっち”だけど」
苦笑して言うと、須川は益々テンションを上げて、
「そんなのどうだっていい。よかった。もう会えないのかと思ってたから」
干渉者としてのレベルが足りず、芝山の本体と共に“こっち”で留守番状態だった須川は、俺たちが想像しているよりも遙かに辛かったに違いない。
「ゴメンな。辛い思いさせて」
そっと頭を撫でてやると、彼女は人目憚らず俺に抱きついてきた。
ちょっと大胆すぎやしないかと思ったが、彼女の思いを受け止めてやれるのは俺しか居ないと、そのまま身体を貸してやった。
慌てたのは寧ろ芝山の方で、俺と須川の突然の抱擁を、
「何でもない何でもない。本当に、何でもないから!」
とわけのわからない言葉で必死に濁そうとしていた。
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「物理の古賀はどうなってる?」
「ああ、全然ユニオンのことは覚えてないみたいだ。それどころか、リザードマンだったことも、レグルノーラのことも、全部忘れてる。湖が浄化されて、元に戻ったのかもしれない。ゼンはそのことに関して何か?」
「いや、何も。そういえばあいつ、自分の生み出した魔物について、あまり興味がなかったみたいだし」
屋上での昼飯。
俺と芝山と須川、三人で弁当を囲う。久々の母の手料理はやはり俺の口に合う。和食の作り置き惣菜がこれだけ美味いとは思わなかった。レグルノーラではほぼ洋食に近い料理ばかりで、口が飽きてしまうのだ。
「切り取られた時間の先には、未来がない。そういう考え?」と須川。
「ゼンが言うには、一続きの時間の一部を切り取り、魔法に力に変えて切り取る前とくっつけたらしい。変な話だけど、納得はした。二つの時間の流れの差についてはずっと疑問に感じてたから。なるほどなって」
「やっぱり、変な世界よね。だけど、好きだな。ああいう曖昧さって、なかなかないもの。もう一度行きたいと思うけど、凌の本体はレグルノーラに置いてあるんでしょ? 確か陣君が、自分の本体がそこにないと連れて行けないみたいなことを言ってたことがあって。てことは、今の凌は私たちを導けない。芳野さんが居ればなぁ……」
「二次干渉者から一次干渉者になる方法はないのかよ、レグル神様」
「おい芝山、ワザとだろ。知らないよ。万能じゃないんだって。……まぁ、調べておくよ。俺だって“あっち”でまた、みんなと会いたいし」
もぐもぐと口に飯を頬張りながら、俺たちは他愛なく喋り続けた。
爽やかな初夏の風は、青葉の匂いを運び、俺たちを優しく撫でた。この中にもう一人、美桜が居れば。そう思うと、なんだかもの悲しい気持ちが去来する。
「どうすんの。これから。以前の陣君みたいに、毎日こうやって、干渉してくるつもり?」
「まぁね。二重の生活にはなるけど、精神力が続く限り続けるってのもアリかもしれない。せっかくゼンがくれたチャンスだし。高校生活を最後まで送る。いや、その後も……。俺が本当はレグルノーラにいて、干渉してきているだけだと知られないように過ごせたら、親にも心配かけずに済む。あんな苦しい思いをさせたくはないからな」
「死んだことになってたのは、確かに辛かった。魔法のせいとはいえ、アレはかなりの痛手だった」
「私も、ショックだった。生きているのに死んでいるだなんて。でも今は、居るけど居ない。……変なの」
「だよな。俺もそう思う」
戻って来たのが俺が死んだことになる前でよかった。
そうじゃなかったら、居場所すらなかったんだから。
「ところでさ、美桜との契約は有効なんだろ」
芝山が言う。
「多分」
「多分って何だよ。契約は大抵、破棄するまで有効。どちらかが死ねば別だろうけど」
「……だよな」
「召喚、してみるとか」
「――え?」
「いつだったかさ、テラをレグルノーラから呼んだみたいに、美桜のことも呼べるんじゃないか? 彼女、君の竜になったんだろ?」
芝山はそう言って、またもぐもぐと飯を頬張った。
「……だな」
俺は少し考え、そうぽつりと零した。
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授業をそつなくこなし、放課後を迎える。
偶々その日は補習があり、俺も参加した。
面倒だった勉強も、あの戦いに比べたらなんてことはない。寧ろ、こうして静かに時間を過ごせることが、どんなに幸せか噛みしめる。
壊された校舎、穴の空いたグラウンド。あんなものを見せつけられたら、この平和が如何に素晴らしいか。
久しぶりに味わう日常。
それももうすぐ終わる。
そのまま帰ろうか。思ったが、少し考えた。
あの日、美桜に声をかけられたのは補習のあとだった。忘れ物を取りに教室に戻った俺に、彼女は声をかけたんだ。
一度、戻ってみるか。
2-Cの教室へ。
廊下を辿り、見慣れた教室に入る。
夕日が差し込み、窓枠の長い影が机の上に伸びていた。整然と並んだ机の間をゆっくりと進む。俺の席の前に、美桜の席がある。
何度も彼女は振り向いて、俺を見ていた。プリントを渡すとき、授業中の干渉を促すとき、俺を睨み付けるとき。
人を寄せ付けぬためか、何故か眼鏡をしていたんだ。青っぽい目を見られたくなかったのだろうか、なんて、今は思う。あの綺麗な目を、もしかしたら彼女はコンプレックスに感じていたのかもしれない。
「召喚、か」
芝山に言われたことを思い出す。
俺と彼女は、主と僕。確かにその方法なら、美桜に会えるかもしれない。
――“従順なる我が竜を主の名において召喚する”
これは俺がテラを呼び出すときに使った魔法。
教室の床に魔法陣を描いていく。
濃い緑色に光るそれは、ひとつひとつ、文字を丁寧に刻んでいく。当然文字は日本語で、明朝体で。美桜に馬鹿にされそうだ。レグル神と呼ばれるようになったクセに、未だレグル文字も書けないのかと。
文字が全て刻み終わり、緑色の光で魔法陣が満たされていく。
……来い。来い、美桜。
俺の、ところへ……!
やがて光が教室を満たし、そこに一つのシルエットが浮かび上がってくる。
それが見慣れた輪郭で、とても会いたくて、愛おしくて、抱きしめたかった形だとわかるまで、さほど時間はかからなかった。
光に包まれたその影が、全部実体化する前に、俺は手を差し伸べていた。
「見つけた」
「私も。あなたのことを、ずっと、探していた」
<終わり>
お読みいただき、ありがとうございました!
続編「黄昏のレグルノーラ」連載中です。
凌と美桜、芝山たちのその後を描いています。
お読み頂けると幸いです。
シリーズ一覧からどうぞ。
次ページからは、設定集です。