153.帰還
切り取られた時間がどこからどこまでだったのか。それは、ゼンの裁量に委ねられた。
逆再生で街が戻り、何回となく夜から夕方、そして朝になるのを繰り返す。切り取られた時間は、集まって魔法と同等の力を持った。壊してきた様々なものが、どんどん形を戻してゆく。
もし、ゼンが破壊竜とならなければ、最初からこうした力を持ち得たのだろうか。
「それはわからないな。私はやはり、リョウと出会う運命だったのだろうし、“ゼン”という名前を貰わなければこうした力は得られなかっただろう」
ゼンは俺の口でそう言うと、ニッコリと笑った。
リアレイトを照らしていた虹色が徐々に光を弱める頃には、街はいつもと同じ平穏を取り戻していた。
何かが違うと直ぐに実感できたのは、辺りが晩夏の灼熱地獄ではなく、柔らかな初夏の日差しと、空を泳ぐ鯉のぼりの群れや数多の花々に彩られていたからだ。
「美しい」
ゼンは目を細め、眼下に広がる街に目を向ける。
人々の営みがある街は確かに美しい。暮らしがあるからこそ世界は活き活きとするのであって、廃墟となった街に何があろうか。
かつてゼンは、混沌を望んだ。全てを破壊し、全てを恨む悪しき竜だった。その彼の口からそんな言葉が出ようとは。誰が想像しただろう。
大きな羽を広げ、しばらく街の上空を飛んだ。
初夏の柔らかな風は、肌を撫で、髪を撫でる。サワサワと葉のこすれる音、小鳥のさえずり、電車や車が往来する音、子どもの遊ぶ声、大人の他愛ない会話、笑い声。
俺とゼンがやりたい放題やり尽くしたあの時間がまるで嘘だったかのように――そして実際、何もなかったことになった――元に、戻った。
俺を、除いては。
そこにあっただろう俺の日常は完全に消えた。
確かに、平穏な日々ほど大切なものはない。けれど、俺はその道を選ばなかった。自分で決めたことだ。
「後悔しているのか?」
ゼンは俺に聞く。
後悔も何も。親を知らないゼンに話しても、理解は難しいだろう。ただ、やはり俺は幼かったあの日に死んだことになったのかと、そればかりが気にかかる。
「帰りたいのか」
と言われ、少し考えた。
何でもない、と俺はゼンに答えた。
ゼンはしばらく何か思案して、
「レグルノーラに戻ろう」
と、目を閉じた。
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レグルノーラの街並みが日に照らされているのを見るのは初めてだった。
どういう構造なのか、相変わらず理解の難しい平面世界。朝には日が昇り、夜には月が昇るということをごく当然のようにやってのけるが、その仕組みに関しては研究の余地がありそうだ。
空を飛びながら街を見下ろすと、こちらの世界では魔法と土木建設の力で街を復興させようとしているのが目に入った。
久々に街に戻ってきたレグル人たちは、順調に日常に戻っているらしい。それまでキャンプに押し込まれていた人々は、解放された喜びで目を輝かせていた。
獣の鳴き声がして目を向けると、翼竜が近くを飛んでいた。野生の竜に、市民部隊に飼われた竜。様々な色の竜たちが、広くなった空を悠々と駆ける。エアバイクやエアカーがその下方、ビルの隙間を縫うように走っている。道などあってないようなもの。レグルノーラの交通事情は自由過ぎて、俺の常識の範疇を超えている。何か法則があるようで、全くないようで。そういう曖昧さに初めはなかなか慣れなかったが、今ではもう当たり前になってしまった。俺はいつの間にか、レグルノーラに染まっていたのだ。
前方に高くそびえる白い塔が見えてきた。この世界の全てを見守る魔女の棲む塔。ドレグ・ルゴラの攻撃にも耐えた、魔法によって護られた塔。
気がつくと、一匹の竜が俺に並行して飛んでいた。見覚えのある竜だ。背中に人の姿があった。青碧のそれは、市民部隊のライルの翼竜に違いない。銀色のジャケットをはためかせ、こちらに向かってしきりに手を振っている。それが何とも滑稽で、俺は思わず吹き出した。
高度を下げ、ぐるっと周囲を巡りながら、ゆっくりと塔に近づく。展望台に多くの人影が見え、この世界の平和を感じた。中から手を振る人々に、俺は手を振り返すべきだったのか。迷い、とりあえずで微笑み返した。途端に人々は大げさに拍手したり、飛び跳ねたり。何の騒ぎかと、俺の方が不安になるくらいに。
展望台下部からはみ出した桟橋に目をやると、見慣れた人物がいた。茶髪の優男は大きく手を振って、俺を誘導してくれる。
羽を上下に動かして高度を調整しながら桟橋に降り立つと、彼は満面の笑みで俺を出迎えた。
「凌、おかえり。いや……、違うな。崇高なるレグル神、ようこそいらっしゃいました」
うやうやしく敬礼するジークに苦笑し、
「ねぇジーク。そういうの、要る?」と言うと、
「あれ、見た目にそぐわず中身は凌のままなんだな」と笑われた。
「もしかして、竜人の姿がいけないのか。ゼンの力をもう少し調整できれは姿を戻せるかもしれないけど、まだ同化したばかりでそこまでは」
「――待て、凌。早まるな。せっかくレグルの民が総出でレグル神をお迎えしているこのときに水を差すのはやめてくれ。中でローラ様とディアナ様がお待ちだ。行くぞ」
手摺りを辿り、桟橋の上を進む。地上から吹き上げる風で、桟橋は大きく揺れた。エアバイクでジークに連れて来られたときには足元を見る余裕すらなく、高過ぎて気持ち悪いだけだったが、今は驚くほど平静な気持ちだ。なんて危うい場所だとは思いつつ、ここからしか見られない壮大な眺めに息を飲む。
塔を中心に作られた街並みと、それを囲う雄大な森。そして全てを飲み込む勢いで広がる砂漠。この不思議な世界の隅々まで冒険し、俺はいつの間にか救世主と呼ばれる存在になってしまっていた。それどころか、レグル神などと。ゼンと同化した竜人の姿がいくらそれに似てるからって、ここの宗教はよくわからないが、あまりにも畏れ多くはないか。
何と呼ばれようと俺は俺だ。けど、そのあたり、周囲が理解するかどうかはまた別の話のような……。
「不思議だな。凌に違いないと頭では理解しているのに、今の君は、あの日の君とは全然違う。君はこんなに柔らかな表情をする男だったか? とんがって周囲に疑念を抱き、壁を作っていた君はどこに行った?」
話しながら展望台の入り口を潜る。
ワァッと歓声が上がり、俺は少し面食らった。
「レグル神、どうぞこちらへ」
奥へと続く赤い絨毯の上を、ジークの先導で進む。絨毯を挟んで、老若男女凄まじい人の群れが出迎える。
白い鱗は光に照ると、キラキラと様々な色を見せた。視界にかかる白髪も、光の角度によっては銀に見えたり、はたまた別の色が混じって優しいグラデーションを見せたりする。確実に俺のセンスとは違う、グレーと白のコントラストが印象的なこの服だって、それに威厳を加えているような気がする。
それまで畏怖の対象だった白い鱗でびっちり覆われた尾がはっきりと露呈しているにもかかわらず、誰も俺を恐れてはいなかった。畳んだ羽さえ白いのに、怖がるどころか美しいと賞賛する声さえ聞こえてくる。
通常は信仰心の欠片すら見せないレグルノーラの人間たちは、突如現れた神と思しき存在にやたら興奮しているように見えた。けれど俺は“神”じゃない。説明の機会を逃したまま、俺は渋々と通路を進んだ。
レグルノーラの人間たちは、やたらと拍手喝采で大きな歓声を上げてくる。少しはにかめば、それでまた声が大きくなり、チラリと向けた視線が偶々合えば、それはそれでまた思ってもみないほど喜ばれた。
参ったな。俺はそういうものになったつもりなんて微塵もないというのに。
赤絨毯の先、展望台の一番奥に、美しく着飾ったローラの姿があった。お日様色のローブが、展望台に差し込む日の光に照らされてキラキラと光って見える。その隣には、真っ赤なドレスに身を包んだ黒い魔女、ディアナの姿もある。彼女は彼女で、長い髪を綺麗に結い上げて妖艶なボディをこれでもかと見せつけていた。
彼女らの前まで来て歩みを止めると、それまでの歓声がピタッと止まり、辺りはしんと静まりかえった。
「ようこそ。お帰りなさいませ、救世主リョウ。よかった。あなたならきっと、ここに最初に戻ってくると信じていました」
ドレスの端を摘まみ、可愛らしく挨拶するローラ。ニコリと向けたその表情が、やはり前まで俺に向けられていたものとは少し違って見える。
「リアレイトの時間を切り取った報告を、しなければならないと思って」
俺はジークの前に歩み出て、彼女たちに敬礼する。
「ありがとう。貴方がいなければ、この世界はずっと黒い雲に閉ざされ続けていたでしょう。リョウ、貴方は本当に、この世界を救ったのですよ」
改めて言われ、俺は胸を熱くした。
「いいえ、俺だけの力では。ローラがいなかったら、竜玉を得ることもできなかったし、皆の協力がなかったら、ゼンを浄化することもできなかった。皆が心を一つにした。世界を救いたいと思った。だから成し得たこと。俺は、仲間に恵まれた。全ての出会いに感謝しなければならないんだと思う。俺が美桜と出会ったことも、レグルノーラに足を突っ込みすぎたことも、ドレグ・ルゴラに目を付けられたことも。全部今日という日に繋がっていたのだとしたら、俺の苦労は無駄じゃなかった。寧ろ、このために必要だったんだと思うことができる。それだけのことだ」
ニコリと微笑みローラの顔を見ると、彼女は目を赤くしていた。涙が零れないよう必死に堪えているようにも見える。
「リョウ、貴方は白い竜を全部取り込んでしまった。貴方の中で白い竜は生き続ける。そして貴方も、これから長い長い生涯をその身体で過ごすことになる。悔いは、ないのですか」
「悔い……? いいや。全く」
「“ゼン”と名付けた白い竜の意識は今も?」
「ああ。少し待って」
気持ちを落ち着かせ、そっと目を閉じる。
それまでじっとしていたゼンが、俺と意識を入れ替わり、目を開ける。
「――私に、用が?」
ゼンが俺の声で言うと、何かが違ったと咄嗟に理解したのか、ローラとディアナの表情が変わる。緩んでいた緊張の糸がピンと張ったような、強張った顔。
「貴方が、“ゼン”……? 私たちが“ドレグ・ルゴラ”と呼んでいたあの白い竜で間違いないのかしら」
おどおどと問いかけるローラに、ゼンは鼻で笑いながら、
「その通り」
と答える。
ローラは更に緊張した面持ちで、ゆっくりと息を吐いて呼吸を整え、意を決したように話し出した。
「今までのご無礼を、お詫び致します。ゼン、私たち人間は、貴方を恐怖の対象としか見ることができませんでした。人間だけじゃない、竜も、貴方のことを混沌の原因だと決めつけていました。だけれど、ようやくわかりました。私たちが貴方の存在を恐ろしいものだと決めつけていた、その心が、一番の悪であったということに。あの真っ黒な湖は、二つの世界の黒い感情がこぼれ落ちてできたものだと聞きます。私たち人間が、誰かを恨み、誰かを妬み、誰かを貶し、誰かを苦しめ、悲しみ。そういう黒い感情が、どんどんあの湖を黒くしていったことを、最初に知らなければならなかったのです。この世界は感情、想像力によって支えられています。信じる心が力となる世界の中で、貴方には全く逆方向に力が働いてしまったのでしょう。黒い感情は貴方をどんどん蝕み、とうとう破壊竜と言わしめるまでに追い詰めてしまいました。――“悪魔”を引き寄せ、この世界を苦しめ、この世界を混沌に陥れていたのは、貴方ではありません。他でもない、私たち人間だったのです」
ゼンはローラの話をじっと聞き、何度も小さく頷いた。
「許してはくれないでしょうね。愚かな人間たちのことなど、貴方の眼中にはないのでしょう。けれど、もし許されるなら、今からでも貴方と共に生きたいのです。人間と竜が生きるこの世界をよりよくするために。皆が幸せに暮らしていくために」
彼女らしい弁だった。
恨むだとか、妬むだとか。そういう感情とは別次元にいる彼女の本音だと思った。
ゼンは俺の顔でクスリと笑った。
「黒い心が消えたわけではない。それに勝る清い力で薄められただけかもしれない。それに、私が長い間受けてきた仕打ちを忘れたわけではない。今でも人間は愚かな生き物だと思っている。他の竜どもに心を開くこともないだろう。けれど、私がこうして静かな心でいられるのは、やはりリョウの力が大きい。全て包み込もう、救おうと純粋に思い続ける心が、私を突き動かした。私はリョウという人間に惚れたのだ」
嬉しいことを言う。
「わかりますわ」
と、ローラまで。
「彼の前向きさには、何度も励まされました。どんなに追い詰められても諦めずに可能性を探る。彼こそ“救世主”に相応しい」
『……だ、そうだ。素晴らしい評価だな』
ゼンがわざとらしく話しかけてくる。まあ、評価されるのはありがたいが、そんなに持ち上げ過ぎなくても。
「――ひとつ、言いたいことがある」
俺は鋭い爪の伸びた人差し指をピンと伸ばし、ローラとディアナ、そして群衆に向けて目配せする。
「残念ながら、私とリョウはレグル神などではない。崇められる理由もなければ、そのような力もない。勿論、私たちのことをどのように呼称するかは自由だ。しかし、 勘違いして縋られるのは気分が悪い。リョウは優し過ぎて否定しなかったが、私は言う。私たちは、神ではない」
これが効いたのかどうか。
一同はしんと静まり返った。そして皆、バツが悪いような気まずいような顔で、目を逸らし始める。
「私とリョウの意識はいずれ、ひとつになってゆくだろう。今は不安定なこの身体も、いずれは安定し、人間と竜の間に落ち着くに違いない。しかし、せめてリョウの意識が存在しているうちは、人間と交わり暮らしてゆくべきではないかと考えていたところだ。彼が私を救うため犠牲にしたという彼なりの日常と平穏を少しでも残してやるのが、せめてもの心遣いではないかと思い始めた。塔の魔女にはその準備をお願いしたい」
そう言って深々と頭を下げるゼンに一番驚かされたのは俺自身。
ちょ、ちょっと待てよ。ゼン、お前俺に対してそんな気持ちで。
『当然だ。私はただ、滅ぼされる対象だと思っていた。しかしお前はそれを覆した。そして、全てを受け入れた。これから更に待ち受けるだろう様々な試練を考えれば、それくらい容易いことだ』
……ゼンが俺の身体の主導権を握ってさえ居なければ、俺は泣いていたかもしれない。これまで頑張ってきた、それが全部報われた気がして、これからのことは全部乗り越えられそうな気がしてくる。
「面を上げてください、ゼン」
ローラの呼びかけに、ゼンは俺の頭をゆっくりと上げていく。
成り行きをじっと見守っていたディアナが、一歩前に出てニコリと笑った。
「橙の館をしばらく使えばいい。メイドのセラとルラが凌の帰りを待っている。それに、ノエルとモニカも、凌との日々が忘れられないと話していた。大丈夫、居場所なら沢山ある。今までと同じように、好きに動き回ればいい。――ただ、やはりその格好では目立ってしまうだろうから、竜石を使って調節する必要はありそうだがね。グロリア・グレイのところまで行かなくても、予備は幾つか取ってある」
「――ありがとう」
自分の口からそう声が出て、俺は意識がゼンとまた入れ替わったことに気付く。
「ディアナは? 塔の魔女からは引退、だろ? この先どうするつもりだよ」
俺に言われ、ディアナは目を丸くする。
「凌に変わった? やれやれ。一つの身体に二つの意識とはこれはまた厄介だね。いずれはひとつにとは言うが、できる限りそれぞれの意識が独立していて欲しいと願うのは、部外者のわがままか。――私か? 私はしばらく隠居生活を楽しむとするよ。お前が暴れたせいで協会の要人が根こそぎ亡くなってな。丁度私の好きな赤色の館が空いたそうだから、そこに移ろうかと思っている。そこで古書の研究をしたり、干渉者協会や塔の立て直しにでも力を貸したりしようかと」
肩の荷の下りたディアナの表情は緩かった。
全てがのし掛かったローラは対照的に厳しい顔で、ディアナの話を頷きながら聞いている。
「赤の館は、橙の館に近い?」
「ああ。目と鼻の先」
「だったら、俺も手伝いたいな」
「それはいい。私も、塔の魔女としてではなく、お前と色々話したいと思っていたところだ」
ディアナは柔らかく笑った。
それは、今まで見たことがないくらい優しくとろけそうな、美しい笑顔だった。