152.いにしえの
静かな日々の重要さを、ディアナは知っていた。
普通の少女だった彼女が如何様にして塔の魔女になったか、俺に切々と語ったのを思い出す。
自分の前で大切なものがなくなる。
運命を受け入れるしかないという苦しみに耐える。
彼女は自分と同じ道を誰にも歩んで欲しくないと、塔の魔女の選定システムを変えた。
それなのに、また目の前で同じことが起きようとしている。救世主などという理不尽なシステムに組み込まれてしまった俺を、彼女はどうにかして救おうとしてくれている。
彼女の胸の痛みがわかるからこそ、俺は彼女に何も言い返せなかった。
「ゼン」
俺はわざとらしく大きく振り向いて、俺の後ろに居る白い竜に呼びかける。
「契約、しよう」
噛みしめるように言うが、ゼンはただじっと俺を見るだけで、うんともすんとも反応しない。
「――凌」
後ろから、美桜の声。
「同化しても、凌は凌のままよね?」
震えた声に、俺は何も言い返せない。
青く澄んだ空とどこまでも続く水平線の間を、俺はじっと見つめ、深く息をする。
空の一部には穴があった。ドレグ・ルゴラだった白い竜と同化した俺の身体が、この空間に辿り着くために開けた穴だった。
凍りついた湖面にもたくさんの亀裂が走っている。崩れ、大きな穴の空いた一角は、帆船が沈んだところ。
水平線の少し上にはレグルノーラの大地が見えた。宙に浮いた不思議な島だ。物理法則を無視したような、まるでリアレイトの常識が通じないような、不思議な場所。
こうやって“来澄凌”として考え、感じることのできる時間はもう終わる。
もし俺が犠牲となることで全部が丸く収まるなら。……犠牲なんて言葉は使うもんじゃないな。そういう気持ちでいる限り、俺は自分の選択を後悔し続けることになる。
俺は意を決して、足元に魔法陣を描いた。俺とゼンが入るよう、大きめの魔法陣にした。内側の円には少しずつずらしながら重ねた複数の三角形。時計回りにゆっくりと回ると、三角形は星のような文様を描いていった。二重円の間には文字。まさか、同じ魔法を三度使うことになるなんて、テラと契約したときには思いもしなかった。
――“我、ここに竜と契約を交わす。互いの命が尽きるまで、我は竜を信頼し、竜は我に尽くす”
慣れないレグル文字で書いたのは、ゼンにも読んでもらうため。
「孤独からの解放を意味する言葉だ」
俺はゼンに言う。ゼンはやはり無言で、じっと文字を見つめている。
「証人になってくれよな、皆」
文字が、ゆっくりと魔法陣から剥がれていった。リボン状に連なった文字列が、らせん状になって俺とゼンの周りを囲う。
「俺は自ら選択した。そしてゼンはもうドレグ・ルゴラじゃない。世界に光を取り戻すために、最良の道を選んだ結果だ」
魔法陣の外の声は全然聞こえない。だからもしかしたら、目線を合わすことなく呟いた俺の言葉なんて、誰にも届いていなかったかもしれない。
俺はゼンと共に白い光に包まれた。
文字のリボンがグルグルと何度も何度も俺とゼンの周囲を巡った。これで間違いないな、最終確認だと言わんばかりに、文字たちは以前より更に強烈にアピールしてくる。
「竜と契約するということは、レグルノーラから逃れられなくなるということ。そして、私と契約するということは、破壊竜との関係を疑われるということ。お前という存在を疑われ続けることになるかもしれないということ。お前はそれでもなお、私と契約しようとするか」
ようやく言葉を口にしたゼンから出た、今更とも言うべきセリフに、俺は頬を緩めた。
「構わない。誤解は解けば良い。何も、怖がることはない。仲間がいる。もし何かあっても、ちゃんと俺を止めてくれる。お前はもう、苦しむ必要はないんだ」
光を緩めた文字たちがリング状になって俺とゼンの頭上へ移動する。文字が身体に侵入し、ジュッと脳に焼け付いた。――途端、言いようのない痛みに襲われる。
頭が割れる、どころの話じゃない。
立っている、そこにとどまっていることすら苦痛になるほどの衝撃が、頭の中、脳の奥にまで突き刺さっていく。まるで鈍器で激しく殴られ、頭を粉々に砕かれるような。
『良いのだな、リョウ』
ゼンの声が頭に響いた。
『もう、後戻りはできない。……お前も、私も』
身体の中に巨大なうねりが突っ込んできた。それは、光の粒と化したゼンだった。無数の鉄球を叩き込まれるような苦しみから目を開けることすらできない俺は、ただひたすらに耐える。現実に起きている事象なのか、それとも俺の脳だけが見ているのか。
細胞が分裂し、ゼンと混ざって再構築されていく。
テラや美桜が俺を尊重し、俺に協力する形での同化をしてくれていたのに対し、ゼンはその寂しさからか、俺と混ざり合う形での同化を望んだ。
まだ、他人を信じることが完全にはできていないのだろう。
本当に俺がゼンと共に生きる覚悟を決めたかどうか、不安に思ってしまったのだろう。
――大丈夫。受け止める。
もう、泣かなくて良いんだ……!
「ねぇ、どう思う? やっぱり人間の僕になりたい? 気高い竜として生涯を全うすべきだと思わない?」
金色のくりくりした目が、俺の顔を覗き込んでいる。
俺は慌てて顔を腕で隠し、適当に返事する。
「わ……、わからない。難しい」
そんな俺に、彼女は興味を持ってしまい、執拗に顔を覗き込んだ。
「ねぇ。見かけない顔だよね。凄く白い肌。それに、髪の毛の色も変わってる。白? 銀色? 人間って、もっと色が付いているような。人間に変化するなら、もう少し人間のことを研究した方が良いよ。あなた、名前なんていうの」
「……え?」
「やだ。目も変な色。もう少し暗い色の方が良いんじゃない。真っ赤っかよ。ね、名前は? あなたの名前教えて」
「名前……?」
「友達になりたいの。お名前、教えてくれる?」
「名前。僕の、名前は」
「今日はありがとうございました。私、迷子になったの一度じゃなくて。もしよかったら、またここに来たとき、相手をしてくださいますか」
制服姿の少女が恥ずかしそうに俺を見上げている。
俺はその目が何とも愛おしく、思わず頬を緩めた。
「ああ。構わないよ」
そっと手を離し、顔を赤らめて、彼女は両手を自分の胸に当てた。
「名前、教えていただけますか」
「名前?」
「私、美幸です。芳野美幸。あなたのお名前は?」
「――ゼン。私のことは、ゼンと」
――カチッとどこかで音がした。
まるでパズルのピースをやっと探し当て、はめたような、心地よい音。
互いに、もしかしたら最初からこうなるつもりで探しあっていたのかもしれないと、そんな考えすら浮かんでしまう。
孤独とか、悲しみとか。
偏見とか迫害とか。
誤解され、心を歪め、周囲を恨み、妬み。
……そうだ。二つの世界を苦しめていたのは、ほんの少しの気持ちのズレ。それがやがて溜まりに溜まって湖を黒くしていった。その黒い湖に冒され、ゼンは破壊竜と呼ばれる存在になった。
誰かが手を差し伸べていれば。
誰かが声をかけていれば。
痛みは次第に和らいだ。
目をつむったまま身体を屈め、呼吸を整えようと胸を擦る自分に気が付く。身体に当たる手の感触がおかしい。頬には何が引っ付く感覚があるし、背中には羽、尻には尾が生えている感覚まである。
俺の力よりもゼンの力の方が絶対的に勝っている。だから、人間の姿は保てなかった。要するに、竜人となってしまったらしい。
参ったな。これじゃ、また竜石を貰って来ないと。けど、こんな姿で行ったらグロリア・グレイに何と言われるか。
「凌……?」
誰かの呼び声で、俺はようやく目を開ける。
視界には、白い鱗の浮かぶ鋭い爪の生えた手と、濃いグレーの服。それから視界を塞ぐように白っぽい髪の毛が垂れ下がっている。
ゆっくりと顔を上げ、周囲を見まわすと、一回り小さくなった氷のプレートの上で、皆がまじまじと俺の顔を覗き込んでいる。そして、明らかに警戒している。
「き……すみ?」
シバが恐る恐るで近づいて、けれどそのまま目を丸くして足を止める。
モニカとローラ、ケイト、エリーは息を飲み、両手で口元を覆って明らかに驚いた顔をした。互いに顔を見合わせ、女子にしかわからないような目だけの会話をして、その後に出た言葉が、
「なんて、神々しい……!」
この世界に“神”なんて概念があるとは聞いてない。……あ、一応あったか。古代神を崇めるヤツ。芝山の変なレポートで読んだ。普段は信仰心すら見せることのない彼らから、そんな言葉が出るなんて、一体どういう。
「深い慈悲と万能の力を持つという、……古代神レグルだ」
ディアナはぽつりと言うと、そのまま両目から大粒の涙をポロポロと零し始めた。
「古い本で読んだことがある。一般には殆ど知られていない、レグル神の姿。“美しく光り輝く鱗で覆われた竜神、或いは強大な力を持つ白髪の竜人”この世界を守り、作り上げたという伝説の竜の名前。……そうか、私たちはとんでもないものを相手にしていた。もっと早い段階で気付くべきだった」
杖を落とし、だらしなく泣き続けるディアナを見ていられなかったのだろうか、ルークは自分の羽織っていたローブをそっとディアナの肩にかけた。
「わからないか、ルーク。私たちは神を相手にしていた。人間と竜にその愚かさを思い知らせるため、神が仕掛けた壮大な罠に、私たちはまんまとかかっていたのだ」
……それが、何を意味するのか。俺には直ぐにわからなかった。
両手を合わせ、祈るようにして崩れたディアナを見て、そこに居たレグル人たちが同じ仕草をするのを、俺はただただ見つめるしかない。
「信仰の対象にされるような人間じゃないよ、俺は」
そう言ってはにかんで見せたが、彼らは祈りを止めない。
「それに、そんなことをしてる時間はない。氷がどんどん溶けてきている。さっさとレグルノーラの大地まで戻らないと。――転移魔法するから、ちょっと集まってくれるか」
空を覆っていた暗雲が晴れ、太陽と思われる天体が天上で燦々と輝いている。光を浴び、少しずつ上昇した気温が湖を覆った氷を徐々に溶かし、プレートの表面まで水が浸入し始めていた。
ズン……と音がして、近くのプレートが一つ沈み始めた。上がった飛沫が俺たちの居るプレートまで飛んで、足元が濡れる。それでようやく彼らは逃げなければと思ったらしく、重い腰を上げて近くまで集まってくれた。
「凌なの? ゼンっていう竜なの? それともレグル神?」
半竜の美桜が俺を見上げる。
その青い瞳に、白髪の男が映り込んでいた。長髪で、頭には竜の角が生えていて、耳はとんがり。彼女が疑問符を抱える理由がよくわかる。
「俺は、俺だよ」
俺はそれだけ言って、魔法陣を発動させた。
辺りが光に包まれ、身体が空気に溶ける。
美桜たちとは、そこで別れた。
俺とゼンには、どうしてもやらなければいけないことがあった。
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『世界を元に戻そうと?』
「ああ」
魔法陣が消えた氷の上で、俺は一人、呼吸を整える。
ゼンの声はテラの声より若干高くて、柔らかみがある。
「レグルノーラは勿論、リアレイトもあのままにはしておけない」
天上に空いた穴に目を向けると、ゼンの苦しみが胸の奥に押し寄せた。
『私が破壊の限りを尽くしたからか』
「身体を貸していた俺も同罪だ」
羽を広げ、氷を蹴って空に飛び立つ。生温い空気を突っ切って穴を潜ると、翠清学園高校のグラウンドに出た。以前空いた大穴と同じ位置。“ゲート”になったグラウンドには穴が空きやすくなっていた。ドレグ・ルゴラに乗っ取られていた俺の本体は、それを利用して“湖”に辿り着いたらしい。
リアレイトの空には、まだ黒い雲が残っていた。雲の隙間から太陽がどうにか光を当てようと、必死に光っているのが見える。
校舎の周辺には警察や自衛隊の車両が未だ駐まっていた。現場検証をしているらしき制服姿の警官と目が合う。彼は咄嗟に声をかけてきたが、構っている場合じゃない。俺は追跡を逃れるように、その場をあとにした。
上空へ。
飛びながら被害状況を目の当たりにする。
崩れたビル、散乱した死体、くすぶる炎。
街は現在進行形で壊れていて、とても魔法でどうにかできるような気がしない。
何か良い方法はないのか。悩んでいると、
『時間を切り取る、という方法がある』
とゼン。
「どういう意味だ」
『お前は、二つの世界の時間の流れが極端に違うことに対して、何の疑問も抱かなかったか? リアレイトの時間は切り取られている。こういう事故がある度に』
「こういう事故? レグルノーラで起きたことが、リアレイトに影響を与えることを事故だというのか?」
『そう。リアレイトの時間を切り取り、事故が起きる前とこれからの真っ白な時間を繋ぐ。切り取られた時間を使って、元に戻す。リアレイトには魔法の概念がない。だから何かしらの代償が必要になる。レグルノーラの歴史を知っているか。私がリアレイトに侵攻したのはこれが初めてではない。何度も繰り返している。その度に、塔の魔女たちは危険を冒してこの方法でリアレイトを救った』
「ちょ、ちょっと待って。それって、時間を巻き戻すってわけじゃなくて」
『あくまで、切り取る。同じ長さの赤と青の紐があったとして、赤い紐の一部が焼け焦げたとする。その部分を切り取り、無事な部分だけを繋ぐ。この赤い紐と、もう一つの青い紐の両端を持つと、青い紐はたるんでしまう。これが、リアレイトとレグルノーラの時間の歪みを生んでいる。今、二つの時間の差はどれくらいだ?』
「どう……、だったかな。1分が1時間……だったか。60倍?」
『その差が更に広がる。それだけのこと』
「……それってさ、時間を戻すのと同じ? 切り取った時間に死んだ人間はどうなる?」
『リアレイト自体が切り取る直前に戻る。つまり、死ぬ前に戻る。何ごともなかったかのように、同じ時間が経過する。死ぬ運命だった人間は死ぬだろう。出会うべき人間とは出会うだろう。彼らは同じことを繰り返すが、誰もそう思わない。なぜならば、切り取られたことに気付かないからだ。リアレイトに文献にレグルノーラ絡みの事件は記されていない。それは、彼らの知らないところで、レグルノーラ側が配慮したからだ。これまでもずっと行ってきたこと。何も、恐れることはない』
「ゼン、お前、物知りだな」
言うとゼンはフンと馬鹿にしたように笑って、
『私がどれくらい生きてきたのか、お前には想像など付かないだろう。人間に化け、塔に入り込んだこともある。塔の魔女たちはその都度私を見破ったがね。――さて。自分でやったことは自分で責任を取らねばなるまい。私はお前に救われた。今度は私がお前の世界を救う番だ』
スッと、意識が入れ替わった。
俺の身体はゼンのものになり、彼は俺に成り代わって空に巨大な魔法陣を描き始めた。銀色に光り輝くその魔法陣には、古代レグル文字が美しく刻まれていく。中央の小さな縁の内側と、外側の縁の周囲には竜の文様。手の込んだ丁寧な魔法陣。
――“リアレイトの壊れた時間を切り取り、未来へ繋ぐ。全ての悪しき魔法よ消え去り、平穏な世界へ戻れ”
祈りにも似た言葉がひとつひとつ刻まれていくのを、一体どれくらいの人が見ただろうか。
白銀の魔法陣から虹色の光が溢れ出て、世界に降り注いでいくのを、どれだけの人が感じただろうか。
温かく柔らかいその光は、暗く沈んだリアレイトの街を、徐々に徐々に白く染め、そして――……。
音を立てて時計が戻り始める。
何も知らなかった時間まで、どんどんどんどん、巻き戻っていく。




