148.飢えと孤独
轟音を立て、帆船が沈み始めた。その振動が遠く離れたこの場所にまで伝って、分厚い氷の下から足元を揺さぶってくる。数台のエアボートが視界の向こうに消えていくのが見えた。しかし、俺には自分以外の誰かを心配するような心の余裕はなくなっていた。
ヤツは鬼のような形相で俺を睨んだ。そして身体の奥底から力を解放し始める。
髪を逆立て、黒い炎で身体を包み、身体中に古代レグル文字を刻んでいく。独特の文字が露出した手や首や顔にまで、文様のように広がり、その文字ひとつひとつが赤黒く光を帯びた。
闇と呪いの魔法だ。
竜化こそしてはいないが、赤く光る目に尖った耳、裂けた口元から見える鋭い牙は、奪い取った俺の身体を魔物に変えていた。
その手には巨大な鎌。死に神のようなおどろおどろしい鎌が握られている。
『アレ……、凌なの?』
脳内に響く美桜の声は明らかに震えていた。
「……らしいな。信じたくはないが」
腕で額の汗を拭った。蛇に睨まれた蛙のように、足がガタガタと震えだす。
再び広がり始めた黒く濁った雲を背景に、ヤツは鎌の柄を両手で持ち、ぐるんと一回転させた。その軌道上に赤黒い魔法陣、古代文字で刻まれる文字列。読めない。
魔法陣が光る。咄嗟にシールド魔法。黒い突風が真っ正面から吹き付ける。弾いた。ホッとした直後、頭上に気配。鎌を振り上げたもう一人の俺。避けきれ――ない。剣で攻撃を受け止める。重い。はじき返す。着地したヤツがまた鎌を振るう。剣で応戦。
魔法で塞いでいたはずの傷口が開き、激痛が走る。腹の中から血が逆流して口の中に広がった。口元から流れる血を拭うこともできぬまま、俺はただただ鎌から逃れようと必死に動いた。
ザグッと氷の削れる音。弾いた鎌が凍った湖面に刺さった。ヤツは無言で鎌を抜き、また俺に向かってくる。
ヤバい。急いで逃れようとしたが、砕かれた氷の欠片に足を取られ――。
「あ゛あ゛あ゛ア゛ァッ!!!!」
自分の声の大きさに驚く。
左脇腹が抉られた。竜の鎧なんか全然役に立たない。何だこの、焼けるような痛みは。毒が染みこんでくるような、炎で熱した金属を当てられているような。変な蒸気が傷口から噴き出している。
ヤツが鎌を抜くと、血が噴き出して痛みは一層激しくなる。
治癒魔法だ。左手で傷口を擦りながら魔法をかける。塞がれと祈りつつ、これは魔法でどうにかできるレベルではないと心のどこかで思ってしまう。身体の中に毒素が回り、呼吸と思考が鈍っていく。
ダメだ。まだ始まったばかりだ。
顔を上げると、ヤツもまた俺と同じ箇所を手で押さえていた。血がだくだくと足元に流れ、凍った湖面の上に赤い血だまりを作り始めていた。
「どういう……ことだ。お前を傷つければ、私も傷つく?」
混乱し目を泳がせる黒い俺に、
「当たり」
と俺は笑ってみせた。
「同じなんだよ。結局は一人の人間。どっちが先に倒れるか。魔法が尽きるのが先か、命が尽きるのが先か。耐久戦と行こうじゃないか……!」
そんなこと微塵も思っていないクセに、俺はまた笑顔を向けてやった。
「小癪な!」
ヤツが鎌を振り上げた、その間合いに踏み込む。目一杯聖なる光の魔法を纏った両手剣が、ヤツの胸を裂いた。
激痛が走る。見えない何かが俺の胸を切り裂いていく。
鎧の下に血を滲ませ、それでも前を向く。ヤツがよろけているうちに、更に数回斬り込んでいく。
カウンター的に振り回された鎌の柄が身体に当たり、今度はヤツが優勢に立った。両手で器用に鎌を回し、離れても離れても、その更に奥を狙ってくる。タイミングがずれ、左肩に鎌が食い込んだ。筋肉が断裂する。歯を食いしばる。治癒魔法をかけ、また前を向く。
・・・・・‥‥‥………‥‥‥・・・・・
「何だその目は」
唐突に画面が切り替わる。
背の高い男が俺を見下している。
「私に逆らうのか。何者かもわからないお前が」
その中年の男には見覚えがあった。確か、前に見たときはもう少し若くて。
「逆らう? 伯父さんはどういう状況を『逆らう』って言ってるの?」
自分の口から漏れた声がやたら高くて、俺はまた美桜の記憶に入り込んでいるのだと悟る。
だだっ広い部屋に、豪華な家具。いかにも金持ちそうな高級品ばかりが整然と並んだ白を基調とした室内。美桜は自分の伯父に食ってかかっていた。
「私はお前を芳野家の人間だと思ったことは一度もない。美幸の忘れ形見? 知ったことか。アレもアレで狂っていた。両親はやたらと美幸を庇ったが、私は騙されなかった。結局死ぬまで、美幸はまともじゃなかった。生まれたお前もまともじゃない。私に庇護されなければ生きていくことすらできないクセに、都度反抗的な目で睨んでくる。飼われているという自覚が足りない。それを『逆らう』と言うのだ」
「飼う……? 私は動物じゃないわ」
「動物じゃない? ハハッ! 馬鹿げたことを言う。獣だ。幼い頃から気に入らないことがあれば獣のように暴れまわっていた。それを懐柔するのにどれだけ苦労したことか。自覚がないということは、やはり獣だったということ。檻に閉じ込めておきたいが、どうやら世間はお前を人間だと勘定するらしい。残念ながら私にも世間体というものがある。悔しいがお前を養わなければならない。人間として。幸い金はたんまりある。私の視界から消えるならば、金はいくらでも出してやる」
男の言葉は、美桜を興奮させた。
湧き上がる怒りを必死に抑え、呼吸を整えようとする美桜。
男は更に追い打ちをかける。
「消えろ。目障りだ」
――それが、引き金になった。
溢れ出した力が波動となって、室内を駆け抜けた。美しく飾られていた調度品がパリンパリンと小気味よい音を立てて砕けていく。ガラスが、陶器が、欠片となって床に散乱していく。
男はたじろいだ。
何が起きているのかと目を見張る。
目の前の美桜は怒ってはいるが、何を触ったわけでもなかった。それがまた、男の恐怖をかき立てた。
「ば、化け物……!」
罵りの顔が真っ青に変わっていくのを、美桜はじっと見つめていた。
・・・・・‥‥‥………‥‥‥・・・・・
赤黒い魔法陣がまた眼前に展開されていた。
間に合うか。シールドを張るが、ヤツの方が僅かに早い。無数の黒い棘が身体に突き刺さっていく。両腕で頭を守るのが精一杯、腕にも足にも身体にも、棘の毒が染みこんでくる。竜化して全身を鎧で覆ってもこれだ。人間の姿のままなら。そう考えるとゾッとする。
何の毒だ。
どんどん息苦しくなっていく。
毒の浄化を。解毒。
今、常態的にかけている治癒魔法に重ねて、解毒魔法をかける。二つ以上の魔法を同時になんてできるのか。知るか。そんなことより、解毒。早くしないと、身体が動かなくなる。これは俺の意識体であるのと同時に、美桜の。
・・・・・‥‥‥………‥‥‥・・・・・
「辛くないの?」
傾いた日が空をオレンジ色に染めた頃、学校の屋上で話しかけてきたのは陣だ。
「何が?」
やはり俺は美桜になっていて、彼女は髪を掻き上げながら素知らぬフリをしてボソリと返す。
「わざと自分を痛めつけてるんだろう。そうやってツンツンして、自分に誰も寄りつかないようにして。君は一体、何がしたいの」
フェンスに寄りかかり、美桜は高い空を眺める。
心のもやもやを整理しながら、彼女はゆっくりと陣の問いに答える。
「わからない。心の開き方なんて、全然、わからない」
夕暮れの柔らかい風が、彼女の長い髪の毛をなびかせた。
顔に貼り付いた髪の毛を手ですいて、彼女は長いため息を吐く。
「私って、そんなに嫌な人間に見える?」
言うと、陣はプッと噴き出して、それから大きな声で笑った。
「何だ。人目を気にしてたの。美桜が」
「ちょっと……! 失礼ね。真面目に聞いてよ。こっちは真剣なのよ」
「あぁ、ゴメンゴメン。意外だったから」
陣は咳払いして、どうにかこうにか体裁を整え、彼女に向き直った。
「別に、誰からどう思われようと構わないと思うけど? 他人の評価って、それほど必要?」
美桜は何も答えない。ただじっと、陣の顔ばかり見つめている。
「中には、どんなにいい人にだって悪意しか持たない人間が存在する。例えば誰かに親切したら、『それは誰かにいい人だと思われたいからだろ』なんて言ったり、綺麗に着飾っただけで『見た目に余程自信がある』だの『良い格好をして異性の気を引きたい』だの、支離滅裂なことを平気でいってくる人間が多く存在する。人間の思考ってのは単純で、周囲にも流されやすい。一人がそんなことを言い出したら、今まで思ってもいなかったような人たちが、同じ思考になってしまう。来澄凌との写真だって、その一環だろうね。誰かがイタズラで撮った。悪意を持った人間が、マイナスイメージを付けて拡散させる。それがどんどん広がって、それがスタンダードになってしまう。事の発端なんて、些細なことなんだと思うよ。鎮火させようとして炎上することもあるらしいから、僕は放置するけど。ストーキング? アレはマズいから、僕が正体突き止めてやめさせる。大体、目星は付いてるし」
「目星?」
「来澄凌のゲーセン仲間。とは言っても、社交辞令程度の付き合いらしいけど。彼が君に気に入られたことに激しく嫉妬したらしい。けど、まぁ、干渉者であるという可能性は低いかな。微塵も力が感じられない」
「そう」
「……いい加減、一人で抱え込むのを止めたら?」
美桜はふいに陣から目を逸らした。
「来澄凌が君の思っているような人なら、きっと相談に乗ってくれる。全部話して、君という人間をもっと知ってもらったらどうだろう。僕が見た限りでは、彼からは悪意の欠片は微塵も感じられない。澱んではいるけれど、それは彼も人間不信的なところがあるからであって、それさえなくなれば、きっと良い相棒になれる。君が初めて“この世界”で、近づきたい、一緒に戦いたいと思った相手なんだろう。もっと素直になったら?」
・・・・・‥‥‥………‥‥‥・・・・・
手から剣がこぼれ落ちた。
気が付くと俺は、もう一人の俺に首根っこを掴まれ、宙に浮いていた。
凄まじい力で締め付けられ、息ができなくなって、ヤツの手を必死に引き剥がそうとしていた。けれど、どんなに力を入れて掴んでも、ヤツは手を離そうとしない。獲物を嬉々として見つめている。
「捕まえた」
ヤツはニヤリと笑った。
牙が口元からはみ出して見えた。
古代文字の刻まれた肌が、気持ち悪さを倍増させる。
長い鎌は氷面に突き刺さり、そこから黒炎が立ち上っているのが見えた。
「私がお前でお前が私なのだとしたら、決着など付きようもないと。ならば再び、その意識体を私が取り込むしか方法がない。私の中で溶け、私の一部になって貰おう。最強になりさえすれば、誰も私を止められぬ。人間どもがどれだけ束になってかかろうと、だ」
俺と同じだけ傷ついてるクセに、ヤツはやたらと余裕だった。
苦しいのは俺だけか。
クソッ。
せめてもう少し弱らせてから。
ヤツの左手が赤黒い光を帯びた。かと思うと、俺の腹めがけて思い切り突っ込んできた。拳が、身体を突き破った。違う。これは。意識体を、掴まれた。
ダメだ。
分離する。
同化が解ける。
竜化が逆再生で戻っていき、人間の肌が露出する。けれど、それは俺じゃない。このきめ細かな肌は、美桜の。
俺の目線は徐々に美桜の身体から離れて、真っ黒なもう一人の俺の身体に吸い込まれ――――。
『キスから始めたらいい? ハグが先だった?』
美桜の心の声が聞こえる。
『手を繋ぎたいとか、触って欲しいとか。そういうのって、どう表現すればよかった?』
『嫌われた? 大丈夫だった? もっと言葉を選ばないと』
『好きって、こういうこと? ずっと側に居たいって思うこと?』
『どうして冷たいの? 私のこと、嫌い?』
『嫌われるくらいなら、近づかない方が良い?』
『私の知らないところで何をしているの? 何をされたの?』
『目を覚ましてよ。こんなに、こんなに好きなのに。私の好きな人はどんどん離れて行ってしまう』
『私を一人にしないで』
『嫌いにならないで』
『素直って何』
『私は何?』
『役に立ちたい。側に居たい。同化なら合法的に凌と一緒にいられる。好きなの。とても好きなの。お願い、凌。離れないで。お願い……!』
肩で息をしていた。
頭が酷く興奮していて、視点がなかなか定まらない。口元はやたらと緩んで、腹の底から笑いがこみ上げてくる。
目の前には人間の姿に戻った美桜が。
白いワンピースはあちこち血で汚れているが、彼女の血ではなさそうだ。
怯えた目。絶望した目。
足元に転げた道具袋と両手剣が、俺がさっきまでそこに居た証。
「戻ったか」
手を何度も握り直し、肩を回して感覚を取り戻そうとする。本来あるべきところかどうか、要するに身体と意識が一致したのだから、違和感はない。
身体に回っていた毒素が抜けた分、軽く感じる。毒はどうやら、俺の意識体を美桜から引き剥がすためのもの。その証拠に、美桜自体が毒にやられている様子はない。彼女は怯えながらも毅然とした態度で俺を睨み付けた。
「返してよ」
震える声で美桜が言う。
「凌を返して」
止めどなく流れる彼女の涙を拭くことすら許されない。
「初めから、お前の物ではない。私が先に見つけた。私の器だ」
ヤツは俺の声でとんでもないことを口走る。
それを彼女が許すはずもなく。
「違う。凌は私と契約した。私の大切な人」
睨み付ける美桜に、俺は手のひらを向ける。魔法陣だ。古代文字だが、これは読める。美桜の記憶の中で見たあの魔法陣。
――“偉大なる竜よ、血を滾らせよ”
刻まれていく文字に対し、美桜は慌てて別の魔法をぶつけてきた。文字が砕け、魔法陣が光を失う。
強制的に魔法を終了させられたことにヤツは驚いて、あからさまに機嫌を悪くした。
「あなただったのね」
美桜はギリリと歯を食いしばって俺を睨む。
「何の魔法かわからず、一度凌が使ってしまった。私もてっきり力を増加させる魔法なのだと思って、何かあったら使えば良いとそればかり。違う。本当は、私の中の白い竜の血を蘇らせる魔法。凌が一度使ったことで、しかも大量の魔力を注ぎ込んだことで、急速に私の力が高まってしまった。知らず知らずのうちにレグルノーラに呼び寄せてしまっていた悪魔の出現率が上がってしまったのも、ゲートが広がりやすくなったのも、黒い気配がやたらと漂うようになったのも、あの魔法が切っ掛けだった。あなたは“裏側”から、私は“表側”から。互いに穴を広げるようにする。結果、グラウンドに巨大な穴が空いた。まんまとあなたは凌を湖におびき出すことに成功し、身体を得てしまう。意識がなかったとはいえ、竜になってあなたの悪巧みに加担してしまった。許せない。何がしたいの。凌の身体を奪って、あなたはどうなりたいの」
「どう……? とは?」
「二つの世界を破壊した先には何があるの? 支配したいの? 自分を崇拝させる世界でも作りたいの?」
「馬鹿馬鹿しい」
「じゃあ何? わからない。あなたはどうしてこんな恐ろしいことを」
「目的がなければ破壊行為を愉しんではいけない? 破壊そのものが目的だとしたら?」
ドレグ・ルゴラの言葉に、美桜の表情が凍った。
目が泳ぐ。
自分の常識が通じない相手だと気付き始める。
高ぶった血が彼女の手足に白い鱗を浮かび上がらせていく。彼女の茶髪が少しずつ白く変化していって、背中に竜の羽が生えだした、そのとき。
ふいに後方で巨大な力を感じ始めた。俺の身体は危険を感じ、慌てて振り向いていた。
魔法陣だ。
銀色に煌めく魔法陣が、俺の直ぐ側で展開していた。
気付かなかった。自分のことで精一杯で、すっかり皆遠くに行ったのだとばかり。
砕け、沈んでいく氷塊の奥に、疎らながら人の姿がある。赤いのはディアナ。その直ぐ隣、黒いのがモニカ。小さいのがノエルで、ローラ、ジーク、シバ、レオ、ルーク、ケイトとエリーの姿もある。
魔法陣の文字はこうだ。
――“破壊竜ドレグ・ルゴラと救世主リョウの身体を強制分離させよ”
嬉しかった。ありがたかった。
けれど今は未だ。
ヤツは俺の顔でニヤリと笑った。氷に刺していた大鎌を手に取り、魔法陣に向かって大きく一振り。黒い炎を含んだ風が突き進み、魔法が発動する前に、魔法陣を真っ二つに割ってしまう。
せっかくの魔法陣が砕け散った。
霧散した魔法の粒も、黒い炎にかき消された。
そして次の瞬間、俺はディアナたちの真ん前に立っていた。驚いた顔、恐怖した顔で俺を見る面々。変わり果てた容姿に愕然としているようにも見える。
「お前は一体、何者だ……」
震える声でディアナが言う。
俺はクククと喉を鳴らす。
「さぁ、何者だろう。名乗る名前など持ってはいない。好きに呼ぶが良い」
俺の声がそう言うと、皆益々震え上がって、数歩後ろに引いた。