145.存在意義
彼女の言葉の意味が、直ぐには飲み込めなかった。
美桜はゆっくりと身体を起こし、ベッドから足を下ろした。立ち上がり、船室に集まった面々の顔を眺めてからおもむろに口を開く。
「私が凌の竜になれば、かの竜と戦えるでしょう? 協力するわ」
声を震わし、顔を引きつらせながら、彼女はようやく紡ぎ出した言葉を噛みしめているようだ。目に浮かんだ涙が光るのを見て、俺の胸は痛んだ。
「協力……ですって? あなた、自分が何者かわかって」
ローラがすかさず突っ込むが、美桜は深く頷いて、
「知ってるわ。私は人間じゃなかった。かの竜ドレグ・ルゴラの血を引く白い竜だったんでしょう。自分がしてしまったことは全部見ていたわ。恐ろしい竜の血を引いていたというのに、私は全く自分の正体を知らないでいた。幼い頃から力があることも、やたらとレグルノーラに固執してしまったのも、全部そのせいだってわかって、かえってせいせいしたくらい。でも、少し光が見えたわ。凌が今、竜を欲しているなら丁度いい。協力するわ。因縁を断ち切るためにも」
ところどころ震えながらも、彼女はひとつひとつの言葉に力を入れながら必死に訴えてくる。
しかし、レグル人たちはすんなり彼女を受け入れようとはしなかった。
「救世主様、騙されてはいけません。いくら邪悪な気配がしないからといって、軽々しく信じるのは感心しません」
ルークが言うと、ジョーも頷き、
「そうだ。人間の姿をしていたときは全く気配がなかったのに、白い竜へと姿を変えた途端、恐ろしく邪悪な力を発揮したのをしっかりと覚えている」
レオに至っては、剣の柄を握り、いつでも抜けるという形相で美桜を睨んでいる。
「『下手にかの竜を刺激してはいけない』とローラ様に言われ、渋々と見守っていたが、それがなければいつでも息の根を止めていた。人の良い救世主殿に取り入って、かの竜と共に世界を滅ぼそうとしている可能性だってある。看過できない」
当然の反応だと思う。
今までのことを考えたら、単純に信じろなんて言うのは無理。
だけど俺は、不思議と美桜のことを疑う気持ちにはなれなかった。
美桜は下唇を噛んで、グッと何かを堪えるように両手を握っている。華奢な肩を強張らせ、静かに息を吐きながら、必死に呼吸を整えていた。
「け……けれど、美桜が竜として来澄と同化できたなら、もしかして、かの竜と同等に張り合えたり……なんて、するんじゃないか。私はアリだと思うが……」
唯一賛成するシバだが、周囲の目は冷たい。ギロリと一斉にシバを睨み返すと、彼はそのまま両手を挙げ、降参のポーズを取った。
このままじゃ埒があかない。どうにかして、この場を収めないと。
「この湖と同じように、聖なる光の魔法で彼女は浄化された。なんなら、俺以外の誰かが同じ魔法を彼女にかければ」
「――止めましょう、生産性のない話など」
ローラが割って入った。
皆口を噤んで、一歩下がる。
「私が言いたかったのはそういうことではないのよ、皆。彼女は今まで人間として生きてきた。だのに、封印されていた白い竜の姿をさらけ出し、竜としてリョウに協力を申し出ている。それでいいのかと言いたいの。美桜、あなたは人間としての存在意義よりも、竜としての必要性を優先するの?」
美桜はローラの言葉をひとつひとつ確かめるように何度も小さく頷き、気丈にも、
「そうよ」
と言う。
「もし私の身体が役に立つなら、どうぞ使って欲しい。私は生まれて初めて、自分が誰かの役に立つのかもしれないって思い始めてるの。ずっと……、ずっと要らない子だと思われていたから。婚外子だからって、唯一の肉親の伯父も私を受け入れてくれなかったし、学校でだって友達なんか一人もできなかった。小さい頃ママとシンと一緒にあちこち点々とした理由も、今なら分かる。私はかの竜の血を引く災厄の子だったから、レグルノーラにさえ受け入れてもらえていなかった。ディアナやジークが必死に守ってくれていたけれど、私はどこかで違和感を覚え続けていた。何かがおかしい、私は皆と違う、避けられてるって。どうにかしてこの世界に受け入れてもらいたくて死ぬ気で戦ってきたけど、やっぱり私の扱いは皆と違った。そういうのが嫌で嫌で。でも、きっと悪意からじゃなくて、そうすることしかできなかったんだって今はなんとなくわかるけれど、集団の中に居ても孤独感に満たされていて、私はどうにかなりそうだった。私を私として必要としている人間なんてこの世には一人として存在しないんじゃないかって、何度も思った。そういう気持ちを見透かされて、私は竜になったとき、心を奪われてしまった。心と体が別れて、色々なところへ意識が飛んで。……見たの。暴れる私を必死に止めようとする皆を。どうにかして救おうと、あらゆる手を尽くす皆を。もしかしたら――、私を殺せば、父親という立場であるかの竜を怒らせると思ったからそうしていただけかもしれない。人を殺せば罪になるから、そうならないように監護の義務を全うしただけかもしれない。けれどね、そのとき、温かさを感じた。私は守られてる。私は愛されてる。私は必要とされてる。どうにか、皆の役に立ちたい……! お願い、凌。こんな私だけど、もしよかったら、凌の竜にしてくれない? 契約を結んで。服従を誓うわ」
話しながら一歩、また一歩と進み、美桜はとうとう俺の眼前まで迫った。そしてひしと俺の手を握り、上目遣いに見つめてくる。
青みがかった瞳が潤んでいた。
少し赤い鼻と耳が、彼女の感情の高ぶりを知らせてくる。
断る理由なんてどこにあるだろう。
「わかった。契約する」
俺は彼女の手を握り返した。
「けど、いいのか。俺と契約するってことは、俺と同化するってこと。俺はそれしか戦い方を知らない」
「わかってる。見たもの。同化することであなたが人間の姿じゃなくなるのも、信じられないくらい強くなるのも」
美桜は笑った。
その顔は強張っていた。
彼女の手は震えていたし、潤んだ目から一粒、頬に涙がこぼれ落ちていた。
俺よりずっと、彼女は追い詰められている。追い詰められて追い詰められて、それしかなくなった。
ドレグ・ルゴラを倒す以外に俺の存在意義がなくなってしまったように、彼女も俺と同化することでしか、自分の存在意義を立証できない。
何本もあったはずの道がひとつひとつ途絶えた結果が、これか。
皮肉すぎる。
「少し……、二人だけにさせてください。契約を交わすのに集中したいので」
俺はそう言って、皆を船室から出るよう促した。
皆険しい顔をしている。
唯一シバだけが、げんこつを見せて引きつった笑顔を見せていた。
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船室には、俺と美桜だけが残った。
ドアの向こうから足音が遠のくのを確認して、俺たちは再び見つめ合った。
「本当に良いのか」
と訊くと、
「お願いします」
彼女はらしからぬ敬語で俺に返した。
緊張でガチガチで、とても契約なんてできそうにない。
俺は彼女の背中に手を回して、グッと自分の胸に抱き寄せた。ギュッと抱擁すると、彼女は少しずつ肩の力を抜き、やがて俺の背中に腕を回してきた。
ハグすることで、緊張がほぐれるらしいとどこかで聞いた。しばらく抱き合ったままでいると、心拍数も呼吸数も少しずつ落ち着いてくるのがわかる。
「契約したら、元に戻すことはできない」
「わかってる」
そう言って、彼女は鼻をすする。
「それに、同化して竜化しても、ドレグ・ルゴラには勝てるかどうか。なにせあいつは、俺の身体を奪っている。もし対峙したら、意識が身体に引っ張られるか、身体が意識に引っ張られるか想像が付かない。場合によっては最悪な事態も引き起こるかもしれない。それでも、構わないのか?」
「大丈夫」
大丈夫なもんか。
泣いてる。
怖いくせに、どこまでも強がって。
「キス……してもいいか?」
「え?」
美桜が涙に濡れた顔を上げる。
「契約したら恋人同士じゃなくなる。干渉者と竜の関係になる。最後の、キス」
言うと、彼女は眉間にシワを作り、口をひん曲げて涙をボロボロと零した。
「凌の馬鹿。最後なんて言わないでよ」
唇と唇が合わさって、互いの息が混ざり合った。
絡めた舌が頭を痺れさせる。
麻薬だ。
彼女との関係という麻薬をもって、どうにか危機を乗り越えようとしている。
彼女がそれをどう思っているのか、俺には全く分からない。
ただ、彼女もいつも以上に俺を求めたし、俺も彼女を求めた。
いっそのこと最後まで、なんて思ったりもしたけど、そこは理性で止めた。
ゆっくりと唇を引き剥がす。
そうして、目と目で合図し、彼女の同意を得る。
足元に魔法陣を描いた。二人がすっぽりと入る大きさの魔法陣だ。内側の円には普段よりも多く重ねた三角形。時計回りにゆっくりと回ってゆく。二重円の間には、文字を書き込む。レグルの文字じゃない。相変わらずの日本語。見てくれより内容重視で。
――“我、ここに竜と契約を交わす。互いの命が尽きるまで、我は竜を信頼し、竜は我に尽くす”
テラと契約したときの言葉は、今もはっきりと覚えている。
これが俺の運命を大きく変えた。
決して生易しい言葉じゃない。重い重い言葉。
テラはその言葉の通り、ヤツに握り潰されるまで、ずっと俺の相棒だった。
美桜は足元で書き込まれる文字をひとつひとつ凝視しながら、何度も頷いた。そして全部の文字が書き込まれると、ゆっくり俺の顔を見る。
「……互いの命が尽きるまで、我は竜を信頼し、竜は我に尽くす」
魔法陣の言葉を呑み込むようにして、二人、丁寧に文字を読んでいく。
文字が、ゆっくりと魔法陣から剥がれていった。リボン状に連なった文字列が、らせん状になって俺と美桜の周りを囲う。グルグルと何度も何度も文字は巡り、やがて光を緩めた文字たちは、リング状になって俺と美桜の頭上へ移動していった。文字が身体に侵入し、脳に焼け付いた音がする。焼けるような痛烈な痛みと共に、俺たちは契約完了を知った。
本当にこれでよかったのか。
干渉者の先輩として俺の前をずっと走ってきたはずの美桜を、こんな格好で受け入れるべきだったのか。
迷いはあった。けれど、他に手立てが見つからなかった。
「もう、後戻りはできないわね」
彼女が小さく笑った直後、大きく船が揺れた。
激しい波音と、叩き付けるような振動が甲板から伝ってくる。
船上で何かが起きている。
俺と美桜は顔を見合わせ、互いに頷き合った。言葉を交わすこともなく、船室を出て甲板に急ぐ。
船内は混乱していた。慌てふためく乗組員たちの声と、どよめく能力者たちの声が入り乱れていた。甲板へ上がる前から邪悪な気配が空気を伝ってくるのがわかる。穏やかだった水面が波打ち船を揺らし続け、俺たちは何度も転びそうになった。
ようやく甲板へ戻った俺たちを待っていたのは、黒い風だった。
どわっと空気を震わす黒い波動が空から降ってくる。晴れかけていた空に暗雲が立ちこめ、辺りはすっかりと暗さを取り戻していた。
船から放り出されまいと、甲板に居た各々は船縁やマストにしがみついている。
まるで嵐だ。
俺と美桜も、船体の壁にしがみつき、なかなか前に進むことができない。
「――空が!」
誰かが叫んだ。
声に釣られて頭を上げると、空に大きなヒビが入っているのが見えた。ヒビはまるでガラスを割ったときのように広がっていく。
ミシミシと空全体が震えたかと思うと、バリンという強烈な音が響いた。
巨大なガラスの欠片が空から剥がれ落ち、ドボンドボンと湖に吸い込まれていく。
何かが外側から空を割っているのだ。
空の隙間から巨大な手が見えた。白い手。鉤爪の付いた、竜の手。
ドレグ・ルゴラだ。
誰もが唾を飲み込んだ。
空の隙間は容赦なくどんどんと広がっていく。
先ず右腕が、肘まで全部突き出してきた。
大きく開いた手のひらに誰もが戦慄し、声を失う。
一旦腕が引っ込み、フッと胸を撫で下ろした瞬間、今度は巨大な目が二つ、空の隙間から覗いた。
見ている。
探している。
俺を。
俺と美桜を。
ギョロリと眼球がこちらを向いた。
目が……、合った。
そこから先、ヤツが穴を突き破るまで時間はさほどかからなかった。
穴に頭をねじ込んだかの竜は、そのまま力任せに空を突き破った。空はどんどんと穴を広げ、堪えきれぬように大きな欠片をどんどん湖に落としていく。
空の欠片が落ちる度に湖面は揺れ、船体も大きく揺らされた。
何だコイツ。
なんて凶悪な、なんて強烈な。
ヤツの全身が穴から這い出し、大きく羽を広げると、帆船はすっかりとその影に覆われてしまった。
デカい。
だだっ広い湖だけの世界が、まるで小さな溜め池になってしまったような感覚に陥ってしまう。
かの竜は咆哮した。
天が震え、水が震えた。
命が全部吸い取られたような絶望感が辺りを支配し、誰一人、動くこともできなかった。
黒い気配を纏ったかの竜は、己の咆哮に満足したのか、崩れ落ちた空を見上げてしばし静止していた。
崩れ落ちた空の隙間からは、暗雲立ちこめる別の空が覗いて見える。あれは、もしかしてリアレイトの。
次の瞬間、かの竜の白い身体がパッと弾けたように見えた。
何が起きたか理解できず、眼をキョロキョロとさせていると、ふいに船上がざわついた。
「凌が――……、もう一人居る……?」
美桜の震えた声で状況を把握する。
甲板の真ん中に、全身黒ずくめの男が立っていた。
邪悪な気配を隠すこともせず、己の感情を抑えようともしていない、悪意の塊がそこに居た。
心音が激しくなっていく。呼吸が荒げる。
頭がぼうっとし、意識が遠のきそうになる。
「来やがった」
俺はそう言って、ヤツを睨み付けた。
かの竜ドレグ・ルゴラに乗っ取られた……、自分自身を。