143.晴れゆく
漆黒の世界に柔らかな銀色の雪がチラチラと降り注ぎ、闇を消していく。
じわりじわりと広がっていく光。
溶けない雪はやがて世界に色を取り戻す。
銀の雪が辿り着く先には、街の姿があった。レグルノーラの人間がリアレイトと呼ぶその場所は今、恐怖と悲しみに溢れている。
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意識がまた本体に戻ったのを、俺はなんとなく察していた。
崩れ落ちたビル群と、立ち上る炎や煙を背景に、ディアナが鬼のような形相で俺を睨んでいる。
俺は、人の姿をしていた。
「美桜をどこにやったと聞いている! 答えろ!」
ディアナが低い声で怒鳴ると、俺はクククと喉を鳴らす。
「知らないな。彼女は私とは別人格。何をしようが、どこに居ようが、私の知ったことではない」
もっともらしいことを無責任に言い、満足げに笑う俺。
そんなことでディアナが納得するわけはなくて、彼女は湧き上がる怒りを必死に抑えながら、どうにかこうにか俺から答えを引き出そうとする。
「凌の姿をして、まんまと私たちに近づいて。破壊の限りを尽くした白い竜が、これ以上何を望むのだ」
ディアナの赤い服は、ものの見事にボロボロだった。袖は千切れ、裾は焼け焦げ、煤と埃にまみれている。キッチリ結っていただろう髪も、酷く解けていた。せっかくの綺麗な黒い肌も、あちこちが擦り傷だらけで見るも無惨だ。
一方の俺は無傷で、ヤツ好みの黒い服に身を包み、涼しげな顔で彼女を見下している。
何があったのか想像には難くないが、それにしてもあまりにも極端な力の差を感じてしまう。
「何かを望まねば、行動を起こしてはいけないのかな」
ドレグ・ルゴラは俺の声で意味深な言葉を放つ。
「望むとは何か。私が何かに期待しているとでも? 人間はこれだから困る。自分の思考回路が誰にでも当てはまるのではないかと、妙な推察をする。私にとっての望みの概念と、人間の考える望みの概念は必ずしも一致しない。人間にとっての安息が発展や進歩の先にあるとするならば、私の安息は破壊と滅亡の先にある。望むという言葉を使うならば、私は私の安息のための破壊を望む。……とでも言えば、納得するのか」
皮肉たっぷりの言葉を浴びせる俺に向けて、ディアナは両手を突き出した。空っぽの魔法陣が目の前に出現する。
「……止めておくれ。それ以上、凌の姿と声で恐ろしい言葉を言うのは」
ディアナは涙に濡れていた。せっかくの整った顔が、まるで酷く年を取ったかのように崩れてしまっている。
「私はリョウになり、リョウは私になった。救世主と信じた男が敵として現れた気分はどうだ。絶望しろ。心を失え。それが、私の力になる……!」
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心地良い揺れの中で目を覚ますと、隣に居た誰かが反応して俺の顔を覗き込んだ。
金髪の端正な男は、寝起きの俺を見るなりフンと鼻で笑った。
「随分うなされていたようだな。悪い夢でも見たのか」
「……シバか」
俺は寝っ転がったまま顔を擦って、顔の筋肉を解した。
けれど、まぶたの裏に焼き付いたディアナの崩れた泣き顔は、なかなか消えそうにない。
「それにしても、とんでもない力だ。能力者が束になっても出し切れなかった力を、たった一人で優に上回ってしまった。……化け物だな」
化け物と聞いて、またさっきの場面を思い出す。あれは、夢なのだろうか。それとも、現実だったのだろうか。
布団をはいで、どうにかこうにか起き上がる。皆で運んでくれたのだろうか、きちんとベッドに寝かされていたのはありがたい。お陰で、あまり身体が軋まないで済んでいる。
「あれから、どのくらい経った?」
「大して経ってない。こっちの時計で一時間かそこら。その間にも、魔法は順当に効いている。私もさっき甲板まで見に行ったが、あまりの美しさに息を飲むほどだ」
「そうか。よかった」
この世界で魔法というヤツは、とにかく強くイメージを持ち続けなければ発動しない。魔法陣は単なる補助であって、実際は術者の想像力が全てを決定づける。鉛筆一本出せなかった俺がここまでできるようになるなんて、ある意味奇跡。皆が凝りもせず丁寧に指導してくれたからこそ、今があるようなもの。
「コックが差し入れにと食べ物を用意してくれていた。起きたら食べさせてくれって」
サイドテーブルを見ると、いかにも美味しそうに膨らんだパンと、野菜たっぷりのスープがある。
「少し、冷めたかな」
そう言ってシバが差し出した軽食を、俺はありがたくいただくことにする。
力の使いすぎで、確かに腹が減っていた。休んで魔力は戻ったが、空腹までは満たせないでいるのを見透かされているような量だ。
塩味が少し強い、パンによく合う野菜だしが、寝起きの胃に染みこんでいく。
こうした気遣いは、本当にありがたい。特に、ドレグ・ルゴラの記憶に触れてから、ひしひしと感じる。
「どうして、来澄なんだろうか」
唐突に、シバが言う。
「どうしてって?」
聞き返すと、彼は首を傾げた。
「“表”にもたくさん干渉者がいるはずだ。私のように干渉者に影響を受けてレグルノーラへ飛ぶようになった二次干渉者や、須川怜依奈のように無意識に干渉していた干渉者も含めれば、かなりの数の干渉者が日々レグルノーラを訪れていたはずだ。けれどその中で、かの竜は来澄を選んだ。救世主たる器だから? ではその器はどこで決まった? 誰かが選んだのか? お前はそれに対して、妙だとは思わなかったのか?」
――当然の、疑問だ。
シバでなくてもそう思うはず。
俺は口元を緩めて、シバの目を見た。何とも悲しげな、辛そうな目をしている。
「少なくても4つの頃には、ヤツは俺を選んでいた」
「4つ?」
「4歳。あの日、偶々俺は初めて意識的にレグルノーラへ干渉してしまったんだ。恐らくそれが引き金だ。美桜と初めての友達になった俺に、ヤツは少なからず興味を抱いた。そして、ヤツの魔法の邪魔をしたことが、更なる切っ掛けとなった。理由なんて、実に他愛ないモノだと思うよ。今更過去に遡って止めようだなんて思わないし、そうしたら今の俺はなくなってしまう。現実を受け入れて、その先を考える。そうしなきゃ、俺という存在そのものが消えてしまいそうで怖い。だからこそ、立ち向かう。――そう、思うしかない。違うか?」
4歳というワードを聞いて、明らかにシバの顔色が変わる。
隠しごとはするなといっていたのに、未だ隠していたのかと言いたげな顔だ。同時に、そこまで長い間執着されていたのかという同情の念も垣間見える。
「もうすぐ湖の浄化も終わる。そうしたら“表”に戻ってかの竜を倒すのか?」
シバの問いに、俺は首を横に振った。
「同じ空間に同じ人間は存在できない。“表”に戻れば、俺は恐らくこの身体を維持できなくなる。意識体を具現化させただけのこの身体は分解され、ドレグ・ルゴラと一体化してしまった本体に吸い込まれるか、行き場を失ってウロウロするか。それはヤツを“こちら側”へ呼び寄せたとしても同じだろう。完全浄化のあと、ヤツがどのくらい弱るのか。様子を見計らって分離を試みるしか、今のところ方法が思い浮かばない。倒す倒さないはその後だ」
「……辛いな」
舌打ちするシバの隣で、俺はスープを最後まで飲み干した。塩味の効いたパンも美味しくいただいた。
「なるようになるさ」
俺はシバの背中をバシンと叩いて、思いっ切り立ち上がり、笑って見せた。
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甲板に上がると、ほんのりと温かく柔らかい風が肌に当たった。
生臭さの代わりに、澄んだ水の匂いがする。
眩しさに目が慣れず、何度も瞬きを繰り返した。ようやく目が開けられるようになって、俺は思わず息を飲んだ。
そこは、空を映した鏡面だった。
薄暗い雲が空と足元に広がり、水平線を挟むようにしてどこまでも続いている。銀の雪は未だ宙を漂っていて、それらが風に揺られて、少しずつ雲から黒さを消し去っていた。雲の隙間からは日差しが注ぎ、光の階段がくっきりと浮かび上がっている。帆船の周囲にできた僅かな水の揺らぎが湖面に伝い、幾重もの波をこしらえる。それが何とも優雅で、何とも心地良い。
船縁まで歩いて眼下を覗けば、水底まで見えそうなくらいの透明度の高さを実感できた。あの黒くてべっとりした水とはとても比べものにはならないくらい、綺麗な水だ。
宙に漂う銀の粒がまたひとつ、またひとつと湖面に落ちていく。粒に含まれた聖なる光が水の中でじわじわと広がるのを、俺はしっかりと目で確かめた。
「決してハッタリではなかったのね」
声をかけられ振り向くと、ローラがいた。
俺よりもずっと疲れ切ったような顔をして、はにかんでいる。
「まぁね」
俺は愛想なく笑って、また銀の粒の落ちるのを見た。
彼女は俺の隣まで来て、船縁から同じように船外を覗く。そうして、長いため息を吐いては、また俺の方を見て小さく笑った。
「こんなにも強い力をもっているなんて、見た目じゃわからないものね」
「努力して手に入れたモノじゃないかもしれない。もしかしたら、得体の知れない存在に、いつの間にか付与されていたモノかも。そう思うと、あまり気持ちのいいもんじゃない。君のように望んで手に入れたものでもないわけだから、力があって良かったなんて思ったこともない。そういうのはホント、皮肉だよな」
俺が話している間、ローラは銀の粒を見つめるフリをして、俺の顔をしきりに気にしていた。それを知っていて、俺はわざと気付かないフリをする。
「心が綺麗でないと、聖なる光の魔法は使えない。リョウ、貴方の心は本当に透き通っているのね」
歯の浮くようなセリフだ。
俺はやはり、彼女の顔を見なかった。
「銀の粒が全部消える頃には、雲も消えているかもしれない」
話題を逸らす俺に、彼女は特に気にする素振りも見せず、「そうね」と相づちを打つ。
「昔、まだ科学が解明されてなかった頃、リアレイトの大地は平らだと信じられていた。太陽や月は大地の周りをグルグルと回っていて、大地は大きな象や亀、蛇が支えていると考えられていたそうだ。ここは、平らなんだろうか。あんな風にレグルノーラの大地が湖面に浮かんでるなんて、どう説明したら良いのかも分からないし、納得もいかない。けれど、もしかしたらそうなのかもって、だんだん思い始めてきた。この世界にも太陽があって、月があって。あり得ないと高をくくっていた世界の端っこが湖の先にも存在するのかもしれないし、下手したら巨大な竜なんかが世界を下支えしているのかもしれない。雲が晴れれば、またひとつ、知りたいことができる。興味が尽きない。全部終わったら、世界の秘密を探りに行くのも面白いかもしれないな」
そこまで言うと、彼女は俺の顔をわざとらしくのぞき込み始めた。最早、俺に対する気遣いなどなかった。
「……これからかの竜を倒そうとしている人の言葉とは思えないわね。もっと血なまぐさいことを思い浮かべるモノじゃないの。どうやったら倒せるかとか、どうすれば息の根を止められるかとか」
「そんな物騒なこと考え続けてたら、精神を病む」
「けれど、倒さなければならない相手だわ」
「それで全てが終わるならそうしたい」
ここまで来て、こんな回り道で大丈夫だったのだろうかという不安がよぎっていることを、もしかしたらローラも薄々感じているのかもしれない。湖の浄化が、イコールかの竜を弱体化させることに繋がるのかどうか、確認の方法すらあやふやなまま。
恐らく、俺はもう一度かの竜の中に入り込まなければならない。そして内側からヤツの動きを止め、力尽くで同化を解除する必要がある。
誰にも頼れない不安を、この湖が浄化される景色を見つめることで誤魔化していると思われたら、違いますよなんて言葉は出ないだろう。
「……浄化、できないかな。ドレグ・ルゴラ自身を」
「――え?」
「聖なる光の魔法を内側から」
と、そこまで言ったとき、にわかに甲板の上が慌ただしくなる。バタバタと乗組員たちが集まり、大声でなにやら話している。丁度、俺たちのいる船縁の反対側だ。
俺とローラは、話途中で彼らの方に向かった。
人垣の中にはシバも居る。かき分けて彼の側まで寄り、
「どうした」
と尋ねると、シバは細長い望遠鏡の筒を覗きながら、
「白い竜がいる」
と言った。
耳を疑う。
「白い竜? まさか。ちょっと貸してくれ」
望遠鏡をシバから受け取り、俺も中を覗いてみる。水平線しか見えず、困り果てていると、
「12時じゃなくて、1時方向」
シバに言われて覗く角度を修正する。視界にチラリと白い物が映り、俺は目をしばたたかせた。確かに竜だ。かなり小さくて、辛うじて竜だと分かる程度だが、薄曇りの中にくっきりと白い竜の姿が浮かび上がって見える。
「かの……竜だと思うか?」
シバは言うが、俺はどうだろうと首を傾げた。
「もしヤツが“ここ”に居るなら、俺の意識は引っ張られるんじゃないかと。気配もない。恐らくアレは」
「美桜か」
シバは俺から望遠鏡を奪い取ると、焦りを含んだ顔をして、
「急いで向かおう」
と言い残し、人垣から消えていった。
船は、まるでシバの焦りを体現するかのように速度を上げた。
甲板には更に乗組員が集まり、大騒ぎになっていた。
口々に、
「わざわざ向かわなくても」
「長はなんて恐ろしいことを」
と不安を漏らしている。
当然だろう。白い竜に対する、レグルノーラの人間の評価はそんなもんだ。目にしたら殺されると信じている彼らの前に、白い竜を突きつけようとしているようなもの。それでも、俺たちは白い竜を見過ごすことはできないのだ。
ローラは船縁からずっと白い竜の方角に目を向ける俺を、不思議そうに見ていた。しばらく無言だったのだが、白い竜のシルエットが肉眼でも確認できるようになった頃、思い立ったように俺の隣まで来て、視界を塞ぐように割り込んできた。
「かの竜の娘?」
「恐らく」
「倒すの?」
「いや」
「ではどうして」
「どうして? 仲間の元に向かうのに、理由なんて必要なのか?」
するとローラはポカンと口を開ける。
「呆れた。確か彼女は竜化して、“表”で破壊行動を。それでも仲間だと言い切るの?」
「美桜は操られていただけだ。彼女に非はない」
俺は至極真面目に答えたのだが、ローラは何故か笑い転げた。その様子を見て、周囲の男たちは困惑したような顔をしている。
「リョウ、貴方本当に、人を嫌いになるのが苦手ですのね。貴方にとって関わり合いのあった全ての人が味方で、敵になんかならないのでしょう。なんて愚かしくて、なんて滑稽なのかしら! 貴方はかの竜さえ救いたいと言った。倒すのではなく、救いたいという言葉が出るなんて、とんでもない平和ボケが救世主に選ばれたものだわと内心思っていたのだけれど、少し印象が変わりましたわ。貴方は全てを救いたい。全ての世界を平和に導きたいと考えている。レグルノーラの平穏のみを祈っている私とは格が違い過ぎですわね」
「……それって、貶してる?」
塔の魔女とはいえ、あまりにも失礼な態度に、俺はムッとして口をとんがらせた。
彼女は俺の顔を見て、また噴き出している。
「違うわ。心から尊敬しているのよ。貴方の、何ごとにも屈しない前向きな心に」
ちょっと前まで強張っていたローラの顔がすっかりほぐれているような気がした。
彼女のセリフは看過できない内容だったが、それでも、暗く沈んだ気持ちで居続けるよりも、幾分かマシだと思えた。