141.決戦前夜
物資の運搬は概ね好調だった。
ローラの言った通り、キャンプへ戻ると市民部隊らが車両と物資の準備をしてくれていた。緊急時用にストックしてある物資を放出、その他は街へ調達に走る。素早い動きに頭が下がった。
「その他に必要なものはございませんか?」
エリーが一人一人に聞き回り、メモを確認しては、必要数を発注している。帆船の乗組員たちは照れながらそれに応じ、自らも重い荷物を運んではせっせと準備に勤しんでいた。
彼らに混じって行動していた俺を見つけて、
「話がしたい」
とライルがやって来たときは少しドキリとしたが、何のことはない、彼は彼でタイミングの悪さと無礼を謝りたかったのだという。
「リョウには感謝すべきなのに、何故かあんな風になってしまって。随分と怒っているだろう」
親世代のライルにそう言われると、なんだかこそばゆい。
俺は照れ隠しに頭を掻いて、
「いや、その。そういうことは全く」
と、歯切れの悪い言葉を返した。
彼は俺を連れて、ゆっくりとキャンプ内を散策した。じっととどまって話をするのが照れくさかったのかもしれない。右に左に、大小のテントが連なる中を、人の波とは逆方向に歩いて行く。
薄暗くなってきた空の下、松明が辺りを優しく照らしていた。テントのシルエットが徐々に薄闇に浮き出て、中から漏れた光がチラチラと揺らめくのは、キャンプ独特の光景だ。
「君という人間を初めて見たとき、私は何故彼女が君を選んだのか、よく分からなかった。頼りないし、自信もなさげだし。けれど私たちレグルノーラの人間は、干渉者に頼ることしかできない。だから、君のことをどうにか信じようと努力した。……今となっては失礼な話だがね」
ライルの背中は大きい。
銀のジャケットがシルエットを膨張させてそう見えるのじゃなく、本当に大きい。強い男の背中というものを、彼はしっかりと見せてくれる。
「何より、ミオの選んだ少年だ。間違いはないだろうという気持ちはどこかにあった。けれど、いつまで経っても結果が出ないことに懐疑的になったし、ダークアイが巨大化していくのを止められないことで、苛立ちも募っていた。“表”で何が起きているのかわからない私たちは、どうやって悪魔の攻撃を止めればいいのか、まるで闇の中を明かりもなしに歩いているような感覚に襲われていた」
早すぎることも遅すぎることもないスピードで、彼は俺の前を歩く。俺は彼の言葉を聞き漏らさぬよう、一歩後ろを付いて歩く。
「君の力をにわかに信じることはできなかったが、君と行動を共にするようになり、ミオは笑うようになった。君と居て楽しかったのだろうね。彼女は強かったが、いつも一人で、誰かに頼ることを知らなかったから、その点では少し安心した。……君はもう、彼女の秘密を全部知ってるんだろう。知って、どう思った?」
ライルはそう言って、少しだけ俺の方を向いた。
彼が何を求めているのかよく分からなかったが、俺は素直に自分の言葉で返すことにする。
「別に、何とも思わない。美桜は美桜だし。それに、彼女の出自は彼女のせいじゃない」
俺の言葉に、ライルは急に立ち止まった。
肩と肩がぶつかり、俺はちょっとよろけてしまう。
「本当に、そう思って」
「ああ」
「今でも?」
「今でも」
ライルがどう思ったのか、俺は知らない。
彼はそんな俺の言葉を聞いて、眉をハの字にした。それが哀れみから来ているのか、同情から来ているのかさえ、俺にはよく分からない。
「彼女はかの竜の血を引いている。倒さなくてはならない相手だ」
レグルノーラの人間として当然のように出てくるライルの言葉を、俺は否定してはいけないのだと思う。彼らは白い竜に怯え、白い竜に全てを奪われてきた。それを、部外者の俺がとやかく言うのはお門違いというものだろう。
「美桜は破壊竜にはならない」
俺はそういうのが精一杯だ。
「根拠は?」
当然のように帰ってくる言葉。
「俺が、彼女を救うから」
薄闇の中でライルの目に俺の顔がどう映っていたのかなんて、考える余裕もない。
ただ俺は、どうにかして彼女を攻撃対象から外して欲しいと、そればかりを考える。
彼女が白い竜なのは、彼女のせいじゃない。ドレグ・ルゴラもまた同じ。誰一人信じてやらなかったばっかりに、同じ道を辿るなんてこと、絶対にあってはならないのだ。
しばらくきょとんとしていたライルだが、そのうちフンッと鼻で笑った。
随分と滑稽なことを真顔で話すヤツだとでも思ったのだろうか。デカい手を俺の頭の上に載っけて、ぐりぐりと撫で回してくる。
止めろよと腕を退けようとすると、今度は思いっ切り肩を抱かれ、背中を強烈に数回叩かれた。そしてそのまま、抱き寄せられる。
「――君で、良かった」
グズッと鼻をすする音が聞こえた気がした。
「君のような人間が救世主で良かった。きっと、世界は救われる」
失礼、と小声で話し、ライルは俺を解放した。
その目に光る物が見えたのだが、気のせいなのだろうと俺は目を逸らした。
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夜が深くなる寸前でようやく粗方の準備が終わると、帆船の食堂では復元を祝する宴が始まった。
清潔感の乏しい食堂の復元率も完璧で、すっかり汗にまみれた男たちが入ると、その汗臭さに鼻を摘まみたくなるほどだった。
コックが早い時間から仕込んでいた自慢の料理が角テーブルにこれでもかと置かれ、皆思い思いに仕入れたばかりの酒を呷っている。帆船では珍しい生野菜も、仕入れ直後だからこそ出せる代物だ。酒のつまみになりそうな肉料理から、居酒屋メニューにありそうなチーズのたっぷりかかった葉物と生ハムのサラダ、豆料理、ピザ風のトースト、パスタ、熱々のスープと、時間の許す限りこしらえたのだろう、凄まじい量だ。これがまた、恐ろしい勢いで消えていくのだから、見ていて驚くばかりだった。
シバは俺の隣に座って、チビチビとアルコールを舐めていた。未成年のクセにと思ったが、“こちら”では都合良く彼は成人だ。お前もどうかと勧められて飲んだ酒は、苦いんだか甘いんだか、とにかくアルコールが強めだってことしかわからなかった。
「こんなに長い時間“こっち”に居て大丈夫なのか」
時間も時間だし、集中力が途切れたら戻らねばならないだろうと、俺はシバに言ったのだが、彼はほろ酔いの赤い顔でクスリと笑う。
「今戻っても、絶望が待っているだけだ。それに、“表”での時間経過などたかが知れている。もう少し楽しんでから戻る。ディアナ様にも悪いしな」
「そうか。お前、単独では飛べないのか」
こんなに能力がありながら、芝山は一人でレグルノーラに飛ぶことのできる一次干渉者ではなかったことを今更のように思い出す。
「あんな状況だったのに、快く私を送り出してくれた。感謝しかない。これだけ動いても“向こう”では数分。目を覚ました後も状況は変わっていないだろう。寧ろ、悪くなっているかもしれない。ならば、“こちら”でやれることは全部やった方が良い。来澄、お前もそう思わないか」
シバは酔っている。アルコール臭い呼気。心なしか、目もとろんとしている様に見える。
「……あまり連続的に居すぎると、戻れなくなるぞ」
「戻ったら、お前の身体と同化したかの竜が暴れるのを、間近で見なければならない」
シバがトンとテーブルに置いたコップから、酒が少し零れた。
「つまり、“表”でかの竜を倒すということは、来澄、お前を殺すってことになる。その現実に、私はとても堪えられそうにない」
ヤケ酒、なのだろうか。
優等生の芝山が、例えシバの姿になっているとしても酒を飲んでるなんて妙だと思った。けど、わかる。痛いほどわかる。俺も、シバが魔物になったと信じ切って同じ気持ちになった。仲間に手を下すなんてこと、シバは絶対にしたくないはずだ。
こんな気持ちで食う飯が美味いか。
コックには悪いが、確かに俺とシバの箸はなかなか進まない。
干渉を始めたばかりの頃は馴染まなかったレグルノーラ独特の味付けにもだいぶ慣れた。時折味噌や醤油が欲しくなるが、牢屋にぶち込まれていたときのことを思い出すと、こうして食卓で飯を食わしてもらえるだけでもありがたい。
鳥や豚とは少し違う、クセのある動物由来のだし汁は、口の中に旨味と共に少し苦さが残る。けれどこの味だって、この世界の住人にとっては当たり前のものなのだろうし、俺がそれにとやかく言うことは決してない。仲良くするには先ず、出された食事を口にすることだと何かのテレビ番組で言っていた。未開の地の原住民とレポーターが接触したときだったか、彼らがタンパク源としている芋虫をレポーターが食う場面が衝撃的だった。と、それは極端な例なのだが、要するにレグルノーラに溶け込むために、俺は彼らと食事を共にする。
ほんの数ヶ月前まで、俺には仲間意識というモノは存在しなかった。
一人で生きていけばいいじゃないか、苦しいなら関わらなければいいじゃないか。そういう暗い感情ばかりが渦巻いて、誰とも積極的に接しようとは思わなかった。
美桜や芝山は俺の中で確実に大きな存在になっていて、それを失うということは自分も壊れてしまうかもしれないということなのだというのが、今ならわかる。実際、テラが殺されたとき、俺は俺ではなくなってしまった。今だって、喪失感が半端ない。けれどこうやって立っているのは、悲惨な状態になってしまった俺に手を差し伸べてくれる仲間がいるから。これがどんなにか俺の心を慰めてくれたか。
仲間が、わざわざ俺と同じ思いをする必要はないはずだ。
ドレグ・ルゴラはそうやって俺たちが苦しむのを面白がっている。それに乗っかってしまったら終わり。
抵抗しなければならない。
ヤツの行動に正当性を与えてはならない。
だから俺は、俺たちは、苦しくったって前を向く。
「最悪の事態ばかり考えてたら、何もできない」
俺は自分自身に言い聞かせるように言った。
シバは少し顔を上げ、小さく息を吐く。
「そう、かもしれないが」
「新しい塔の魔女ローラも言っていた。『信じ続けなければならない』いい言葉だ。俺もそう思う。信じ続ければ、かの竜を倒すことだってできる」
「身体を持ってかれたクセに、良くもまぁ何の根拠があって」
「根拠なんてない。けれど確か“ここ”は、レグルノーラ。信じる心がそのまま力になる世界……だろ?」
そう言ってシバに向けた顔が引きつっていたからだろうか。彼の涙腺が崩壊した。今は帆船の長、プライドの塊のような存在だってのに、まるで芝山哲弥に戻ったかのように顔をグチャグチャにして。
幸いなことに、声を殺して泣いていたシバに男たちは気付いていない。
俺はそっと震えるシバの背中を、無言でずっと擦り続けた。
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帆船の朝は早い。
未だ薄暗いうちから、無数の足音が床と天井を伝い響いてくる。
以前もテラと使わせて貰っていた二人部屋のベッドで泥のように眠ったはずなのだが、マットレスが固いせいか身体のあちこちが軋む。けどそれも、こうやって身体を具現化させたからこその感覚であって、意識のまま漂っていたときには感じることすら許されなかったのだと前向きに考えるようにする。
結局昨晩は、騒げるのは今が最後かもしれないとばかりに、かなり遅い時間まで騒いでいたようだ。すっかり悪酔いして千鳥足になってしまったシバを船長室に送るという名目で、俺は早々に食堂を後にした。意識を止めておくことすら限界に来ていたのだろう、船長室の扉を開けた途端にシバは消えた。一旦“表”に戻ってゆっくり休むのが彼にとって唯一の回復方法に違いない。
身支度を調えて甲板まで駆け上がると、ようやく明るくなってきたばかりだというのに、塔の魔女ローラが俺を待ち構えていた。
「よく眠れたかしら」
「お陰様で」
彼女は今日も明るい色のローブを身に纏っている。どこまでも続く暗い砂漠を背景に、彼女の姿は浮き出て見えた。
昨日と違うと言えば、彼女は一人ではない、お付きの者がおまけで付いてきていたというところ。塔の魔女ともあろうお方が自分の意思で自由に動き回るってのは、やはりよろしくないことなのだろう。監視要員か大変だなと、その人物の顔を見る。――見覚えが。
「救世主様、その節はご無礼を」
細身の青年、長髪でインテリな眼鏡をキラッと光らせた彼は。
「ルーク!」
学校内のゲートを監視してくれていた裏の干渉者の一人だ。
「こうしてまた会えるとは。光栄です」
ルークの差し出した手を握り返し、
「他の皆は」
と尋ねると、
「ダークアイと魔物の排除に勤しんでいたのですが、ローラ様に同行するようにと私に塔から強い要請がありまして。これも何かの縁です。共に戦いましょう」
良かった。干渉者協会の関係者は皆吹き飛ばされたんじゃないかと心配していた。所属はしていても、必ずしもあの場に居たとは限らない。当たり前のことだが、ホッとする。
「私は一人で来るつもりでしたのよ」
とローラ。
「ところが、出かけようとする私を、塔の連中は必死に止めるの。何も死にに行くわけじゃないわ。ちょっと全力で魔法を使おうとしてるだけだって説明したのですけれど、すっかり怒られてしまって。本当に面倒ですわよね」
「まぁまぁ。そこは仕方がないとある程度諦めも必要ですよ、ローラ様。第一、私は塔としがらみはありませんから、本当に同行するだけのつもりです。助言はしますが、口出しはしませんので」
ズケズケとモノを言うルークだが、一応ローラにはそれなりに気を遣っているようだ。彼女のイライラをなだめるように、優しい口調で諭している。
朝特有の冷えた空気が頬に貼り付いた。ふぅと息を吐くと、心なしか吐息が白く濁るように見える。
徐々に白んでいく空。相変わらず日の光の欠片も見えないが、着実に夜は明けていく。
「長が戻ったら、転移魔法を発動させるつもりで」
ローラが俺にそう言った直後、
「誰が戻ったらって?」
背後でシバの声がする。船長室のドアを潜り、金髪の美青年が涼しげな顔を見せている。
俺がよぅと手で合図すると、シバもそれに応えて手を挙げた。
船縁の近くに居る俺たちの側まで来ると、シバはニッコリ笑って、おはようと挨拶する。
「二日酔いは大丈夫?」
半笑いで尋ねると、
「この私を誰だと思ってる。……なんてな。足元がフラフラして、頭がガンガンするんで、ここに来る前にディアナ様にアルコールを分解して貰った。親に『酒臭い』と言われて詰め寄られたときにはこの世の終わりかと思ったが、元々“あっち”はかの竜のせいで既にこの世の終わり状態だった。そう思ったらどうでも良くなって。『どんな人間と付き合ってるんだ』とか『そんな不良に育てた覚えはない』とか、そんな野次さえ生きている喜びだと思うことにしたよ」
確かに、呼気から酒臭さは抜けている。
律儀に家に帰ってる、いや、帰されてるのか。強い力を持った干渉者とはいえ、彼も未成年。その辺、ディアナは気を遣ってるんだろう。日常生活を壊さない、できる限りギリギリまでいつも通りに過ごさせてやりたい。そんな気概がうかがえる。……俺の時とはえらい違いだ。尤も、彼らは俺と違って命を懸けてまで世界を救う必要はないわけだが。
「で、“表”は今どうなってる? かの竜は? 美桜は?」
話題を変えると、シバは表情を厳しくした。
「……神出鬼没な白い竜に、自衛隊は手を焼いてる。武器弾薬で封じ込めようにも、強力な魔法で跳ね返される。正体もわからず、分析も進まないから、対策のしようがない。滅茶苦茶だ。交通網は完全に死んだ。情報網も瀕死状態だ。いつどこに現れるかすらわからないのもあって、避難誘導も進まない。買い物難民で街は溢れ、大混乱が起きている。一旦家には戻されたものの、私だってジークが迎えに来なきゃ、ここに来ることすら難しかった。そして美桜は……、まだ、見つからない。ディアナ様の話だと、“表”から完全に気配が消えたと」
「ってことは、“裏”に居る?」
「わからない。何にも」
身体と意識が完全に分離してしまった俺にとって、“表”での出来事は対岸の火事状態だ。話を聞いたところでどうすることもできない。
歯がゆい。苦しい。
こんな悲惨な状況をどうやって打破できるっていうんだ。
押し込めていたネガティヴさがひょっこり顔を出しそうになって、慌てて引っ込める。
前向きだ。前向きに考えるんだ。
「こんな所でグチグチ言ったところで、何も変わりませんわよ。まずはやれるところから始めましょう」
暗雲をかき消すように、ローラが言った。
俺もシバも、ハッとして彼女を見る。
「大丈夫ですわ。未だ私たちには方法が残っている。一人ではありませんのよ。皆の力と知恵を合わせれば、きっと二つの世界を救うことができる。いちいち下を向いていては、それに気付くことだってできなくなりますわ」
ローラは恐ろしいほど前向きだ。
この逆境をものともしない。力強い。
「長、皆さんに伝えてくださる? 今から転移魔法を発動させる、各自衝撃に備えるようにと」
凜とした彼女は女神。
今、俺たちにできるのは、女神の示す方に向かうことだけ。
「了解。転移後、船の操舵は任せろ」
シバは親指を立て、軽くウインクした。