138.奥の手
手がジンジンする感覚は、案外心地のいいものだった。
何かに自分の意思で触れるということ自体久しぶりで、俺は感慨深く自分の手を見つめていた。ギュッと握る、この感触さえ懐かしい。そんなに長い時間が経過していたのだろうかと虚しくなるくらい。
ついさっきまで思念体でしかなかった俺が感傷に浸っているとも思わず、シバはと苦笑する。
「久しぶりに会ったと思ったらなんだ、気持ち悪いな」
俺はそれでも構わないと、鼻で笑い返した。
「……で、ローラ。ここに帆船の長を呼んだ理由は」
自分で招いたわけでもないのに客が一人屋敷に増えたことを、グロリア・グレイはあまり良く思っていなかったようだ。あからさまにご機嫌を悪くして、ローラに冷たい目を向ける。
「砂漠の先、黒い湖へと向かうため、彼には協力を仰ぎたかったのです。その前段として、グロリア・グレイには竜石のもう一つの使い方について教えていただきたくて」
ローラはグロリア・グレイに向き直り、姿勢を正してそう言った。
「もう一つ? 竜石は竜の力を封じるためにあるんじゃないのか」
今まで竜石を何度も使っておきながら、初耳だ。
俺はソファに座ったローラの後ろで、彼女の言葉に反応した。
「あまり知られてはいないけど、別の使い方があるようなの。私も文献の隅に小さく書かれた一文を読んだだけなのだけれど、もしかしたらグロリア・グレイはご存じなのではないかと思って。いえ、ご存じのはずですわよね。貴女は長い間竜石と共にあったのですし、何より竜石は竜の化石からできている。竜である貴女が知らないはずはありませんわよね」
ローラはグロリア・グレイにそう言って首を傾げ、彼女に同意を求めた。
どうやらもう一つの力とやらに覚えがあるらしく、グロリア・グレイは苦々しく笑い、また足を組み直した。
一方でシバは、初めて見る半竜の美女に胸を射貫かれ、
「竜なのか、本当に」
「かなり際どい服装なんだが」
などと、コソコソ俺に耳打ちしてくる。
今はそれどころではないのだと、俺はうんうん生返事をし、彼女たちの会話を見守った。
「一般的には、リョウの言う通り、竜の力を封じるために使う。竜が自ら使うのではなく、竜を操ろうとする人間が意のままにするため力を封じるのだ」
グロリア・グレイはあまり言いたくないとばかりに長くため息を吐いて、静かに語り始めた。
「未だ竜と人間の信頼関係が構築されていなかった頃、人間どもは我ら竜を支配しようと竜石に手を出した。互いの関係が深まるにつれ竜石は使われなくなっていったが、ドレグ・ルゴラの一件があり、またその力が注目されることとなった。しかし、今ローラが言ったのはまた別の話。竜石を丸く削り取って磨き、球体にしたときにだけ別の力が生まれるというのを知っている竜さえ少ない。何代か前の塔の魔女だったかが、えらくその石を気に入り、杖先に付けていた。アレを飾りとして使ったのか、実際にそういう目的で使ったのかは知らぬ。我とてそのような使い方、知っていてもやろうとは思わぬ。使い方を誤れば、第二第三のドレグ・ルゴラが生まれるからだ。それを急に、なりたての塔の魔女が口走るとは穏やかではない」
「ええ。私もそう思います。本当に、穏やかでは居られない状況なのですから」
ローラは背筋を正してグロリア・グレイを見つめている。
二人の様子から察するに、悪用されれば大変なことになるということだけはなんとなくわかる。それでも、ローラが必要とする、もう一つの力というのは。
「急激な魔力の増幅を、望んでいるのです」
金髪の魔女は自らの心を明らかにする。
グロリア・グレイは身体を前に倒し、ローラを睨み付けた。だが彼女は物怖じしない。寧ろ、グロリア・グレイが興味を示してくれたことに感謝するように、話を続ける。
「私が黒い湖を浄化すればいいと思った経緯をお話しします。とある古い古い本に、レグルノーラは昔、光の降り注ぐ美しい大地だったと書かれていました。それこそ、神話だとか伝説だとか言われた時代にさえ古いと言われていた話が書かれていた本に、ですから、信憑性はないのかもしれません。けれどそこには、レグルノーラは清らかな水に囲まれた美しい大地で、竜と人が暮らしていたのだと、当然のように書かれてあったわけです。確かに、動植物の繁殖には光は不可欠。暗い雲の隙間から漏れる光だけでこの世界が作られたとは到底思えません。この世界自体、科学がどんなに進んでも解析できぬ不可思議なことだらけだというのに、光がなかったと否定する根拠もないと思うのです。今、レグルノーラは分厚い雲に覆われ、真っ黒な湖の上に浮かんでいるというではありませんか。黒い雲に覆われたというのがそもそも、ドレグ・ルゴラが現れた前後だったという記述もありました。もう何百年も前の話です。この世には存在しないはずの白い竜が現れたことで、世界の秩序は乱れてしまいました。白い竜と黒い雲、黒い湖は必ずしも無関係だとは思えません。繋がっているのでしょう。どれか一つを正常に戻せばレグルノーラは元に戻るのではないかという考えが私の中に浮かびました。そのためにも、どうにかして湖を浄化したい。しかし、私たち人間の力には限界があります。魔力が増幅できたなら。そう思っていた矢先に、あの記述を見つけました。頼れるのはグロリア・グレイ、貴女しかいません。塔の魔女となった、この立場を利用してというのは甚だ傲慢かとは思いましたが、どうか、世界を救うためにも力をお貸しくださいませんか」
ローラは胸に両手を当て、必死に訴えかけている。
筋の通った物言いは、流石塔の魔女に選ばれただけある。問題は、グロリア・グレイがどう思うかだが。
「……で、具体的に、汝はその先何をしようと企んでおるのか」
グロリア・グレイのこの一言に、ローラは声を弾ませる。
「はい。先ず一つは、帆船の復元ですわ。砂漠を自由に動き回るには、やはり帆船が一番有利だと思われます。帆船の細部までご存じなのは、やはり長でしょうから、その記憶を使って帆船を復元できないかしらと考えたのです」
「できるというのか? そんなことが」
目を丸くするシバ。ソファの横に周り、ローラの側にひざまずいて顔を覗き込むと、彼女は自信たっぷりに頷き、
「ええ。理屈としては簡単です。人の記憶を元にして具現化させるのは得意なの。協力してくださいますわよね?」
「当然!」
シバは両手で彼女の手を握り、嬉しそうに何度も頷いている。
「けれど、帆船が復元されても乗組員がいなきゃまともに船は動かせない」
俺が言うと、ローラは待っていましたとばかりに俺の方に向き直った。
「乗組員たちは今、キャンプで保護されています。市民部隊のライルに寄れば、彼らは可能ならばまた砂漠へ赴きたいと願っているそうですわよ」
――無事だった!
あのとき、モニカの転移魔法で森へ飛ばした彼らは生きている。
最悪の状態で、まともに別れの挨拶すらできなかったことを思いだした。
彼らが自分たちの時間軸へ戻れることを望んだが、そういうわけにはいかなかったのは、モニカの記述があくまで森への転移だったからだろうか。いずれにせよ、無事であると知れば一安心。俺は胸を撫で下ろした。
「つまり、船さえ元に戻せばまた砂漠へ戻れると」
シバの顔が緩んでいる。
ローラが頷き返すと、シバの顔は更に緩んだ。
「船が復元された後、今度はリョウ様の記憶を辿っていただきます。砂漠の果て、大地の淵まで行かれたという話を伺いました。その位置情報が知りたいのです。帆船を転移させ、直接乗り込みます。たくさんの人間を一人ずつ転移させるよりも、帆船ごと転移させる方がずっと簡単な魔法で済みますし、何より砂漠で何かあったとき、大きな帆船の方が何かと対処しやすいでしょう。能力者たちを大量に連れ出し、黒い湖に聖なる光の魔法を注ぐ。このとき必要になってくるのが竜石のもう一つの力。どのくらいの面積があるのか、どのくらい大量の水があるのか、私にはピンときません。けれど、とにかく大きいのでしょう、その湖は」
「ああ、デカいってもんじゃない。海のような」
「うみ?」
「湖というよりは海のような、けどアレは海じゃなくて」
潮の匂いがしなかったから、湖だと思ったのだろうか。生命の育みや包まれるような壮大さを感じなかったから、海ではないと判断したのだろうか。押し寄せる波もない、引く波もない。真っ平らな黒い水面がどこまでも続く光景に、俺はあのとき、咄嗟に湖だと。
「そんなに大きいんじゃ、浄化なんて絵空事で終わりそうだ」
唯一海の広さを理解するシバが、ローラの側で屈んだまま俺を見上げる。
俺もあの光景を思い出し、少し首を傾げた。
「汚れた水を浄化するにはその何倍もの水を必要とする。黒い水を浄化するにも、並大抵な魔力では難しいだろうな。あとは能力者の力量と、竜石の力次第、か」
「いいえ、もう一つございますわ、リョウ様」
とローラ。
「“心の力”。この世界では、思いの強さがそのまま力に反映されることをお忘れですか。ドレグ・ルゴラを倒し、平穏を取り戻すために皆一丸となって魔力を注げば、きっと浄化できます。私たちは信じ続けなければならない。それを忘れれば、あっという間に邪念に支配されてしまうのです」
そうだった。
ここはレグルノーラ。信じる心が力になる世界。できないと思っていたら何もできない。できると信じたことが現実になる世界。
「黒い水さえ浄化できれば、分厚い雲も消える。少し遠回りかもしれないけれど、かの竜が“表”にいる今が絶好の機会なのではないかと思うの。……どうかしら」
ローラは、シバとグロリア・グレイ、俺の順番で同意を求めた。
彼女が無計画に竜石のもう一つの力を求めているわけではないということに理解を求めると同時に、これ以外浮かばなかったのだという切迫感も伝わった。
これ以上の策があるかといわれれば、恐らく皆無だ。真っ正面から戦ったところで、ケチョンケチョンにされるのがオチ。ならば、外堀から攻撃してやろうってことらしい。作戦としては悪くない。
「……それで行こう」
俺が言うと、シバもうんうんと頷いた。
「それしかないだろうな。“表”ではとてもじゃないが、まともに戦える自信はない」
「そういうこと。まずはこっちでやれることをやる。そうしてヤツが弱ったところを見計らって、身体を取り戻す」
「……身体を? どういう意味だ」
「ああ。身体をかの竜に乗っ取られた。俺の本体は“表”。この身体は意識を具現化させた状態。つまり、シバ、お前と同じってこと」
「――はぁぁああ?!」
シバはデカい声を上げて立ち上がり、ソファの裏を通ってずかずかと足音を立て、俺のところまで歩み寄った。そのまま胸ぐらを掴み、眉間にしわ寄せ凄んでくる。
「どういうことだ、来澄。テラは。相棒のテラはどうした。お前が同化するのは、金色竜のはずじゃ」
「……死んだ」
「あぁ?!」
「テラは死んだ」
「い、いつ」
「時空の狭間に落ちて間もなく、ドレグ・ルゴラがテラを握りつぶし、湖に沈めた」
「ば……っ! お前、冗談もほどほどに」
「ヤツは俺の身体を乗っ取って勝手に同化し、暴れまくっている。為す術もない」
「為す術もって、そんな」
「無理だ。身体の内側でどんなに抵抗しても、何もできなかった」
「じゃあ、お前は自分の身体が“表”で何をしてるか知って」
シバは目を見開き、更に胸ぐらを掴む手の力を強くした。奥歯をギリリと鳴らし、息を殺して、シバは俺の答えを待っている。
「知ってる」
俺はギュッと目をつぶって、唇を噛みしめた。
脳裏に様々な光景が浮かぶ。俺はじわりと目を開けて、シバを見る。怒りに満ちた目が、俺に向けられている。
「俺の身体を使って、ヤツは魔法をブッ放った。街を破壊した。人間を殺した。そして、食っ」
「――それ以上言うな!」
「ヤツにとって、人間は食糧でしかない。人間になりたがっていたクセに、人間を食う。どんなに探っても、ヤツの目的が見えない。何をしたいのか、どうなりたいのか。戯れに世界を壊そうとしているだけなのか、何が愉しいのか。孤独をアピールして、俺の心を弄んで。二つの世界を一つになんて変な理想を掲げながら、いざ一つになろうとすると壊し出す。ヤツにとって生きることはすなわち破壊で、憎悪で、嫉妬で、憤怒で、一瞬の快楽のために何もかも無にしようとする。それを目の当たりにして、俺がまともな精神状態を保てなくなるのを喜んでいた。そのまま消えろとばかりに俺の意識を脳みその奥に追いやって、我が物顔で俺の身体を操った。……全部、わかってる。わかっててどうにもできず地団駄を踏んでいた。グロリア・グレイに具現化されるまで、俺は意識体のままあちこちさまよった。俺がこんなことになってるなんて知らずに、みんなが必死に頑張ってくれたことも知ってる。どうにかして事態を収拾しようと動いていたことも。……美桜が、消えたことも」
シバの目が泳いだ。
「何故それを」
「ヤツが美桜に何らかの魔法をかけた。不発だったようだが、恐らくそれが原因で、美桜は消えた。お前らが美桜の部屋に飛び込んできたとき、俺はあの場に居た。形を保つこともできず、幽霊みたいに浮遊しているだけの俺には何もできなかった。歯がゆいとかもどかしいとか、そういう感情さえ失いかけていた。……全ては俺が原因だ。カッコつけて一人で穴に飛び込んで、何の作戦もないままどうにかしなければって心だけ先行して。反省してる。だからもう、しくじることはできない。どうにかしなきゃ、本当に二つの世界は滅んでしまう」
シバは俺の胸ぐらから手を離し、軽く突き飛ばしてきた。よろりよろりと俺がふらついている間に、ヤツは「畜生!」と怒鳴り、竜石でできた壁を思い切り素手で殴りつけた。何度も何度も殴り、その振動は肩の古傷にどんどん響くだろうに、シバはしばらく壁を殴り続けた。
「つまり、“表”の白い竜を殺せばお前も死ぬ。今はそういう状態だってことだろ」
ようやく手を止めたシバが青白い顔をして俺の方を向いた。
俺は無言で首を縦に振る。
「分離は、できないのか。かの竜とお前の身体を、どうにかして分離できないのか」
今度は首を横に振る。
「どうにかしてヤツの隙を突くしかない。今のところ、その隙自体が全くない。ヤツを弱らせるか、気を逸らさせるか」
「そのためにも先ず、かの竜の力の供給源と思われる黒い湖の浄化を進めなければなりません」
ローラが立ち上がって、言葉を重ねる。
「これでわかりましたね。早急に、帆船を復元させなければなりません。グロリア・グレイ、貴女にも協力いただきます。球状に加工された竜石をお持ちであれば、直ぐにくださいませんでしょうか」
ローラに言い寄られ、グロリア・グレイは益々機嫌を損ねたような顔をした。
三人が見つめる中、彼女はしばらく思案し、自分の頬を撫でたり腕を撫でたりしていた。何度も目を閉じたり、開けてみたり、長く息を吐いて俺たちの顔を順番に見てみたり。それが数分間続いた後、彼女は、
「仕方あるまい」
と自分に言い聞かせるように独りごちた。
「用事が済んだら竜玉を砕くこと……で、どうだ」
「は、はい」
「悪用されればと我は言った。されぬうちに、汝が竜玉を砕け。約束を守れぬようなら、我が汝らを根絶やしにする。……これでどうだ」
「勿論!」
ローラは声を弾ませ、幼子のように喜んでいた。