136.起死回生を信じて
「美桜が……居ない」
彼女の部屋で、ディアナが呆然と立ち尽くしている。
ベッドの上には寝具のみが残っていて、窓はガラッと開けっぱなし。花柄のカーテンが無情にも風に揺らいでいる。モニカとノエルがそこから地上を見下ろしたが、落ちた形跡もないようだ。
顔面蒼白となって崩れ落ちる家政婦の飯田さん。胸を押さえながら、必死に意識を保とうとしている。
「お嬢……様……。まさか、美幸お嬢様の時と同じことが」
「美幸の時と、同じこと?」
ディアナが聞き返すと、飯田さんは辛そうに声を詰まらせながら上を向いた。
「そうです。美幸お嬢様も、美桜お嬢様と同じようにしばらく昏睡なさって。目を覚まされた後……、高いビルの上から身を投げてしまわれたのです。まさか、まさか美桜お嬢様も」
「――いや。未だこの世界から美桜の気配は消えていない。大丈夫」
飯田さんを安心させようとしているのか、ディアナは力強く言う。
「けれど、何だろう変な胸騒ぎがする。昨晩見た人影と何か関係が」
「――ディアナ様! アレを!」
窓から外を覗いていたノエルが、大慌てで叫び、ディアナを窓際に呼ぶ。
駆け寄るディアナ。
一緒に外を見ていたモニカが彼女に場所を譲る。
「アレって、もしかして」
指差したのは住宅地の遙か先。ビルがひしめく街並みの隙間に、何本も噴煙が上がっている。その少し上空に、白い見慣れぬものがある。
「竜だ」
ディアナがぽつり呟く。
「白い竜が居る」
大きく羽を広げ口から炎を吐く竜の姿を、彼女は捉えていた。
「けど、美桜じゃない。……てことはドレグ・ルゴラがリアレイトに……!」
考えたくはない、とディアナは付け足した。しかし直後に首を振る。
頭を掻きむしり、苦い顔でレグルノーラのそれに似た黒い雲を睨み付けた。
「凌は……負けたということか」
目をギュッと閉じ、ディアナは歯を食いしばった。
受け入れ難い言葉に唖然とするノエルとモニカ。
「まさか。そんなはずは。救世主様は必死に戦って」
美桜のベッドに座り込み、モニカは頭を抱えている。
「けど、確かにミオの時とは竜の形が違う。それに、あの竜から立ち上ってる真っ黒いものを見ろ。アレは確かに、レグルノーラでも見た邪悪な……」
モニカにノエルの声が届いていたかどうか。
――ふいに、チャイムが鳴った。
慌てるように何度も何度も繰り返すチャイム。
飯田さんは立てそうにない。代わりにノエルが大慌てで玄関へ走りドアを開ける。
バンと勢いよく飛び込んできたのは芝山と須川、そして陣。
「朝早くからすみません!」
芝山がデカい声で挨拶し、靴を脱ぎ捨ててズンズン奥に進んでいく。
眼鏡の奥で鬼のような形相をした芝山は、美桜の部屋まで来ると、
「テレビ! どうせレグルノーラの人間ばっかだから、テレビなんて見てないんだろ! テレビ見て!」
リビングに来るよう皆に合図し、先回りしてテレビのスイッチを入れた。
「なんですか、てれびーって」
きょとんとするモニカも、須川に手を引かれてリビングへ。
「大変なことになってんだよ。テレビは“こっち”での情報源。飯田さんはテレビ見ながら家事とかしなさそうだもんなぁ。……って、そんなのはどうでもいい。これ見て!」
画面に映し出される巨大な白い竜。
破壊され、燃やされていく都市と、逃げ惑う人々、対応に追われる行政や駆け回る緊急車両の映像が速いペースで切り替わっていく。まるで戦争状態だ。緊急避難を呼びかけるアナウンスや被害状況を知らせるテロップが延々と繰り返され、一刻を争う事態になっているのだと訴えてくる。
「エリアメールもうるさいし、場所によってはサイレンも鳴ってる。携帯も持ってない、テレビもラジオも不要な生活を送ってちゃ、気付かないんだろうけど」
言葉を失い、食い入るようにテレビを見つめる面々に、芝山が強く言う。
「“表”に白い竜が現れた。アレって、美桜じゃないよな。美桜はもっと若くて、鱗も綺麗だった。あんなにゴツゴツした男性的なフォルムじゃないし、何よりあんなに邪悪じゃない。もしかしてアレって、いわゆる“ドレグ・ルゴラ”ってヤツじゃないのか。来澄が戦いを挑みに行ったかの竜が、何で“表”で暴れてる? それってつまり、来澄は負けた。救世主の力をもっても、あの恐ろしい竜は止められなかったってことなんだろ。どうなんだよ!」
バンと、芝山はテレビの角を強く叩いた。薄型テレビが衝撃でグラングラン揺れ、一瞬画面がぶれる。
「そういう……意味で間違いないだろうね」
一番後ろでテレビを見ていたディアナが、深いため息と共にそう返した。
「凌は負けた。けれどおかしいのだ。凌の気配がする。ここのところずっとだ。今もどこかで、凌が私たちの様子を覗ってるんじゃないかと思うくらい、直ぐ側に凌の気配を感じるのだ」
ディアナは部屋中をグルッと見回して、一瞬俺の方に目を向けたが、気のせいに違いないと直ぐに目を逸らした。
「昨晩ふと、美桜の部屋から強い気配がしてね、私は夜中にむっくり起き上がって彼女のところへ行ったのさ。そうしたらそこに凌が――、いや、凌だったような気がする。けれど同時に感じたことのない邪悪な気配もした。美桜が居なくなったことと、凌の気配がすることと、かの竜が“表”に現れたことと、全てが繋がれば謎は解けるのかもしれないが」
「――美桜が、消えた?」
屈んでテレビを見ていた陣が、その言葉に反応して立ち上がった。
「消えた、とは」
「言葉の通り。朝起きて身支度して、飯田さんが飯を作りに来てくださって。今日は少し涼しいから、窓を開けて差し上げたらと飯田さんに言われて、モニカが部屋に入って気が付いた。窓は全開、出かけた形跡はない。事故で建物の下に落ちてやいないかと目を凝らしたが、この真下は駐車場で、遮るものなど何もない。微かに気配はするのだ。けれど、今の美桜は気配が弱すぎて、探すに探せない。要するに、どこへ行ったかわからないのだ」
「この広い世界で美桜を探すなんて……」
「あんな格好で空を飛んでるんだ。目立てばいいが。ところで長、“表”の連中は魔法の概念すらない世界でどうやってかの竜と戦おうとしている?」
長と呼ばれ、ピクリと芝山が反応した。ズレた眼鏡をクイッと直し、苦しそうな顔をディアナに向ける。
「さぁ……。わからないな。自衛隊の爆撃機やミサイルもあまり効果的ではないらしいし、かといってあんな都市部でこれ以上激しい戦闘を行うわけにもいかないはずだ。人命第一と言いながら爆撃許可しただけでも政府を褒めるべき、みたいな風潮はある。正体は不明だし、突然消えて別のところに出現してみたり、容赦なく街を焼き尽くしたと思えば、人間を鷲掴みにして口に放り込んでいたって証言もあったみたいだし。葬り去りたいところ山々だけど、全くもって対処方法がわからず地団駄踏んでる状況なんだろう。それは、ボクたちも一緒だけど」
「自衛隊……レグルノーラで言う市民部隊のようなものか。確かにこの映像を見ても、かの竜は出たり消えたりを繰り返している。アレでは作戦の立てようもなかろう。それにしても、そうか、かの竜は人肉の味まで覚えてしまったか。本来竜は肉食であっても知能のある人間など食わないのだがな……。レグルノーラに居れば自然に補充できる魔法エネルギーの代替として人肉を選んでいるなんてことはまさか」
「……不穏なことは言わないでくださいよ、ディアナ様。それより、そうだ。お願いがあって来たんだった。ボクを、レグルノーラに連れてってくださいませんか」
「ハァ?」
唐突なお願いに面食らうディアナ。
どういう意味だと首を傾げ、芝山を見下ろす。
「“二次干渉者”なんです、ボクたち。ボクも須川さんも、“一次干渉者”の影響下でないとレグルノーラには飛べない。陣君はレグル人で実体は“向こう”だし、モニカもノエルも能力者ではあるけれど干渉者じゃない。ディアナ様に頼むしかないと思って慌てて来たんだ。どうにかボクを、レグルノーラに連れてってくださいませんか」
「し……、しかしな、長。この非常時にリアレイトを離れることが果たして得策かどうか。それに、今更戻ったところで、私は居場所さえ捨てて」
「夢で見たんだ。いや、正確には夢じゃなかったかもしれない。“新しい塔の魔女”を名乗る金髪の若い女性が、帆船の長であるシバを呼んでいた。かなり重要な用事があるらしいし、ボク自身がシバとして赴かなければどうにもできないことらしい。この事態を打開するための方法の一つとして、彼女はとんでもないことを考えたと」
「――ちょ、ちょっと待ってください! 何ですか、その“新しい塔の魔女”って。ディアナ様というお方がいらっしゃるというのに!」
モニカが思わず声を荒げた。テレビの前で縮こめていた身体をグンと起こして芝山に突っかかる。芝山は自分より大きなモニカに圧倒されつつ、そんなことを言われてもと眉をひそめた。
「私がこちらへ飛ぶ前にもう決まっていたことだよ、モニカ」
と、ディアナ。
「塔の魔女の使命を放り投げてまで、この事態をどうにかしようと思ったのだ。後継者を直ぐに決め、滞りなく塔の運営ができるようにと私が指示した。候補の中にお前の親友ローラがいた。長の証言から察するに、彼女が選ばれたのだろう。適任だ」
ローラという名前を聞いた途端に、モニカの表情が緩んだ。胸に両手を当て、ホッとしたように息を吐く。
「そうですか、ローラが。よかった。彼女ならば安心です」
「で、その新しい塔の魔女が、長を呼び出してどうする気だと?」
ディアナが話題を戻すと、芝山は首を傾げ、
「帆船に関係があるような話をしていた。でも、確かボクが行けなかった間に、帆船は砂漠の縁から黒い湖の中に落ちたとか……」
「ええ、そうです。救世主様と私、ノエルの三人で確かに目撃しました。あのときは本当にシバ様が魔物になられてしまったのかと、気が気でなかったのですよ」
モニカが補足すると、ノエルも芝山も、うんうんと内容を確かめるようにうなずいた。
「……なるほど。しかし、レグルノーラへ飛ぶ手段を失った二次干渉者の力を必要とするからには、ローラにはローラなりの考えがあるのだろう。わかった。飛ぶのは長だけでよいな?」
「ありがとうございます!」
ディアナの手を両手で握りしめ、芝山は満面の笑みを見せた。
・・・・・‥‥‥………‥‥‥・・・・・
都市機能は完全に麻痺していた。
神出鬼没の白い竜に、日本中が大混乱した。
公共交通機関は完全にストップ。街に溢れた人々が、帰宅方法さえ失って右往左往している。テレビもラジオもネットも、白い巨大な竜の話題で持ちきりだった。どこぞの国の生物兵器だとか、太古の恐竜の復活だとか、はたまた異星からの襲撃だとか。相変わらずマスコミはクソのような予想を立てて民衆を刺激し、世間はそれに踊らされて大騒ぎした。少し前にあった私立高校の消滅事件と共に、何かおかしなことが起こっていると、解決方法もまともな分析もないコメントを流しまくっている。
まさかもう一つの世界が存在し、そこで破壊の限りを尽くした竜が“こちら側”へやってきただなんて誰も思わないわけで。その竜が二つの世界を繋げて大混乱に陥れようとしているだなんて、大部分の人にとっては絵空事にしか過ぎないわけで。
この事実を知っているのは一握り。
“裏の世界レグルノーラ”に関わった数少ない人間だけが、この事象の本当の原因を知っている。
意識だけが、まるで幽霊のようにあちこちをさまよった。
どうにか自分の立場と現状を伝えなきゃと思いつつ、俺の存在に完全に気が付いたのは、グロリア・グレイただ一人。
目は合う。
けれどそれだけじゃ。
こうやって意識が自由であるウチに、何とかしないと。
この意識さえ消えてしまったら、もう手が打てなくなる。
・・・・・‥‥‥………‥‥‥・・・・・
再び、俺の意識はレグルノーラを囲う森の奥深く、竜石の眠る洞穴の中にあった。
カンカンと小気味よい音が洞穴にこだまし、多くの人の気配を感じる。
竜石でできた宮殿を包み込んでいた虹色に輝く壁や天井には足場が組まれ、職人たちが専用の工具で石を切り出している。美しかった壁はボコボコで、以前より抉られ、空間がかなり広くなっていた。
宮殿の応接間まで意識を飛ばすと、ゆったりと茶をすするグロリア・グレイの姿が目に入った。その向かいに、金髪の塔の魔女ローラがいる。彼女は出されたお茶をそのままに両手を膝の上に丁寧にそろえて、じっとグロリア・グレイの顔を見つめていた。
「そんなに難しい顔をする必要はあるまい、若いの」
グロリア・グレイはニヤリと笑ったが、目の前の竜人に警戒しているのか、ローラは眉一つ動かさない。展望台でライルと話していたときとは全然表情が違っている。
「就任挨拶にしては、雰囲気が悪い。何か言いたげじゃな」
トンッとサイドテーブルにカップを置いて、グロリア・グレイは足を組み替えた。
「色々と教えていただきたいことがあるのですけれど、どこから話せば良いのかと」
漸く声を出したローラだが、既に額には汗が滲んでいる。
「好きに話せば良かろう。取って食ったりはせん」
「ええ、わかっています。貴女は本当に美しいし、誇りを持った素晴らしい竜。その貴女が認めた救世主リョウが消えたという噂について、塔は私にも真実を話しません。何が起こっているのか、貴女ならばご存じなのではないかと」
ローラの白い肌をつうと汗が垂れていった。
グロリア・グレイはフフンと笑い、面白くなさそうに口をひん曲げた。
「勿論知っている。あの愚か者め、止めれば良かったものを、危険を顧みずに戦ってあっさりと破れた。しかも、こともあろうか自らの肉体を奪われてしまった。一部の竜は人間と同化することで強大な力を得る。人間からしたらその逆なのだろうが、要するに二つが合わさることでより強い生物に進化する。それをドレグ・ルゴラは覚えてしまった。リョウは相当前から目を付けられていたようでの。なるべくしてなったと、そう言ってしまえばそれまでのこと。力が強いばかりでなく、相当にずる賢いのだ、かの竜は」
肉体を、の辺りでローラはふと表情を変えた。
思っていたよりもかなりヤバい状況だったということなのだろう。長く補足息を吐いて、呼吸を整えている。
「ただ、我と別れたあの日、同化を解きやすくする呪いをかけたのだと、リョウには伝えたはず。精神的に追い込まれて身体を取り戻すことすら難しくなっているのか、ドレグ・ルゴラに隙がなく、機会を失っているだけかはわからんが、どうにか二つの身体を分離できれば、ヤツは力を失うだろう。そのためにも竜石は欠かせぬ。採掘を許可したのはそういうわけだ」
「ありがとう……ございます。やっとスッキリしましたわ。塔がひた隠しにする理由も、わかった気がいたします。それで、貴女から見て、救世主リョウは期待できる人物だと?」
「まぁ……そうじゃな。我の好みではある。汝はヤツを知らぬのか」
「ええ。残念ながら」
「それなら話で聞くよりヤツとは直接喋った方が早い。せっかくの機会だ、二人で話せばよいではないか」
「はい?」
ローラは首を傾げる。
「救世主リョウは行方知れずですのよ?」
「行方知れずではない。具現化の方法を忘れておるのだ」
「と、言いますと」
「ヤツめ、しばらく意識の切り離しをせぬ暮らしを続けていたせいで、一旦切り離した意識をレグルノーラで具現化する術を忘れておるのだ。――のぅ、さっきからコッソリと会話をのぞき見しておるのは汝だろう、我が愛しきリョウよ」
グロリア・グレイが俺の目を見た。
パンと頭の中で何かが弾けるような音がして、俺は自分の身体が具現化されていくのを感じた。目で色を見て、鼻と口で呼吸して、耳で音を感じ、自分の足で立つ。頭の先から指の先までしっかりと色が付き、今までなかった重さまでしっかりと感じ取れる。
久方ぶりに具現化された俺の意識は、ディアナに最後の手向けと着せられた彼女デザインの戦闘服を着ていた。救世主に相応しいスタイリッシュなデザインのそれは、濃いグレーの中に赤いラインが映えていて、俺には勿体ないくらいのカッコよさで。
ローラがキャッと悲鳴を上げて、思わず立ち上がっていた。
そりゃそうだ。突然見たことのない男が隣に立ってりゃ、誰だってびっくりする。
「は……、じめ、まし、て」
片言に挨拶すると、彼女は警戒してさっと身構えた。
「あ、なたが、リョウなの?」
眉をひそめ、恐る恐る俺を見るローラ。
俺はゆっくりとうなずいて、彼女の表情を観察した。
何と言われるだろう。思ったよりも弱そうだとか、こんなのが救世主なのとか。
けれどローラは、俺のそんなネガティブな考えとは裏腹に、こんな言葉で俺を迎えてくれた。
「なんて素敵な人……! それに、強い意志を感じる。初めまして、リョウ。私はローラ。ディアナ様の跡を継いで塔の魔女になったばかりよ。お会いできて光栄だわ」