134.理由
ドレグ・ルゴラに身体を奪われて以降、意識の飛ぶ回数が格段に増した。
自分が自分でなくなってしまったことに拒否反応を起こして、意識を身体に止めることができなくなっているのだろうか。時に人を殺め、時に街を焼き尽くす。どうやらヤツは肉食で、人間を喋る肉だとしか思っていない。意識が戻ったとき、口の中で血の味がしたり、吐く息が生臭かったりすると、それだけで俺は逃げ出したくなった。
ヤツと同化してから一体どれくらいの時間が経過しているのか、もうわからなくなってしまった。意識が身体から離れる時間がどんどん増して、俺は自分が完全に消えてなくなってしまうのじゃないかと思い始める。
感覚が麻痺する。
俺は何者なんだ。この意識は本当に俺なのか。
俺の身体は死んでないし、こうして思考を続けているということは、俺の意識も死んでいるわけじゃないはずだ。けれど、俺は自分の身体を自由にはできないし、自分の身体に居続けることもできない。
それでも、“表”で仲間たちが戻ってくるのを信じてくれていたり、“裏”で塔の連中が竜石の採掘を再開したりしているのを垣間見ると、俺は未だ消えてはいけないのだ、どうにかしてこの恐ろしい状況から脱しなければと強く思う。
グロリア・グレイが言ったように、激しい接吻と共にかけられた魔法が上手く効いているのなら、俺はドレグ・ルゴラを身体から追い出すことができるのかもしれない。しかし、実行するのは至難の業だ。どんなに必死に自分の身体を操ろうとしても、ドレグ・ルゴラは俺の身体を最初から自分の物だったかのように自在に動かす。竜化するのも人間の姿に戻るのも、恐ろしいほどスムーズだ。それこそ、『私ならば存分に発揮させることができる』と言い放った、その通りになってしまった。
非力だ。
俺はあまりにも非力なのだ。
どれだけ力が強くなっても、それを全部奪われたら手も足も出ない。
この状態でどうしたらドレグ・ルゴラを止められるか。考えても考えても答えが出ない。
けれど、このまま終わるのは絶対に嫌だ。
キースのように全てを奪われて、ヤツの器でしかなくなるなんて、俺は絶対に。
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壊された街が見える。
美しいレンガ造りの建物や、細長く天に向かって伸びていたビル群が根こそぎ倒された街が。
その中で一つだけ、倒されずに残っているのは白い塔。強い魔法の力で守られたその塔だけは、美しさを保ったまま立ち続けている。
まるで、最後の抵抗をするように。
人々の営みが潰えた場所で、数体の翼竜と共に戦い続ける市民部隊の姿も見えた。廃墟と化した街に蔓延る魔物たちを次々に倒していく彼らに、未だ絶望の色はない。
未だ諦めちゃいけない。
彼らの姿は、俺の胸を熱くした。
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ドレグ・ルゴラがレグルノーラの街に現れたという噂は急激に広がっていた。
自宅を壊され、キャンプに身を寄せていたジークにも、当然のように話が伝わったようだ。
目の下が黒くなるほど疲れ切った彼は、テント内で出された茶をすすりながら、長くため息を吐いている。
「参ったな。どこもかしこも滅茶滅茶だ」
茶色のくせっ毛を掻きむしりながら、ジークは苦い顔をする。
一緒のテーブルに着いていたのは、第一部隊隊長のライルだ。
「第二部隊が消息を絶って、干渉者教会が襲撃されたのが、遠い昔のように思えるよ。これまでたくさんの隊員が死んだ。彼らが無防備だったとも弱かったのだとも思えない。通常考え得る装備はきちんとしていたはずだし、素人だったわけでもない。相手があまりにも強すぎたんだ。しかも、人間の肉を食うとは……。考えられない」
ライルは両目を手で覆って身震いした。
そうか、市民部隊は事後処理を。いたたまれない。
ジークはライルの表情に顔を歪めた。
「凌が、かの竜を野放しにするとは思えないんだけどね」
また一口茶をすすり、
「竜に変化してまで美桜を止めて、かの竜と戦うために大穴に自ら飛び込んで。なのに今、かの竜は我が物顔にレグルノーラで暴れ続けている。凌の気配は感じるのに、まるで姿が見えない。何かがおかしい」
首を傾げてまた深くため息を吐くジーク。
不審に思ってくれるだけでもありがたい。
「彼は本当に型破りだったな」
とライル。少しだけ笑顔が戻る。
「型破り? ああ、無鉄砲ってことね」
とジークまで。もう少し言葉を選んで貰いたい。
「凌はね、相手のことを慮るあまり、突き進みすぎるタイプだから。優しすぎて相手に気持ちを確認することすらできないんだ。で、暴走させちゃう。真っ直ぐすぎるのは短所かもしれないけど、長所でもあったんだよね。僕は僕でそういうところは好きだったけど。ライルも何度か凌と話したんだろ」
「あ、あぁ。色々と最悪なシーンばかり見てしまった。彼が私を見るだけで肩をすくめそうなくらい」
「へぇ、例えば」
「出会いはダークアイにやられそうになってたところだったし、二度目は……、言ったら本人に怒られそうだな、半竜人みたいになっていた彼を、かの竜の使いだと勘違いした私が捕らえた」
「ああ! 聞いた聞いた。そうか、捕らえたのはライルだったのか。あれは酷かった。本当に無謀なんだよ。いくらピンチだからって、“表”に竜を召喚して同化するんだから。そういえばあのときも、かの竜の使いをどうにかしようと思ったのか、彼はかの竜の使いと共に“裏”に転移したんだ。今回も似たようなものか。本当に、凌は相談するってことを知らない」
……俺の姿が見えないのをいいことに、二人は言いたい放題だ。
けれど、話をしているうちに二人の緊張が明らかに取れてきている。時折見せる優しい目が、なんともこそばゆい。
「最初にリョウのことを知ったときは、彼が救世主になるなんて思わなかった」
ライルは言うが、
「いや、僕はかなりの素質を感じたね」
ジークはそう言って腕組みし、椅子の上でふんぞり返った。
「使い切れないだけで力がある人間は存在する。自分の可能性を信じて、多少無茶をしてでも必死に頑張ってきたからこそ、彼はあそこまで上り詰めた。彼の実直さを知っているからこそ言うんだけど、余程のことがなければ、彼は誰かを裏切ったり、苦しめたりはしない。だから、今姿を見せないのにも、きっと何か理由がある」
「その……、理由なんだが」
ライルはグッと前のめりになり、ジークに耳を貸せとジェスチャーする。ジークは渋々身体を曲げて、ライルの側まで頭を持っていく。
テント内に二人しか居ないのを確認し、それでも念のためトーンを落として、ライルはジークに耳打ちした。
「リョウが闇に落ちたという噂がある」
「――へ?」
ジークは声をひっくり返して驚いた。
何を言っているんだと眉をひそめ、ライルの顔をまじまじと見ている。
「塔の連中の動きがおかしい。元々彼らは秘密主義だが、協会が破壊された直後から何やらコソコソと妙な動きをしているらしい。通常の交通手段を使わず、魔法で転移してばかりいるし、かの竜の動きや被害状況についても、こちらの問い合わせには一切答えない。情報を遮断され、市民部隊側も犠牲者が増えるばかり。何かかの竜のことで不都合なことが起きたのだろうと推測していたのだが、偶々そういう噂を耳にしてしまった。どういう意味なのか、私にはよく分からない。が、金色竜になったというリョウの姿が全く見えないことと何か関係があるのではないかと疑ってしまう。ジーク、君は何か知らないか」
「いや……」
意味がわからない。ジークは眉間にしわ寄せ、そういう顔で何度も何度も何度も首を傾げた。
「“表”でディアナ様とご一緒なら、何か塔の情報が入ってきてるんじゃないのか」
ライルは言ったが、ジークは首を横に振る。
「塔は完全にディアナ様を切った。今は次の塔の魔女を早期に決定すべく審議中だと。塔を捨てたディアナ様にはもう、用事はないという感じだったよ。使者の一人も寄越さないし、僕が行っても門前払いだった」
「……何か、ある」
「あるな」
二人は互いに頷き合った。そして、これ以上話せば誰かに話を聞かれてしまうと思ったのか、それきり口を噤んでしまった。
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激しい空腹で目を覚ます。
ひとしずくの水分でも欲しい。そう思って伸ばした手は、人間のそれではなかった。
長い鉤爪のある爬虫類系の手には、未だ幼さが残っている。
幼少のドレグ・ルゴラに入り込んでいると、俺は直感的に思う。ここしばらく、何故かしらヤツの記憶の中に意識が紛れ込む。まだ恐ろしい竜ではなかったヤツが、心を狂わせていく過程を少しずつ見せつけられる。
「白い……。竜の子か」
大人の声がして、ヤツはゆっくりと身体を起こす。
深緑の年老いた竜の巨体が覆い被さるようにして覗き込んでいる。
「誰の子どもだ……? 可哀想に。お腹を空かせているんだね。おじさんが食べ物を採ってきてあげよう」
いずれヤツが“翁”と呼ぶその老竜は、優しい声で不安を取り除こうとしてくれた。
直ぐ側に、卵の殻があった。
誰にも見守られず、ヤツはここで生まれたらしい。
卵を温めていただろう親竜の姿はない。
薄暗い森の奥。ヤツは初めから、孤独の中に居た。
翁の大きな背中に揺られ、白い竜は初めて群れに合流する。しかしそこで直ぐに、ヤツは地獄に落とされる。
「グラント、背中の白いのは……?」
森の少し開けた場所には、ゴツゴツとした大きな岩が幾つもあった。せり上がった太い木の根っこは、小さな竜たちの格好の遊び場となっていた。薄暗い森の中に柔らかな陽が差し込み、チラチラと木の葉が光っていた。
静けさをかき消すように現れた幼い白竜に、まず成竜たちがどよめいた。続いて子ども竜たちが成竜らの陰に隠れた。
グラントの背中からゆっくりと下ろされた白いヤツの身体を、成竜たちはまじまじと見つめている。
「白い、竜の子だ」
そう紹介された白い竜は、集まった視線にすくみ上がった。
「あり得ない色だ」
と誰かが言う。
「誰と誰の子どもか」
「白い色は森では目立つ。生まれる場所を間違ったのでは」
と言う者までいる。
「森の外に広がる砂漠なら、白い鱗の色も隠せましょう。そこへ連れて行くという手は」
しかし、グラントは食い下がらない。
「既に弱っている。親もない。同じ竜として見捨てるわけにはいかない。儂がこの子を育てよう」
グラントの固い決意に、皆は渋々歩調を合わせる形で頷いたが、実際、腹の内はもやもやしていたに違いない。
白い竜を連れたグラントが自分のねぐらに帰ろうとするその後ろで、竜たちはわざと聞こえるように彼を嘲った。
「あんな醜い白い竜を、何故育てようなどと」
「白い竜など聞いたこともない。悪いことの始まる前触れでは」
まだ言葉のわからない小さな竜であったヤツにも、その悪意は届いていた。
自我が目覚め始めた頃には、ヤツは自分なりのしっかりとした考えと力を持つようになっていた。しかし、会話の相手は年老いたグラントだけで、同じ年頃の竜たちとは遊ぶこともなかった。
相変わらず成竜たちは白い竜を蔑んでいたし、それを見ていた子ども竜たちは、白い竜と一緒に遊ぶことを憚っていた。
グラントはヤツを“白いの”と呼んだ。
「白いの、お前はもっと他の竜と交わらねば」
しかし、ヤツは首を横に振る。
「翁、僕は皆の輪には入れません。皆が、嫌な顔をする」
「しかしな、白いの。これから長い時間を生きていくためには、様々な相手と一緒に生きていくことを考えねばならぬ。いつまでも儂のような年寄りと一緒では、お前の先が思いやられる」
グラントはこうやって、時々ヤツを諭していた。
「先なんて」
とヤツは言う。
「嫌われていると知って、その場に飛び込むことの辛さを、翁は知らない。彼らは僕を居ないものにしたい。それでも殺さないのが竜の気高さなのだとしたら、僕は竜である必要がないのではないかと思うのです」
「……不思議なことを言う」
「そうでしょうか。僕は白く生まれて良かったと思うことは何一つなかった。翁が拾ってくれなかったら、獣の餌になっていたでしょう。それでもよかったのではないかと思うことがあるんです。僕は、生まれるべきではなかった」
「そんな恐ろしいことは、言うべきではない」
「いえ。敢えて言います。僕は、生まれるべきではなかった。誰にも必要とされないということは、つまりそういうことなのです」
ヤツの感じていたコンプレックスは、俺とは桁外れだったに違いない。
俺も目つきが悪いとか妄想癖があるとかで爪弾きされることはあったが、少なくとも存在を否定されることはなかった。ヤツは自我の形成期に散々な目に遭ってきたようだ。
同族であるはずの竜から無視され、白い身体を持ったことで様々な獣に襲われ死にかけた。その度に翁が守ってくれたようだが、根本的な解決策などなく、ただ苦しい、悔しいだけの日々を過ごしていた。
文献にもあったように、白い竜は自然界には存在しない突然変異体だったようだ。リアレイトで言うところのアルビノというやつらしく、そういった個体は様々な理由から長く生きることが難しい。病気にかかりやすかったり、目立って天敵に襲われやすかったり。だからヤツも、相当苦労した。そうして、どんどんどんどん、黒い感情を重ねていく。
自分を認めない世界を恨み、破壊願望を募らせていったヤツが、様々な名前で呼ばれ始めたのは、成竜となって砂漠へ旅立った頃。自暴自棄になり辿り着いた先が、あの黒い湖だった。
黒い感情の蓄積された水を浴び、身体に取り込み、ヤツはとうとう、自分を完全なる悪に染めてしまう。
白い鱗の竜として生まれた自分を認めない世界を破壊する、それだけのために生きることを決意する。
……こんなモノを見せて、俺を味方に付けようとしているのか。
自分は悪くない、環境が全て悪かったのだという言い訳を正当化しようとしているのか。
『同情など望まない』
ドレグ・ルゴラは俺に言う。
『お前こそ、私の過去を覗き見てどうしようというのだ。私は自らの意思で闇に身を投じた。お前は大人しく私に身体を差し出していれば良い。私の力と、お前の中に秘めた力を使えば、二つの世界を混沌に陥れることができる』
その、混沌の先には何がある?
全てを破壊し尽くした後、お前は無になった世界で何をしたいんだ?
『うるさい、うるさいうるさいうるさい……! 黙れリョウ。お前には私の理想はわからない。動揺させようとしているのか。人間の分際で』
その、人間の身体と同化することで大きな力を得ているお前が言うセリフじゃない。
ドレグ・ルゴラ、お前、本当は単に――。
・・・・・‥‥‥………‥‥‥・・・・・
バッと明るい光が視界に飛び込んできた。破壊された街の中で、ヤツは足元に魔法陣を描いていた。
――“リアレイトの美桜の元へ”
転移魔法だ。
こいつ、この状態で。
『レグルノーラでは満足できぬ。この力を発揮するには、それ相応の舞台が必要だ』
何を考えてる。
“表”でお前は何を。
『あらゆる因縁に決着を付ける。私は、全てを終わらせなければならない』
ヤツはそう言って、光の中に俺の身体を溶かしていった。